御朱印・神社お寺の検索サイト
住吉大社裏手の坂にある一運寺へ。ここには大石内蔵助と息子の大石主税、従者の寺坂吉右衛門の墓があります。もともと一運寺と彼らには何の縁もありません。ここから少し離れたところに龍海寺という寺…続きを読む
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『軍師官兵衛』ではナレーションだけで終わってしまいましたが、別府城や野口城(現野口神社)など三木合戦における出城のひとつで、その中でも屈指の激戦地になった神吉城址へ。荒木村重が信長謀反を決…続きを読む
秀吉が賤ヶ岳の合戦後に高台院や淀君らを連れて観桜会を催した逸話があるこちらへ。枝垂れ桜が有名な名所。桜の下で茶を点てたであろう千利休の供養塔も境内にあります。また、秀吉が詠んだと言われてい…続きを読む
雲龍寺にある、別所長治とその妻照姫の首塚。自害した際、長治は当時の住職に金天目の茶碗を贈った逸話があります。住職は首実検後、この地に二人の首を埋葬したとのこと。 照姫の辞世の句「もろも…続きを読む
三木合戦で、秀吉が最後に本陣を置いた場所であり、別所長治の首実検を行った場所でもある本要寺。
別所一族累代の菩提を弔う霊廟がある法界寺。長治の首のない遺体を埋葬した場所と言われています。ここにも彼の騎馬像があります。また、毎年四月に合戦を絵物語にした掛け軸を用い絵解きをすることで有…続きを読む
『花燃ゆ』で、久坂玄瑞の愛人として登場したのが、鈴木杏演じる辰路。彼女は京都島原にあった桔梗屋(現存せず)の芸妓で、本名は井筒タツ。久坂との間に子があり、その子孫が下京区にあるこちらの寺に…続きを読む
歩いて光縁寺へ。山南敬助総長をはじめとする新撰組隊士らと、沖田総司の縁者(一説には姉)の墓。梅田に墓のある大阪新撰組を率いていた7番隊長・谷三十郎もこちらに分骨されていたりする。 この…続きを読む
ここは平清盛が都を福原京へ移した際、この地へ京都の北野天満宮を勧請したものと伝わる。急な階段をあがると、神戸の街を一望のもとにおさめることができる。
土佐街道を抜けて上子島沢砂防公園を越え、高取山を登る。しばらく行くと高取藩主・植村氏の菩提寺であったこちらが見えてくる。延暦寺の末寺で、江戸初期に植村家政の邸宅があった場所に創建されている…続きを読む
天誅組が五條進駐後に本陣を置いたのがこの桜井寺。さらに幕藩体制下で初の新政府(五條新政府)を置いた場所でもある。境内には、斬首した五條代官所役人らの首を洗った石手水鉢がある。
五條市役所から北東に歩いて極楽寺という寺の墓域へ。天誅組に斬首された鈴木源内ら6人の墓がある。
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近鉄川西駅から石川側に向かう。甲田という古くて曲がりくねった住宅地の中にある「水郡邸」を見ていく。幕末当時、伊賀神戸の代官を務める家であった。天誅組が堺に上陸後、大阪狭山を経てこの屋敷に入…続きを読む
錦織神社へ。こちらの参道に、「天誅組河内勢顕彰碑」がある。刻まれた名前、およそ60名。碑には「花と咲き花と散りにし 人々の若き命を 誰が惜しまざる」と大きく正面に彫られている。そして、碑の…続きを読む
天誅組の足跡をたどっている。特に大きな勢力を占めていた河内勢については、とにかく参加人数が多いため調べれば調べるほど史跡の存在を知ることになる。そんな河内勢の、首領格の一人に伴林光平という…続きを読む
天誅組の黒幕とされ、金剛山で挙兵し平野区にある満願寺で幕府の捕り方に追われ自害した藤原道春こと中山忠伊。昨年満願寺を訪ねた際は説明の石碑と、位牌が存在することしかわからなかったが、桑津天…続きを読む
齢延寺へ久しぶりに向かう。堺事件で切腹をまぬがれた9人の土佐藩士のうちの1人・田丸勇六郎の墓を見学。彼の子はのちに本家の鍋井家を継ぐ。大阪信濃橋で洋画研究所を開く洋画家鍋井克之その人である…続きを読む
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織田信長の尾張時代からの古参家臣で、一時は羽柴秀吉や明智光秀などそうそうたる面々をおさえ、織田家中で最大規模の勢力を誇った佐久間信盛。しかし、10年続いた石山本願寺との戦いにおいて何ら調…続きを読む
船場道修町の神農さんこと少彦名神社参拝。江戸の頃から薬の問屋などが並ぶ一角。
両替商「天五平五」の一方の雄「平野屋五兵衛」の墓へ来ました。平野屋五兵衛は本名を高木道頓。通称が五兵衛で、現在の茨木市の生まれです。1715年に亡くなっています。大阪の両替商十人組の中でも…続きを読む
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