【キキタビ】宮崎の古事記・日本書紀ゆかりの神社で御朱印めぐり
日本の神話で思い出すのはどんな物語ですか?
例えば、高天原(たかまがはら)から神さまたちが地上へ降りてくる「天孫降臨(てんそんこうりん)」。
弟が兄の大事な釣り針をなくしてしまう「海幸・山幸(うみさち・やまさち)
」……。
子どもの頃から親しんできた日本の神さまたちの物語が、大切にされ息づいている土地が宮崎なのです。
そして、これらの物語は古事記(こじき)・日本書紀(にほんしょき)という歴史書に記されています。
この記事では、神話のふるさと宮崎県内をめぐる『キキタビ』の魅力を紹介します。
キキタビは、日本の神さまを深く知る旅
2冊の歴史書、古事記の「記」と日本書紀の「紀」を合わせて「記紀」(キキ)と呼びます。
古事記は年、712日本書紀は720年に編さんされました。
宮崎県は記紀に書かれた地名が今も多く残り、神話の世界を舞踊で表した神楽が県内200か所以上の地域に伝えられています。
記紀の編さんされた年から1300年が経つのを記念して、2012年より記紀や神楽の奥深い魅力を広く知ってもらうために、さまざまな記念行事が行われてきました。
2021年は集大成として「国文祭・芸文祭みやざき2020」(開催期間2021年7/3〜10/17)が開催されます。「山の幸 海の幸 いざ、神話の源流へ」をキャッチフレーズに、さまざまな文化プログラムが予定されています。
期間中、宮崎県内の協力神社では「記念御朱印」の授与が行われ、この時にしかいただけない御朱印も中にはあるそう。(記念御朱印の授与は2021年10月末までを予定)
そのほか、キキタビのガイドパンフレットやキキタビオリジナル特製御朱印帳が配布されています。
宮崎で記紀にゆかりの神社をめぐる、キキタビ(記紀旅)をしてみませんか。
開催イベントなどについて、詳しくはキキタビ公式ページをご覧ください。
それではキキタビがもっと楽しくなるように、記紀についておさらいしてみましょう。
世界の始まりの物語 天神地祇(てんしんちぎ)編
記紀は約1300年前の奈良時代に編さんされ、現存する日本最古の歴史書の一つとされます。
どちらもこの世界が生まれた天地開闢(てんちかいびゃく)の物語から始まり、古事記には第33代推古天皇(すいこてんのう)、日本書紀には第41代持統天皇(じとうてんのう)までの歴史が綴られています。
国生みの物語
天と地ができた時、何人もの神が現れては身を隠されていました。
やがて、現れたイザナキとイザナミは天の浮橋に立ち、矛を下に突き刺してかき混ぜました。矛を引き上げてポタポタと落ちる滴が固まってできたオノゴロ島で夫婦の契りを行い、十四個の島と三十五柱の神を生みました。
火の神を生む時に負った大やけどがもとで、イザナミは死んでしまいます。
イザナキは火の神を切り殺し、黄泉(よみ)の国に妻を迎えに行きます。黄泉の国の食べ物を食べた妻は本来帰ることができませんが、「あなたと一緒に帰ろうと思いますので、黄泉の神と相談します。私を決して見ないで」と言って立ち去りました。
しかし、その約束を破ったイザナキにイザナミは襲い掛かります。必死に黄泉の国の境まで逃げてきたイザナキは大岩で道をふさぎ、かろうじて妻を撃退できました。
地上に戻ったイザナキは黄泉の国の穢(けが)れを清めるために、日向の阿波岐ヶ原(あわきがはら)で身を洗いました。すると、さまざまな神が生まれ、左目からアマテラス、右目からツクヨミ、鼻からスサノオが誕生したのです。
江田神社
イザナキ、イザナミを祀るこの神社は、パワースポットとして有名。境内にある御神木のオガタマノキとクスノキも必見。参拝後は散策をしながら、みそぎ池まで足を延ばしてみては?
