いそのかみじんぐう
石上神宮
奈良県 天理駅
拝殿での参拝は季節により楼門の開・閉門があり、およそ午前5時30分より午後5時30分までの間は、拝殿正面でお参りができます。(開・閉門の時刻は季節により変ります。)
いそのかみじんぐう
奈良県 天理駅
拝殿での参拝は季節により楼門の開・閉門があり、およそ午前5時30分より午後5時30分までの間は、拝殿正面でお参りができます。(開・閉門の時刻は季節により変ります。)
神仏霊場の御朱印を頂きに来ました。
初参拝です。昔からえほん等で知っていた古事記の世界に関係する「剣」があるという話で興味があったのですが、なかなか来れる機会が無かった。
参拝した時は「やっと来れた」と言う思いでした。
使徒であるニワトリが放し飼いされています。
珍しい鳥もいて元気に鳴きまくってました(笑)
でも、これでも減ったらしく野生動物の餌にされちゃうこともシバシバあるのだそうです。
御朱印を頂きながら巫女さんとお話していたのですが、こんなに毎日鳴いてたら煩くないか?と言うしょうもない質問に、苦笑しながら「いつもそうではないので」と(笑)
でも、ニュアンス的にもう少し大人しくせいよ的な?(笑)
「もののふ」の語源にもなっている「物部氏」関連の神社ですが、武器をお祀りしているというのもとても日本的な神社だなぁと思うんです。
こっからは雑談(笑)
布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)と言う剣(国譲りの神話に登場される武甕雷神(たけみかづちのかみ)がお持ちになられていた剣)
布留御魂大神(ふるのみたまのおおかみ)も天璽十種瑞宝の御霊で剣(饒速日命(にぎはやひのみこと)が天津神(あまつかみ)から授けられた十種の神宝で、それらには〝亡くなられた人をも蘇らす〟というお力が秘められておりました)
布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ)も剣(素戔嗚尊(すさのおのみこと)が出雲国(島根県東部)で八岐大蛇(やまたのおろち)を退治されるのに用いられた天十握剣(あめのとつかのつるぎ)に宿られる御霊威)
ご神体が三柱全部が「剣」と言う考えたら凄い神社ですよね。
しかも以前の神職さんが「禁足地」に踏み込んで(笑)「七支刀」を掘り起こしちゃった!伝承は本当だったぁ!と言うおまけが(笑)
本物を博物館で見ましたが決して大きな刀ではないです。
明らかに(誰でもわかると思いますが)祭祀用の剣です。
それを展示されている土台までがあの形にくりぬかれ展示されている事に驚いた事と、昔から本などで伝えられていた形そのものなのに感動しました。
摂社の出雲建雄神社(せっしゃ いずもたけおじんじゃ)は、草薙剣(くさなぎのつるぎ)の荒魂(あらみたま)である 出雲建雄神(いずもたけおのかみ)をお祀りしている祠。
これも「剣」ですよね。HPによると、
「延喜式内社で、草薙剣(くさなぎのつるぎ)の荒魂(あらみたま)である 出雲建雄神(いずもたけおのかみ)をお祀りしています。
江戸時代中期に成立した縁起には、天武天皇(てんむてんのう)の御代に御鎮座になった由がみえます。 それによると、 布留邑智(ふるのおち)という神主が、 ある夜、 布留川の上に八重雲が立ちわき、 その雲の中で神剣が光り輝いている、 という夢を見ました。 明朝その地に行ってみると、 8つの霊石があって、 神が 「吾は尾張氏の女が祭る神である。今この地に天降(あまくだ)って、皇孫を保(やすん)じ諸民を守ろう」 と託宣されたので、神宮の前の岡の上に社殿を建ててお祀りしたということです。
江戸時代には、 出雲建雄神は当神宮の御祭神 布都斯魂大神(ふつしみたまのおおかみ)の御子神と考えられ、そのため 「若宮(わかみや)」と呼ばれていました」とあります。
その横にある小さな祠は主祭神は猿田彦様ですが、配祀神の神様が古い神様なのと以前は祭王御前・山上幸神・道祖神社などと呼ばれ、現在地よりさらに東の山中にお祀りされていましたが明治にこちらに移したとあるので、これは元々の土地神様だったのかな?と。
とにかく「物部氏の武器庫」的な神社さんだなぁと思いましたね。
大鳥居
楼門[ 重要文化財 ]
楼門[ 重要文化財 ]
「萬古猶新(ばんこゆうしん)」の字は、明治・大正の元老として有名な山縣有朋(やまがたありとも)の筆によるもの。
拝 殿 [ 国 宝 ]
摂社 出雲建雄神社(いずもたけおじんじゃ)
末社 猿田彦神社(さるたひこじんじゃ)
摂社 天神社(てんじんじゃ)高皇産霊神(たかみむすびのかみ)・神皇産霊神(かみむすびのかみ)
摂社 七座社(ななざしゃ)生産霊神(いくむすびのかみ・中央)・足産霊神(たるむすびのかみ・生産霊神の右)・魂留産霊神(たまつめむすびのかみ・生産霊神の左)・大宮能売神(おおみやのめのかみ・足産霊神の右)・御膳都神(みけつかみ・魂留産霊神の左)・辞代主神(ことしろぬしのかみ・右)・大直日神(おおなおびのかみ・左)の七座
