神社とお寺の違いはどうして分かりづらいの?
神社とお寺の違い、分かりますか?
神社とお寺、神道と仏教。なんとなく違いは分かるけれど、同じようなものだと思っている人が多いのではないでしょうか?
日本の歴史を紐解いていくとそれもそのはず。
今回は、「神社とお寺の違いがなぜ分かりにくいのか?」その謎を解く鍵となる神仏習合についてお話します。
少し難しい言葉も出てきますが、肩の力を抜いて読んでみて下さいね。
立﨑 理恵
記事を読んだ皆さんが「日本っていいな」と思ってくださると嬉しいなあと思いながらライターをしています。白山神社のあじさいまつりが好きです。
- お寺の仏様は外国の神様
- 神社の中にお寺が建てられる
- お寺の近くに神社が建てられる
- 神様と仏様は同じ?本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)
- 山伏の誕生
- 神社とお寺を分けよう!神仏習合の終焉
- おわりに
目次
お寺の仏様は外国の神様
日本では昔から自然を神様と考えてきました。こうした自然崇拝が日本古来の信仰の形です。
対して仏教は約1500年前に日本に伝わって来た宗教で、当初仏様は外国の神様と捉えられていました。
その後仏教は徐々に広まっていき、日本古来の信仰の形と結びついていきました。
神社の中にお寺が建てられる
まず、苦しんでいる神様を仏教によってお救いしようと考えられるようになりました。
仏教では、この世の生き物は生死を繰り返しており、この繰り返しこそが生き物を苦しめていると考えられていました。
この繰り返しの中に神様もいて、修行によってこの繰り返しから抜け出すことができる、それこそが救いであるとされたのです。
日本の神様はもともと自然や鏡などに象徴されるもので、形はなく、神社のような決まった住処もありませんでしたが、仏教の影響を受けて神社や神像が作られはじめます。
これによって、日本の神様をお救いするための神宮寺(じんぐうじ)が神社の境内に建てられるようになりました。
神社の境内に神宮寺を建て、神社のご本殿に神像や仏像を置き、神職と並んで僧侶が祭祀を行うようになりました。
宇佐神宮の弥勒寺(現在は寺跡のみ残る)などがこれにあたります。
- 神様をこの世の苦しみから救うために仏様がいる
- 仏像の影響で神像が作られるようになる
- 神社の境内にお寺が建てられる
お寺の近くに神社が建てられる
反対に、日本の神様は仏様を守る存在にもなりました。
これによってお寺の境内やその近所で、神社に仏様を守る神様がまつられるようになりました。
東大寺の手向山八幡宮、延暦寺の日吉大社、金剛峯寺の丹生都比売神社、興福寺の春日大社などが知られています。
- 仏様を守るために神様がいる
- お寺の境内やその近くに神社が建てられる
神様と仏様は同じ?本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)
平安時代になると、本地垂迹説(ほんじすいじゃくせつ)が出てきます。
これは、仏様は人々を救うために様々な神様の姿を借りて現れているのだという考え方です。
外国の神様である仏様は親しみにくいため、より日本の人々に近い姿で現れ、仏様こそが真の姿(=本地)であり、神様は仏様の仮の姿(=垂迹)であるとされました。
例えば、熊野の神様の真の姿は阿弥陀如来であると考えられていました。また、仏様が神様の姿を仮(権)りて現れているとする考え方から、熊野権現や春日権現などの権現という新たな神様の呼び名が生まれました。
これによって、神様と仏様は同一視され、両者を同じところにまつり、信仰するようになりました。ここまでの一連の流れを総称して神仏習合といいます。
一方鎌倉時代には本地垂迹説と反対の考えを唱える神本仏迹説(しんぽんぶつじゃくせつ)も出てきます。
これは神様こそが真の姿であり、仏様は神様の仮の姿であるとする説です。
- 仏様は人々を救うために神様の姿を借りている
- 仮(権)の姿として現れた神様のことを権現と呼ぶ
- 神様と仏様は同じものだと考えられるようになった
山伏の誕生
古来より山を信仰の対象としてきた日本人の心をもとに、仏教や道教、陰陽道の影響を受けて成立したのが修験道(しゅげんどう)です。
日本では昔から、山は神様がいらっしゃる聖地と考えられてきました。
その山で厳しい修行を行い、病気を治すなどの超自然的な力を体得し、その力で人々を救おうとするのが山伏(修験者)です。
修験道の成立の過程で神仏習合が進んでいきます。
平安時代には、仏教の真言宗や天台宗のお寺が各地の山々に建てられ、修行のための修験道場が作られていきました。
吉野の大峯山、山形の出羽三山などが代表的で、現在も山伏が修行しています。
- 神様のいらっしゃる山で修行をし、強い力を身につける山伏の登場
- 各地のお寺が山の中に修行のための道場を作る
神社とお寺を分けよう!神仏習合の終焉
江戸時代までに様々な考え方に派生した神仏習合は、明治時代になると廃止されます。
明治政府は効果的に国民を統治するために、神道をそれまでの仏教との結びつきから切り離して役立てようと考えました。
その過程で神社の中から仏教的要素を排除しようという法律が出されたのです。
これは権現などの仏教の影響を受けた言葉の廃止、神社からの仏像や仏塔の除去、僧侶がお寺と神社を兼ねて業務を行うことの禁止などを命じたものでした。
この時期には修験道も廃止され、一時姿を消しました。
この法律により神社とお寺の違いを明確にする神仏分離が進められます。この分離政策に乗じた人々によって、仏像・仏画・絵巻物・経典が破棄され、多くのお寺が廃寺となりました。
こういった思想や運動は廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)と呼ばれ、全国に展開しました。数々の貴重な古文書・文化財が失われたといわれています。
- 仏様と神様は同じではない
- 明治政府は神社とお寺の違いをはっきりとさせる
- 結果、多くのお寺や仏像などが捨てられる
おわりに
いかがでしたか?
もともと外国の宗教として日本に入ってきた仏教。
時が流れるにつれ、神社の中にお寺が作られたり、お寺の近くに神社が作られたりと、神社とお寺の違いはあいまいになっていきました。
明治政府によって明確に分けられたとはいえ、江戸時代までは神社とお寺が同一視されていたと考えると、現代の我々がこの二つの違いが分かりづらいと考えるのも納得ですね。
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