所在地/
宮崎県宮崎市阿波岐原町産母127番地
東霧島神社
境内に祀られている「神石」は、イザナミがこの世を去って悲嘆にくれたイザナキの流した涙が岩になり、その岩をイザナキが十握(とつか)の剣で3つに切ったもの。
所在地/宮崎県都城市高崎町東霧島1560番地イ号
天岩戸の物語
八百万の神々が暮らす高天原(たかまがはら)に、アマテラスの弟神スサノオがやってきました。
最初のうちはおとなしくしていたスサノオでしたが、アマテラスがかばうのをいいことに日に日に乱暴が激しくなりました。とうとう機織り小屋に皮をはいだ馬を投げ込み、驚いた機織りの娘は尖った道具が刺さって命を落とします。
さすがのアマテラスも堪忍袋の緒が切れて天の岩戸に隠れてしまい、高天原も地上も闇に覆われていきました。
これは一大事と、神々は天安河原(あまのやすかわら)に集まり妙案を探ります。知恵の神オモイカネに浮かんだのは、宴を開きアメノウズメが踊ってその場を大いに沸き立たせること。
果たして、大きな歓声が上がるのを聞いたアマテラスは、アメノウズメに何事かと問いかけます。
「あなたにもまさる貴い神がおられます。それで、喜んで歌い舞い笑っているのです」
アマテラスは好奇心に駆られて岩戸を少し開けました。すかさずタヂカラヲがアマテラスの手をつかんで引っ張り出し、世界に再び光が戻ってきたのです。
天岩戸神社
アマテラスが籠った天岩戸をご神体としてお祀りする神社。岩戸川を挟んで東本宮と西本宮があり、ご神体は西本宮の拝殿裏の遥拝所から神職の案内を受けて拝観できる。
所在地/宮崎県西臼杵郡高千穂町岩戸1073番地1
天孫降臨の物語
地上の国、葦原中国(あしはらのなかつくに)は自分の子孫が治めるべきだと考えたアマテラス。我が子アメノオシホノミミを行かせることにしました。
天安河原に集まった神々は話し合い、まずは、国を譲れと伝える使者を、地上を治めるオオクニヌシのもとに送ることを決めますが、全くうまくいきません。
動揺したアマテラスがオモイカネに相談した結果、選ばれたのはタケミカヅチ。力比べでオオクニヌシの子に勝つと、オオクニヌシも服従の気持ちを表し、ようやく地上は高天原によって治められることになったのです。
アメノオシホホノミミの子のニニギが地上に行くことになり、ニニギはアマテラスから三種の神器を授けられ、たくさんの神と共に地上へ出発しました。
途中で地上の神が行く手を阻むように立っていました。アメノウズメがその神に問いかけました。
「名はサルタビコです。ここに出ていますのは、天つ神の御子が天からお降りになると聞きましたので、案内役としてお仕え申し上げたく参上いたしました」
こうしてサルタビコの先導で、ニニギたち一行は日向の高千穂のくしふる峰に天降りをしました。
高千穂神社
ニニギノミコトを始めとする6柱の神さまを総称した高千穂皇神と十社大明神をお祀りする。1778年に再建された現在の本殿は、歴史を感じさせる風格。
所在地/
宮崎県西臼杵郡高千穂町大字三田井1037番地
霧島岑神社
高千穂峰の周囲に開かれた神仏習合の霊場として、薩摩藩主島津氏より厚い崇敬を受けた。寺院も建立されていた当時の名残なのだろう、参道の入り口に仁王像がある。
所在地/
宮崎県小林市細野4937番地
霧島東神社
霧島連山を信仰の対象にする山岳信仰の神社として創建された。イザナキノミコト、イザナミノミコトを主祭神とし、ニニギ、サルタヒコも祀られている。
所在地/
宮崎県西諸県郡高原町蒲牟田6437番地
木花開耶姫(コノハナサクヤヒメ)・磐長姫(イワナガヒメ)の物語
笠沙の御崎でコノハナサクヤヒメと名乗る美しい乙女に出会ったニニギは、コノハナサクヤヒメの父である、山の神のオオヤマツミへ使者を送り、結婚を申し込みました。
