いそのかみじんぐう
石上神宮のお参りの記録一覧(4ページ目)
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石上神宮(いそのかみじんぐう)へお詣りできました。御祭神 布都御魂大神 。摂社 天神社 出雲建雄神社 末社 猿田彦神社にもお詣りできました。神代紀によれば、素盞嗚尊が八岐大蛇を斬った十握剣は布都斯魂大神と称し吉備神部のもとに祀られていたが、市川臣命が勅を奉じて石上神宮の高庭に遷し、布都御魂大神の東に埋葬したということ。
祭神の布都御魂大神は、出雲平定の折に建甕槌神が帯びていた霊剣「平国之剣」「韴魂」の御霊。神武天皇東征の際に、熊野で高倉下を介して天皇に奉られた剣。
太古の大王の威厳と包容力に溢れた神宮でした。健康でお詣りできたことへの感謝と、精進しまたお詣りしたいことの報告を申し上げました。本殿向かって右手の山林奥のご神域、すばらしい空気でした。
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神武天皇は宇摩志麻治命に命じ、建国にあたって邪神を破って貢献した神剣(韴霊ふつのみたま)を宮中に奉祀させた。
それを崇神天皇7年(紀元前91)、伊香色雄命が勅命を受け現在地・石上の布留の高庭に遷したという。
奈良朝以前から神宮の号を使ったのは伊勢神宮と石上神宮。
1081年(永保1)白河天皇が宮中の神嘉殿を拝殿として寄進、白河天皇は1092年(寛治6)上皇としても参詣。
皇室の尊崇を集めて隆盛するものの、中世以降は興福寺の㔟威に押され次第に衰退していく。
戦国時代には兵火に遭い、豊臣秀長の入部により神領も奪われる。だが地域の氏子の信仰は衰えず、1871年(明治4)に官幣大社に列し、1883年(明治16)には神宮号を再び名乗ることが許され現在に至っています。
今回は工事中であったため、拝殿・本殿・神庫・瑞垣など禁足地を拝することができませんでした。
元宮だったとの説もある桃尾の滝も次回です。
宗教都市天理の象徴
JR天理駅前商店街を抜け、景色がいっぺんします。
どなたでも昇殿できるとは聞いていますが。
神田神社 末社
熊野の地で立往生していた神武天皇に神剣「韴霊」を奉って救った高倉下命を祭神として祀る。
創祀については明らかでないところもあり、もとは天理市美島町小字神田の地に鎮座していたが、平成2年1月に現在地に遷す。
神田神社境内にある烏帽子岩
布留川で取れる珍石、往古より珍重されていると、このような形の石が自然に多く有るとは思えませんが。
正直おばあさんと欲張りばあさんの逸話もあります。
社号標
明治16年、同宮が「石上神宮」の神宮号に復した記念に建てられた。
古事記・日本書紀には石上神宮と記されていましたが、明治に入り広く石上神社と記されていたものを改めたもの。
大鳥居
扁額は「布都御魂大神」となっています。
昭和3年(1928)に昭和天皇の御大典・大嘗祭を記念し、台湾檜を使用して建立。
平成23年3月の調査の結果、腐食が酷いく早期修理が必要なためカナダから檜を取り寄せ修復して再建立。
万葉歌碑
昭和43年の建立。万葉集の巻4・501番。
石材は旧内山永久寺の北門跡に有った敷石が用いられている。
「未通女らが袖振山の瑞垣の久しき時ゆ思ひき吾は」
神杉・西側
石上布留の神杉は、主なもので東西に一本づつあるが、古い説話によると、布留川から流れてきた鉾をここに埋めたところ、この杉が生えて成長したという。
休憩所
古くは拝殿前にあった舞殿で、昭和15年(1940)に移築したもの。屋根は銅板葺。
休憩所を占拠する神鶏
当日は雨模様、ちょっと雨宿りと思いましたが突かれそうで。
鶏
暁に時を告げる鳥として神聖視されます。
約30羽、東天紅・烏骨鶏・レグホン・ミノルカなど、50年ほど前より奉納されて自生し自由に境内を闊歩。
外敵から逃れるため高い枝に飛び上がり一夜を過ごす。飛び上がれない鶏は専用の鶏舎で夜をすごします。
鶏が奉納された由来や理由ははっきりしないとの事ですが、職員さんが玄米や野菜を与えているようです。
神牛像
牛が伏せる姿の銅像。
丑年の崇敬者により奉納。
鏡池
奈良県の天然記念物に指定されているワタカが生息。
大正3年に内山永久寺の本堂池より移したもの。
