いそのかみじんぐう
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楽しみ方石上神宮のお参りの記録一覧(5ページ目)

日本最古の神社の一つです。
御神鶏のにわとりがずっと元気に鳴いていました。




楼門 鎌倉時代末期の建立で重要文化財



御神鶏

石上神宮(いそのかみじんぐう)へお詣りできました。御祭神 布都御魂大神 。摂社 天神社 出雲建雄神社 末社 猿田彦神社にもお詣りできました。神代紀によれば、素盞嗚尊が八岐大蛇を斬った十握剣は布都斯魂大神と称し吉備神部のもとに祀られていたが、市川臣命が勅を奉じて石上神宮の高庭に遷し、布都御魂大神の東に埋葬したということ。
祭神の布都御魂大神は、出雲平定の折に建甕槌神が帯びていた霊剣「平国之剣」「韴魂」の御霊。神武天皇東征の際に、熊野で高倉下を介して天皇に奉られた剣。
太古の大王の威厳と包容力に溢れた神宮でした。健康でお詣りできたことへの感謝と、精進しまたお詣りしたいことの報告を申し上げました。本殿向かって右手の山林奥のご神域、すばらしい空気でした。



















神武天皇は宇摩志麻治命に命じ、建国にあたって邪神を破って貢献した神剣(韴霊ふつのみたま)を宮中に奉祀させた。
それを崇神天皇7年(紀元前91)、伊香色雄命が勅命を受け現在地・石上の布留の高庭に遷したという。
奈良朝以前から神宮の号を使ったのは伊勢神宮と石上神宮。
1081年(永保1)白河天皇が宮中の神嘉殿を拝殿として寄進、白河天皇は1092年(寛治6)上皇としても参詣。
皇室の尊崇を集めて隆盛するものの、中世以降は興福寺の㔟威に押され次第に衰退していく。
戦国時代には兵火に遭い、豊臣秀長の入部により神領も奪われる。だが地域の氏子の信仰は衰えず、1871年(明治4)に官幣大社に列し、1883年(明治16)には神宮号を再び名乗ることが許され現在に至っています。
今回は工事中であったため、拝殿・本殿・神庫・瑞垣など禁足地を拝することができませんでした。
元宮だったとの説もある桃尾の滝も次回です。

宗教都市天理の象徴
JR天理駅前商店街を抜け、景色がいっぺんします。
どなたでも昇殿できるとは聞いていますが。

神田神社 末社
熊野の地で立往生していた神武天皇に神剣「韴霊」を奉って救った高倉下命を祭神として祀る。
創祀については明らかでないところもあり、もとは天理市美島町小字神田の地に鎮座していたが、平成2年1月に現在地に遷す。

神田神社境内にある烏帽子岩
布留川で取れる珍石、往古より珍重されていると、このような形の石が自然に多く有るとは思えませんが。
正直おばあさんと欲張りばあさんの逸話もあります。

社号標
明治16年、同宮が「石上神宮」の神宮号に復した記念に建てられた。
古事記・日本書紀には石上神宮と記されていましたが、明治に入り広く石上神社と記されていたものを改めたもの。

大鳥居
扁額は「布都御魂大神」となっています。
昭和3年(1928)に昭和天皇の御大典・大嘗祭を記念し、台湾檜を使用して建立。
平成23年3月の調査の結果、腐食が酷いく早期修理が必要なためカナダから檜を取り寄せ修復して再建立。

万葉歌碑
昭和43年の建立。万葉集の巻4・501番。
石材は旧内山永久寺の北門跡に有った敷石が用いられている。
「未通女らが袖振山の瑞垣の久しき時ゆ思ひき吾は」

神杉・西側
石上布留の神杉は、主なもので東西に一本づつあるが、古い説話によると、布留川から流れてきた鉾をここに埋めたところ、この杉が生えて成長したという。

休憩所
古くは拝殿前にあった舞殿で、昭和15年(1940)に移築したもの。屋根は銅板葺。

休憩所を占拠する神鶏
当日は雨模様、ちょっと雨宿りと思いましたが突かれそうで。

鶏
暁に時を告げる鳥として神聖視されます。
約30羽、東天紅・烏骨鶏・レグホン・ミノルカなど、50年ほど前より奉納されて自生し自由に境内を闊歩。
外敵から逃れるため高い枝に飛び上がり一夜を過ごす。飛び上がれない鶏は専用の鶏舎で夜をすごします。
鶏が奉納された由来や理由ははっきりしないとの事ですが、職員さんが玄米や野菜を与えているようです。

神牛像
牛が伏せる姿の銅像。
丑年の崇敬者により奉納。

鏡池
奈良県の天然記念物に指定されているワタカが生息。
大正3年に内山永久寺の本堂池より移したもの。
東大寺大仏殿前の鏡池と由来は同様です。

諸霊招魂碑
明治12年(1879)4月建立。鎮魂ではなく招魂となっています。

石燈籠
布留社となっています。

珍しい形の石燈籠

出雲建雄神社の拝殿 鎌倉時代後期 国宝
建物の中央部を土間通路とした「割り拝殿」という特殊な構造。
通路部分は馬道(めどう)と呼ばれます。
1137年(保延3)内山永久寺で建立され、改築を経て1914年(大正3年)7月に移築。

廃寺内山永久寺 本堂池
神宮寺であった内山永久寺は、西の日光として立派な仏閣を持ち、法隆寺に次ぐ寺格を持っていた大寺であった。
廃仏毀釈の嵐により僧侶は全て還俗し、建物の大半は破壊され薪となり、仏像はたたき売られ完全に失われる。
明治9年頃までには礎石から瓦一枚まで持ち去られる。
仏像・仏画は持っていくものもいないので、庄屋の中山家が預かったが、その一部が藤田美術館で観られます。
寺の運営の中心にいた僧侶が、興福寺・藤原家の流れをくむ公家出身であり、倒幕勤皇思想の影響を受けた者が多かったため、興福寺同様に内部崩壊と地域の支持もなく、廃寺に至ったものと想います。

楼門
文保2年(1318)のものです。
雨中のため写真はカスミがち。

拝殿
工事中の足場養生シート掛けです。

大イチョウ
葉が色ずく時期にはJR天理駅2階ホームより鮮やかな黄色が見ることが出来るとか。
12月には銀杏が撤饌として社頭で分けられると。
イチョウの原産地は中国とされ、仏教伝来とともに渡来し神社や寺に植えられた。現生種は一種「生きている化石。」

禊場への参道
禊場は神職が身を清めるための神聖な場所であるため、一般の立ち入り禁止です。
元々は布留川で禊を行っていたが、布留山から流れ出る小川を利用する場を新設。

恵比須神社 石上神宮境外末社
御祭神 事代主命 鎮座と不詳 古くより布留のえびすさんと言われ、商売繁盛・家内安全の守護神として広く人々の尊崇を集めている。

布留川
石上神宮境内地の北を流れる布留川は古くから記録が残っており、万葉集にもその清流を称える歌が残ります。
神秘的な説話として、
昔、若い娘が洗濯をしていると、上流から剣が流れてきた。その剣は、川に流されながら岩を切り裂くほどの鋭さで、驚いた娘は剣を避けようとするも、剣は娘の洗っていた布に流れ込みそのまま止まった。
娘はこれを神の御業と重い、剣を石上神宮に奉納。剣が布に留まったので、川の名前が布留川と称されたという。、
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