オオヤマツミは、コノハナサクヤヒメと姉のイワナガヒメも一緒に嫁がせます。姉の容姿がとても醜いのを見て恐れたニニギは山の神のもとへ送り返し、妹とだけ一夜を共にしたのです。
山の神はこのことを嘆きました。「イワナガヒメを妻とすれば岩のようなゆるぎない永遠の命を得られ、コノハナサクヤヒメを妻とすれば木の花が盛んに咲くような繁栄が得られる……。天つ神であるニニギさまのお命は、華やかではあるが限りあるものになるでしょう」
その後、天つ神であるあなたの子を身ごもっていると、コノハナサクヤヒメに言われたニニギは言い放ちます。
「一夜で身ごもるわけがない。私の子ではなく、国つ神の子だろう」
疑われたコノハナサクヤヒメは、出入り口のない産屋を隙間がないように内側から泥で塗り固めたうえ、火をつけて出産をしました。ホデリ(ウミサチヒコ)、ホスセリ、ホオリ(ヤマサチヒコ)の三兄弟が無事に生まれたのです。
都萬(つま)神社
別名、妻萬宮。地元の人は「さいまんさま」と呼ぶ。この土地の妻という名は、ニニギがコノハナサクヤヒメに妻にしたいと申し込んだことから。
所在地/
宮崎県西都市大字妻1番地
銀鏡(しろみ)神社
イワナガヒメは鏡に映った自分の顔の醜さを嘆き、放り投げた鏡が遠くへ飛ぶ。昼夜問わず明るく照らした村を白見と呼ぶようになり、後に鏡をご神体として祀った。
所在地/
宮崎県西都市大字銀鏡492番地
愛宕(あたご)神社
ニニギとコノハナサクヤヒメが出会ったとされる愛宕山には、愛宕神社を含めて4社の神社があり、良縁を祈願する参拝者が後を絶たない。
所在地/
宮崎県延岡市愛宕山6112番地ロ号
海幸・山幸の物語
ヤマサチヒコは、兄のウミサチヒコが大切にしている釣り針を海でなくしてしまいました。海辺で途方に暮れていたヤマサチヒコを潮の神シホツチが、海神ワタツミの宮殿へ導きます。
海神の娘トヨタマヒメと幸せに暮らしていましたが、三年の月日が経ったころヤマサチヒコは釣り針を探していたことを思い出します。幸い鯛ののどから釣り針が見つかり、地上に戻って兄に釣り針を返しました。
ところが兄は荒々しい心をおこしてヤマサチヒコを攻めてくるようになったため、ヤマサチヒコは海神から授けられた呪文と潮の満ち引きを操る玉を使って兄を懲らしめたのです。
しばらくして、ヤマサチヒコのもとにやってきたトヨタマヒメは、身ごもっていました。
トヨタマヒメは産屋に入る際決して覗かないでほしいと懇願しましたが、ヤマサチヒコはこっそり覗いてしまいます。目に映ったのは苦しむ巨大なサメ。
「私の姿を覗き見されました。これはとても恥ずかしいことです」
トヨタマヒメは海へと帰りますが、愛しい子どもへの思いは抑えきれず、妹のタマヨリヒメに子どもの世話を託しました。
青島神社
海神ワタツミの宮殿から地上に帰ったヤマサチヒコが、住まいとした場所。明るい色の砂を踏みしめて、南国の樹木に囲まれた拝殿に詣でると、晴れ晴れとした気持ちになれる。
所在地/
宮崎県宮崎市青島2丁目13番1号
野島神社
境内には熱帯性のアコウの巨木が自生し、御祭神のシオツチを感じずにはいられない。月替わりや月次祭で限定頒布される御朱印は、趣向が凝らされて人気が高い。
所在地/
宮崎県宮崎市内海6227番地
潮嶽(うしおだけ)神社
全国で唯一主祭神としてウミサチヒコを祀る。ヤマサチヒコとの争いに敗れたウミサチヒコが磐舟に乗ってたどり着き、住まいとした地。神社の前の森には、磐舟が埋められているという。
所在地/
宮崎県日南市北郷町北河内8901番地1
鵜戸(うど)神宮
