いそのかみじんぐう
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楽しみ方石上神宮のお参りの記録一覧
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石上神宮(いそのかみじんぐう)へお詣りできました。御祭神 布都御魂大神 。摂社 天神社 出雲建雄神社 末社 猿田彦神社にもお詣りできました。神代紀によれば、素盞嗚尊が八岐大蛇を斬った十握剣は布都斯魂大神と称し吉備神部のもとに祀られていたが、市川臣命が勅を奉じて石上神宮の高庭に遷し、布都御魂大神の東に埋葬したということ。
祭神の布都御魂大神は、出雲平定の折に建甕槌神が帯びていた霊剣「平国之剣」「韴魂」の御霊。神武天皇東征の際に、熊野で高倉下を介して天皇に奉られた剣。
太古の大王の威厳と包容力に溢れた神宮でした。健康でお詣りできたことへの感謝と、精進しまたお詣りしたいことの報告を申し上げました。本殿向かって右手の山林奥のご神域、すばらしい空気でした。

神武天皇は宇摩志麻治命に命じ、建国にあたって邪神を破って貢献した神剣(韴霊ふつのみたま)を宮中に奉祀させた。
それを崇神天皇7年(紀元前91)、伊香色雄命が勅命を受け現在地・石上の布留の高庭に遷したという。
奈良朝以前から神宮の号を使ったのは伊勢神宮と石上神宮。
1081年(永保1)白河天皇が宮中の神嘉殿を拝殿として寄進、白河天皇は1092年(寛治6)上皇としても参詣。
皇室の尊崇を集めて隆盛するものの、中世以降は興福寺の㔟威に押され次第に衰退していく。
戦国時代には兵火に遭い、豊臣秀長の入部により神領も奪われる。だが地域の氏子の信仰は衰えず、1871年(明治4)に官幣大社に列し、1883年(明治16)には神宮号を再び名乗ることが許され現在に至っています。
今回は工事中であったため、拝殿・本殿・神庫・瑞垣など禁足地を拝することができませんでした。
元宮だったとの説もある桃尾の滝も次回です。

宗教都市天理の象徴
JR天理駅前商店街を抜け、景色がいっぺんします。
どなたでも昇殿できるとは聞いていますが。

神田神社 末社
熊野の地で立往生していた神武天皇に神剣「韴霊」を奉って救った高倉下命を祭神として祀る。
創祀については明らかでないところもあり、もとは天理市美島町小字神田の地に鎮座していたが、平成2年1月に現在地に遷す。

石上神宮(いそのかみじんぐう)は、奈良県天理市にある神社。式内社(名神大)、二十二社(中七社)。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
『古事記』や『日本書紀』にも記載がある古社で、特に神宮号に関しては伊勢神宮と同じく最古から記載がある。社伝によると、崇神天皇7年(紀元前91年)に物部氏の伊香色雄命(いかがしこおのみこと)が、武甕槌命(たけみかづち)・経津主(ふつぬし)二神による葦原中国平定の際に使われた天剣(平国之剣(くにむけしつるぎ))に宿る神霊・布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)を「石上大神」として祀ったのが当社の創建。
大和時代、奈良時代を通じて朝廷などから信仰を集め、日本後記によると平安初期に当社天神庫の神宝類を移転するのに16万人近くの人員を要したと記されている。平安時代の868年に、主祭神の布都御魂大神は最高位の神階である正一位となっている。また、927年の延喜式神名帳では、「大和国山辺郡 石上坐布留御魂神社 名神大 月次相嘗新嘗」と記載されている。なお、境内摂社の<出雲建雄神社>についても、「大和国山辺郡 出雲建雄神社」の論社となっている。
中世以降は、興福寺の荘園拡大や守護権力の強大化に晒され度々抗争したが、戦国時代には織田尾張勢の乱入により社頭は破却され神領も没収され衰微した。
明治期に入り官幣大社に列し、1883年には神宮号の復称が許された。なお、当社にはもともと本殿がなく、神宝が埋斎されている拝殿奥の聖地(禁足地)を「布留高庭」「御本地」と称して祀っていたが、大正時代の1913年に本殿が造営された。
当社は、JR桜井線(万葉まほろば線)、近鉄天理線の・天理駅の東方2kmの高台に位置している。駅から当社まで、公共交通機関だと1日4本の天理市コミュニティバスしかないようなので、観光者にとっては道のり3kmを歩くかタクシーしかない(タクシーだとおよそ1,300円)。もともと境内は広かったようだが、低い場所の多くは石上神宮外苑公園となっていて、参拝して廻るエリアは広くはない。
参拝時は週末の昼ごろで、土砂降りの雨にもかかわらず、一般参拝者や祈祷を受ける家族連れなどがけっこういた。
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