摂社 出雲建雄神社拝殿(せっしゃ いずもたけおじんじゃはいでん)[ 国 宝 ]
摂社 出雲建雄神社拝殿2 摂社に拝殿があるのが凄い。この摂社、只者ではないのかもしれない。
烏骨鶏(うこっけい:天然記念物)
長鳴鶏(ながなきどり)の一種の東天紅(とうてんこう:高知県産・天然記念物)
手水鉢から流れてくる水を飲んでいるのだけど、そのクチバシで飲みづらくはないかい?上に乗って飲んだ方が遥かに飲みやすいと思うのだけど・・・。
石上神宮(いそのかみじんぐう)は、奈良県天理市にある神社。式内社(名神大)、二十二社(中七社)。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
『古事記』や『日本書紀』にも記載がある古社で、特に神宮号に関しては伊勢神宮と同じく最古から記載がある。社伝によると、崇神天皇7年(紀元前91年)に物部氏の伊香色雄命(いかがしこおのみこと)が、武甕槌命(たけみかづち)・経津主(ふつぬし)二神による葦原中国平定の際に使われた天剣(平国之剣(くにむけしつるぎ))に宿る神霊・布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)を「石上大神」として祀ったのが当社の創建。
大和時代、奈良時代を通じて朝廷などから信仰を集め、日本後記によると平安初期に当社天神庫の神宝類を移転するのに16万人近くの人員を要したと記されている。平安時代の868年に、主祭神の布都御魂大神は最高位の神階である正一位となっている。また、927年の延喜式神名帳では、「大和国山辺郡 石上坐布留御魂神社 名神大 月次相嘗新嘗」と記載されている。なお、境内摂社の<出雲建雄神社>についても、「大和国山辺郡 出雲建雄神社」の論社となっている。
中世以降は、興福寺の荘園拡大や守護権力の強大化に晒され度々抗争したが、戦国時代には織田尾張勢の乱入により社頭は破却され神領も没収され衰微した。
明治期に入り官幣大社に列し、1883年には神宮号の復称が許された。なお、当社にはもともと本殿がなく、神宝が埋斎されている拝殿奥の聖地(禁足地)を「布留高庭」「御本地」と称して祀っていたが、大正時代の1913年に本殿が造営された。
当社は、JR桜井線(万葉まほろば線)、近鉄天理線の・天理駅の東方2kmの高台に位置している。駅から当社まで、公共交通機関だと1日4本の天理市コミュニティバスしかないようなので、観光者にとっては道のり3kmを歩くかタクシーしかない(タクシーだとおよそ1,300円)。もともと境内は広かったようだが、低い場所の多くは石上神宮外苑公園となっていて、参拝して廻るエリアは広くはない。
参拝時は週末の昼ごろで、土砂降りの雨にもかかわらず、一般参拝者や祈祷を受ける家族連れなどがけっこういた。
鳥居と社号標。社殿までの参道は東向きだが、鳥居までの参道は北からと西からとがあり、社号標は北参道に向いているため、ちょっと変なアングル。
鳥居と「布都御魂大神」の扁額。
参道進んで左側の<社務所>。
参道挟んで社務所の対面にある<神池>。
社殿と参道。参道左側が社殿で、右側が小高い場所とその上にある摂末社。石上神宮の公式HPトップページ写真や由緒書パンフレットの表紙写真もこのカット。
社殿前参道の右側にある<手水舎>。屋根がなく素朴なもの。
手水舎の右手にある<撫で牛>。
社殿全景の写真が撮りにくく、撮ったとするとこんな感じ。
左側は、神域入口の<楼門>。鎌倉時代後期の造営。国指定の重要文化財。
楼門をくぐる。
楼門をくぐると国宝<拝殿>のはずが、絶賛工事中...涙 拝殿は鎌倉時代前期の造営。
拝殿内では、たまたま祈祷中だった。
工事していなければ、こんな外観(写真はWikipediaより引用)。
拝殿から振り返ると、<楼門>の裏側。
右前方を向くと<授与所>。御朱印はこちら。
左前方を向くとちょっとした展示場所。
展示場所にあった国宝<七支刀>(実寸大?)を印刷したもの。<七支刃>は古墳時代の作で、石上神宮伝世品。
南側の摂末社のある小高い場所の階段を登ると、楼門の2階部分がよく見える。
階段を登り切ると、右手にある国宝<摂社出雲建雄神社拝殿>。鎌倉時代後期の1300年造営。
左手にある<出雲建雄神社>(左)と<猿田彦神社>(右)の鳥居。
摂社<出雲建雄神社>の社殿。出雲建雄神(草薙剣の荒魂)を祀る。式内論社。
摂社<猿田彦神社>の社殿。猿田彦大神、住吉大神、高靇神の3柱を祀る。
さきほどの2摂社の左手に別の鳥居と階段がある。
左側にある摂社<天神社>。高皇産霊神、神皇産霊神の2柱を祀る。
右側にある摂社<七座社>。生産霊神、足産霊神、魂留産霊神、大宮能売神、御膳都神、辞代主神、大直日神の7柱を祀る。
<天神社>のあたりから見た石上神宮全景。工事のテントが...
社殿前参道を進んだ奥にある寺院のような建物。用途は分からず。
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