東大寺大仏殿前の鏡池と由来は同様です。
諸霊招魂碑
明治12年(1879)4月建立。鎮魂ではなく招魂となっています。
石燈籠
布留社となっています。
珍しい形の石燈籠
出雲建雄神社の拝殿 鎌倉時代後期 国宝
建物の中央部を土間通路とした「割り拝殿」という特殊な構造。
通路部分は馬道(めどう)と呼ばれます。
1137年(保延3)内山永久寺で建立され、改築を経て1914年(大正3年)7月に移築。
廃寺内山永久寺 本堂池
神宮寺であった内山永久寺は、西の日光として立派な仏閣を持ち、法隆寺に次ぐ寺格を持っていた大寺であった。
廃仏毀釈の嵐により僧侶は全て還俗し、建物の大半は破壊され薪となり、仏像はたたき売られ完全に失われる。
明治9年頃までには礎石から瓦一枚まで持ち去られる。
仏像・仏画は持っていくものもいないので、庄屋の中山家が預かったが、その一部が藤田美術館で観られます。
寺の運営の中心にいた僧侶が、興福寺・藤原家の流れをくむ公家出身であり、倒幕勤皇思想の影響を受けた者が多かったため、興福寺同様に内部崩壊と地域の支持もなく、廃寺に至ったものと想います。
楼門
文保2年(1318)のものです。
雨中のため写真はカスミがち。
拝殿
工事中の足場養生シート掛けです。
大イチョウ
葉が色ずく時期にはJR天理駅2階ホームより鮮やかな黄色が見ることが出来るとか。
12月には銀杏が撤饌として社頭で分けられると。
イチョウの原産地は中国とされ、仏教伝来とともに渡来し神社や寺に植えられた。現生種は一種「生きている化石。」
禊場への参道
禊場は神職が身を清めるための神聖な場所であるため、一般の立ち入り禁止です。
元々は布留川で禊を行っていたが、布留山から流れ出る小川を利用する場を新設。
恵比須神社 石上神宮境外末社
御祭神 事代主命 鎮座と不詳 古くより布留のえびすさんと言われ、商売繁盛・家内安全の守護神として広く人々の尊崇を集めている。
布留川
石上神宮境内地の北を流れる布留川は古くから記録が残っており、万葉集にもその清流を称える歌が残ります。
神秘的な説話として、
昔、若い娘が洗濯をしていると、上流から剣が流れてきた。その剣は、川に流されながら岩を切り裂くほどの鋭さで、驚いた娘は剣を避けようとするも、剣は娘の洗っていた布に流れ込みそのまま止まった。
娘はこれを神の御業と重い、剣を石上神宮に奉納。剣が布に留まったので、川の名前が布留川と称されたという。、
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石上神宮(いそのかみじんぐう)は、奈良県天理市にある神社。式内社(名神大)、二十二社(中七社)。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
『古事記』や『日本書紀』にも記載がある古社で、特に神宮号に関しては伊勢神宮と同じく最古から記載がある。社伝によると、崇神天皇7年(紀元前91年)に物部氏の伊香色雄命(いかがしこおのみこと)が、武甕槌命(たけみかづち)・経津主(ふつぬし)二神による葦原中国平定の際に使われた天剣(平国之剣(くにむけしつるぎ))に宿る神霊・布都御魂大神(ふつのみたまのおおかみ)を「石上大神」として祀ったのが当社の創建。
大和時代、奈良時代を通じて朝廷などから信仰を集め、日本後記によると平安初期に当社天神庫の神宝類を移転するのに16万人近くの人員を要したと記されている。平安時代の868年に、主祭神の布都御魂大神は最高位の神階である正一位となっている。また、927年の延喜式神名帳では、「大和国山辺郡 石上坐布留御魂神社 名神大 月次相嘗新嘗」と記載されている。なお、境内摂社の<出雲建雄神社>についても、「大和国山辺郡 出雲建雄神社」の論社となっている。
中世以降は、興福寺の荘園拡大や守護権力の強大化に晒され度々抗争したが、戦国時代には織田尾張勢の乱入により社頭は破却され神領も没収され衰微した。
明治期に入り官幣大社に列し、1883年には神宮号の復称が許された。なお、当社にはもともと本殿がなく、神宝が埋斎されている拝殿奥の聖地(禁足地)を「布留高庭」「御本地」と称して祀っていたが、大正時代の1913年に本殿が造営された。