断崖絶壁にぽっかり空いた洞窟に、海神の娘トヨタマヒメが産屋を建てた。鵜の羽をカヤの代わりにして産屋を作り始めたが間に合わず、生まれた子はウガヤフキアエズと名付けられた。
所在地/
宮崎県日南市大字宮浦3232番地
神武天皇の物語
ウガヤフキアエズノミコトの皇子カムヤマトイハレビコ(後の神武天皇)は、平穏に暮らしていましたが、ある日、兄イツセに相談します。
「どこにいけば、天下の政を平安に治めることができるであろうか。もっと東に行こうかと思う」
カムヤマトイハレビコは日向から東の大和に向けて出発することを決意します。
日向を出発し、長い年月をかけて東に進み、苦労を重ねながら大和を平定することができました。ついに橿原宮で初代天皇に即位し、政治を行うことになったのです。
宮崎県には、古事記や日本書紀には書かれていない、次のような物語も伝承されています。
神武天皇は高千穂の峰の麓の狭野(さの)(高原町)で生まれたとされ、幼少期、サノノミコトと呼ばれていました。周辺には、その名を冠した狭野神社、幼いころ遊んだとされる御池(みいけ)などがあります。
大和へ向かう前には皇宮神社で約三十年を過ごし、四十五歳で美々津から出発されたといわれています。
都農神社で祈願した一行は美々津で出発の準備をしておりましたが、急遽予定を早め旧暦八月一日の明け方、出発をすることになりました。
村人は精一杯のはなむけとして急ごしらえの団子を作り「起きよ、起きよ」と起こしあって一行を見送り、神武天皇は兵を率い、東を目指したのです。
狭野神社
神武天皇が誕生したとされる地に狭野神社が鎮座する。社殿は明治40年に宮崎神宮から移築されたもの。また、現在の宮崎神宮には狭野神社境内の杉が使われている。
所在地/
宮崎県西諸県郡高原町大字蒲牟田117番地
宮崎神宮
境内には「おきよ丸」と銘打って復元された古代の船が展示されている。西都原古墳群から出土した埴輪をもとに作られた。神武天皇はおそらくこのような船に乗っていたのだろう。
所在地/
宮崎県宮崎市神宮2丁目4番1号
都農(つの)神社
日向の国第一の大社であった由緒を感じさせる。神武天皇が東遷の折に、国土平安、海上平穏、武運長久を祈念したという。
所在地/
宮崎県児湯郡都農町大字川北13294番地
立磐(たていわ)神社
神武天皇が航海の安全を祈願した神社として知られ、神武天皇が腰掛けたとされる石が御神体として祀られている。御神木の根元の洞には小さな赤い鳥居が見え、温かな気持ちに。
所在地/
宮崎県日向市美々津町3419番地
大御(おおみ)神社
かつて神武天皇が東征の途中この地で天照大御神を祀り、航海の安全と武運を祈願して再び出航したと伝わる。江戸時代には、延岡藩主や天領役人などから篤く崇敬を集めた。
所在地/
宮崎県日向市日知屋1番地
宮崎に伝わる美しいお話 恋々秘話(れんれんひわ)編
次は宮崎でひそかに大切にされてきた、美しいお話をご紹介しましょう。
歴史書に綴られていなくとも長く語り継がれてきた、いにしえの人々の思いは私たちに強く訴えかけてきます。
日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の物語
休む間もなく九州を始め各地を平定し続けたヤマトタケルは、ようやく東国を征伐し終え大和の国への帰途につきました。
途中、美濃と近江の境にある伊吹山へと山の神を征伐しにやってきましたが、護身の剣なしで山の神の毒気にあたったために急激に体が衰弱し、伊勢にたどり着くのが精一杯でした。
故郷に帰れないことを悟り、次のように歌いました。
「倭は くにのまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし」
