御朱印・神社お寺の検索サイト
行基ゆかりの龍尾寺へ。
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青山一丁目から半蔵門線にて九段下へ。日本人の心のふるさとのひとつである靖国を参拝していく。
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浜松町から六本木まで大江戸線で移動。予約しているホテルにチェックインして、青山一丁目まで散歩。乃木坂を通る。乃木希典ゆかりの乃木神社を拝観していく。将軍の住んだ家であり、そして大喪の礼後に…続きを読む
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王寺町内には片岡という場所がある。たしか古い城跡(片岡城)があったと聞くが詳しくは忘れてしまい見に行っていない。そこは、いわゆる聖徳太子と達磨に由来する片岡山伝説、または飢人伝説とも言われ…続きを読む
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伊丹の町全体が有岡城の城郭を成していた。この神社も当然城の一部であった。北端に位置し、惣構えの「岸の砦」が置かれていたそうだ。荒木村重によって手厚く保護されていたことは、この神社の紋章が織…続きを読む
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何度か真田幸村関連で訪れたこともある心眼寺へ立ち寄る。今日再訪したのは幸村ではなく、見廻組の墓を見に来た。入り口の見慣れた幸村の石碑の向かいに、真新しい 「京都見廻組 桂早之助 渡辺吉…続きを読む
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英賀寺内町にあった英賀御堂は、播磨における浄土真宗布教の拠点として栄えました。英賀合戦後、この亀山に移築され亀山御坊と呼ばれるようになります。釣鐘や飾瓦などは英賀御堂のものです。また、本堂…続きを読む
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秀吉から黒田官兵衛が一万石を授かった際、今後は戦の陣地に軍旗を立てるよう命じられます。父である黒田職隆と、官兵衛はさっそく旗を仕立て、この播磨国総社でご神体を勧請し、祈祷したと伝わります。
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尼崎にある佐々成政が死んだ法園寺へ。 天正15年(1587年)の九州征伐で功をあげたことを契機に、成政は肥後一国(現在の熊本県)を与えられた。成政は、地域住民の感情に配慮せず検地を行おう…続きを読む
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東梅田の太融寺にある淀殿の墓を見てきた。明治になってからこちらに移設されたそうだ。ちなみに豊臣秀頼の墓はこちらにはない。
亀岡から車で湯の花温泉という山の中にある鄙びた温泉郷へ向かう。そこのさらに奥に、谷性寺(こくしょうじ)という真言宗寺院がある。山崎合戦で敗れ、小栗栖の森で土民に刺し殺された光秀。その首は…続きを読む
先日、荒木村重の墓といわれるものを伊丹で見た。しかし、没したのは道薫となって移住した堺だと聞いた。そしてこの南宗寺がそれだと知ったので見に来た。古田織部の作と伝えられる方丈前の枯山水庭園や…続きを読む
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阪堺電車で花田口まで乗り、そこから歩き、もうひとつの堺事件スポット・妙国寺へ。双方の銃撃戦でフランス人たちを多数殺害してしまった土佐藩士ら。事件翌日の早朝、京都にいた山内容堂は、すぐさま…続きを読む
秀吉と北政所の坐像や、御霊を祭る堂に感動。撮影不可なのが残念。附属の掌美術館で開催中の特別展「九州に残った豊臣氏―豊後国・日出藩主木下家と北政所―」も一緒に見学。秀吉没後、徳川につき、大分…続きを読む
三木氏がここに城を構え、 的形から室津にかけて支配し一大勢力を誇った場所です。一時は播磨における最大の都市であり、別所氏の三木城、小寺氏の御着城と並ぶ、播磨三大城に数えられるほどの巨城で…続きを読む
飯盛山山頂から獣道と竹藪を抜け、七曲りと呼ばれるコースを通って下山し、ゴールであるこちらへ。ここも2年ぶりの再訪。実際にあった心中事件の主人公で、歌舞伎や浄瑠璃、文楽にも題材にされたお染…続きを読む
説明不要の世界遺産・天龍寺へ。曹源池のある方丈裏の庭や、後醍醐天皇の木像がある多宝殿などを堪能。幕末好きとしては、禁門の変時に来島又兵衛率いる長州藩の部隊が駐留した場所。
10月に開催される斎宮行列や、クヌギの木の皮を剥かないまま使用した黒木鳥居、小柴垣、そして『源氏物語』第十帖「賢木(さかき)の巻」の、光源氏と六条御息所わかれの段。光源氏との結婚を諦めた…続きを読む
元町大丸前にある三宮神社へ。ここは戊辰戦争中、備前岡山藩とフランスとの間で発生した神戸事件のあった場所である。きっかけは、この神社前を大砲を曳いて行進中の岡山藩兵の一団を、フランス水兵が…続きを読む
黒田官兵衛と、その息子である黒田長政ゆかりの、京都にある報恩寺に来た。この寺は長政の京都における宿舎になった場所で、息を引き取ったとされる「最期の部屋」も残されている。快慶作と伝わる阿弥…続きを読む
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