当社は、JR桜井線(万葉まほろば線)、近鉄天理線の・天理駅の東方2kmの高台に位置している。駅から当社まで、公共交通機関だと1日4本の天理市コミュニティバスしかないようなので、観光者にとっては道のり3kmを歩くかタクシーしかない(タクシーだとおよそ1,300円)。もともと境内は広かったようだが、低い場所の多くは石上神宮外苑公園となっていて、参拝して廻るエリアは広くはない。
参拝時は週末の昼ごろで、土砂降りの雨にもかかわらず、一般参拝者や祈祷を受ける家族連れなどがけっこういた。
鳥居と社号標。社殿までの参道は東向きだが、鳥居までの参道は北からと西からとがあり、社号標は北参道に向いているため、ちょっと変なアングル。
鳥居と「布都御魂大神」の扁額。
参道進んで左側の<社務所>。
参道挟んで社務所の対面にある<神池>。
社殿と参道。参道左側が社殿で、右側が小高い場所とその上にある摂末社。石上神宮の公式HPトップページ写真や由緒書パンフレットの表紙写真もこのカット。
社殿前参道の右側にある<手水舎>。屋根がなく素朴なもの。
手水舎の右手にある<撫で牛>。
社殿全景の写真が撮りにくく、撮ったとするとこんな感じ。
左側は、神域入口の<楼門>。鎌倉時代後期の造営。国指定の重要文化財。
楼門をくぐる。
楼門をくぐると国宝<拝殿>のはずが、絶賛工事中...涙 拝殿は鎌倉時代前期の造営。
拝殿内では、たまたま祈祷中だった。
工事していなければ、こんな外観(写真はWikipediaより引用)。
拝殿から振り返ると、<楼門>の裏側。
右前方を向くと<授与所>。御朱印はこちら。
左前方を向くとちょっとした展示場所。
展示場所にあった国宝<七支刀>(実寸大?)を印刷したもの。<七支刃>は古墳時代の作で、石上神宮伝世品。
南側の摂末社のある小高い場所の階段を登ると、楼門の2階部分がよく見える。
階段を登り切ると、右手にある国宝<摂社出雲建雄神社拝殿>。鎌倉時代後期の1300年造営。
左手にある<出雲建雄神社>(左)と<猿田彦神社>(右)の鳥居。
摂社<出雲建雄神社>の社殿。出雲建雄神(草薙剣の荒魂)を祀る。式内論社。
摂社<猿田彦神社>の社殿。猿田彦大神、住吉大神、高靇神の3柱を祀る。
さきほどの2摂社の左手に別の鳥居と階段がある。
左側にある摂社<天神社>。高皇産霊神、神皇産霊神の2柱を祀る。
右側にある摂社<七座社>。生産霊神、足産霊神、魂留産霊神、大宮能売神、御膳都神、辞代主神、大直日神の7柱を祀る。
<天神社>のあたりから見た石上神宮全景。工事のテントが...
社殿前参道を進んだ奥にある寺院のような建物。用途は分からず。
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【石上神宮】
初めての参拝。近鉄天理駅(JR天理駅とほぼ同じ場所)から徒歩約30分ほどで到着。本殿は修繕工事中でした。工事は約1年ほどかかると伺いました。
御本殿
摂社
国宝
摂社
立ち入り禁止
左右の片方だけでも良いようです。
直書き。
龍田大社の御朱印帳に拝受。
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山の辺の道ハイキングの途中で参拝させていただいています。
これまで実は「神社の御朱印」に抵抗があったのですが、出雲や近畿の神仏霊場をすべて参拝しておきながら、そんなことを言うのはおかしいと思いなおしました。明治から昭和のイデオロギーで作られたものにこだわる理由のほうがないですよね。
善は急げで神仏霊場の御朱印帳をいただこうかと思ったのですが、すべての霊場で販売しているわけではないとのこと。
七支刀の御朱印が脳裏に焼き付いて離れないので、ぜひまたいただきに参ります。
こうやって伝統建築とその技術は受け継がれていきます。ただきれいなだけの外見ではなく、こういった修復の構図が見られるのもよきご縁と思っております。
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誤って石上神社に投稿してました(御朱印にはっきり書いてある。気付けよ)。恥ずかしー。改めてこちらへ。初めての参拝です。
凛とした御朱印
大鳥居です。
廻廊と奥に楼門。
落ち着いた佇まいの拝殿。
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