(大和の国はすばらしい。重なり合う山々は青い垣根のよう。その山なみに守られた我が故郷の大和は本当に美しい)
ついにヤマトタケルは命が尽き、巨大な白鳥に姿を変え空高く飛び立っていきました。
その後数百年経って、ヤマトタケルは霧島連山の山中で一人の僧の前に現れたのでした。
白鳥神社
僧・性空が霧島連山の山中で法華経を誦していると、一人の老人が現れ「我はヤマトタケルなり、来たりてこの山に住む事久し、汝我がために神社を設けよ」と告げ、白鳥と化して飛び去った。
所在地/
宮崎県えびの市大字末永1479番地
源氏と平家の物語
平安時代の終わり、壇ノ浦の戦いで源氏に敗れた平氏。
源氏の総大将の源頼朝から、平氏の追討を命じられた那須大八郎は、落人の後を追って険しい山々を越え椎葉の里にやってきました。
息をひそめて山深い厳しい土地で暮らしている平氏の人々。もはや戦意を失い抵抗もしないと見た大八郎は、鎌倉幕府には討伐を終えたと報告を行います。
平氏の人々と親しく交わるうち、大八郎は平氏の姫君の鶴富と恋に落ちます。その幸せも束の間、鎌倉幕府より帰還命令が……。
身籠っていた姫に「男児ならば我が故郷の下野の国へ、女児ならば手元に残すがよい」と告げると、別れを惜しむ暇もなく帰国の途につきました。
そして、生まれた新しい命は、椎葉を治めた那須氏の先祖となったのです。
椎葉厳島神社
石段を登りきるとすぐに目に飛び込んでくる、鮮やかな朱色の社殿。古くは丹と呼ばれた朱色は水銀から生まれ、防腐剤の役目を果たすだけでなく、魔よけの意味を持つ。
所在地/
宮崎県東臼杵郡椎葉村大字下福良字上椎葉
百済王(くだらおう)の物語
660年、大国・唐に滅ぼされた百済の王族、禎嘉王(ていかおう)は逃れる途中、海上で悪天候に見舞われ家族と離れ離れになってしまいました。
運よく禎嘉王の一族は日向の小丸川沿いにそれぞれたどり着き、福智王子は父との再会を心待ちにしていました。
「今会いに行くと、父上に身の危険が迫るかもしれない」
考え直した王子は正月にようやく父を訪ね、その後も孝行を続けました。その姿に人々は深く心を打たれ、中でもドンタロさんと呼ばれる有力者は、陰になり日向になり禎嘉王親子を助けます。
平和な日々は長くは続かず、攻められた禎嘉王は矢傷が元で命を落としてしまいました。里の人たちは丁重に禎嘉王を弔い、祠を建立してお祀りしました。
王子は里のために尽くし、人々から篤く尊敬を受けたといいます。
神門(みかど)神社
1300年以上続く師走祭りは、禎嘉王親子が再会する祭礼。約30のやぐらが燃え盛る中、比木神社から父を訪ねてきた福智王子の一行が厳かに進む様子は、壮大な歴史絵巻さながら。
所在地/
宮崎県東臼杵郡美郷町南郷神門
比木(ひき)神社
境内では福智王子の投げた杖が、チシャの大木となって威容を誇る。また由緒ありげな苔むした五輪塔は、王子の墓として地元で大切に守り続けられている。
所在地/
宮崎県児湯郡木城町大字椎木1306番地イ号
おわりに
記紀や伝説に登場する日本の神さまや古代の人たち。遥かに離れた現代に生きる私たちと同じように、さまざまな感情を抱いていました。
物語の舞台となった地で、それらに思いを寄せるともっともっと物語がおもしろくなるでしょう。
古事記・日本書紀に記された記紀・神話・神楽の魅力に触れる旅「キキタビ」。2021年10月末まで、プロジェクトに参加している神社にて、記念御朱印をいただけます。宮崎でキキタビをしてみませんか。詳しくは、キキタビ公式ホームページをご覧ください。
宮崎でキキタビをしてみませんか。
詳しくは、キキタビ公式ホームページをご覧ください。
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