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大光院の御朱印・御朱印帳
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2017年4月18日に初めてお詣りしました。
その後は大須に遊びに来ることも多く、大光院さんの隣りの駐車場もたまに使っています。
大光院さんは曹洞宗のお寺で興國山という山号です。
現在は名古屋市中区大須2丁目7-25にあり、大須商店街の中の北側にあります。
名古屋市史社寺編(大正4年版)に拠りますと、
松平薩摩守忠吉(徳川家康の4男)が清須の雲門廃寺を、武蔵國忍にある清善寺第6世の明嶺理察を招き開山として復興しました。寺号は清善寺と改名したそうです。
後、忠吉が没して大光院殿籌山宗勝の法号を受けたので寺号を大光院に改名したそうです。
最初、忠吉の遺命により江戸愛宕下青松寺で火葬し、清須大光院で葬儀を営みました。
しかし、増上寺から異議が出て、最終徳川家康の裁定で葬儀を増上寺で行ない、大光院を牌所としたそうです。
慶長15年(1610年)の清須越しの際は、大光院第2世の大菴護奕が現在地に移転しました。
その時、山号を日置山としましたが、元禄年間(1688~1704年)に興國山に戻したそうです。
第9世逸堂察應は多くの堂宇を修繕しました。しかし、
享保19年(1734年)、火災に遭って諸堂を焼失しました。
その後、第12世百津吾拙が諸堂を新築し、その大きさや壮麗さは火災前の倍だと言われたそうです。
安永8年(1779年)、第17世梅嶺大枝が大光院に住して禅堂、庫裏、山門等を再建し、日常使用の仏道具を整備し、別格寺院の格に準じ、尾張の曹洞宗寺院の中にきちんとした規律を確立しました。
文化5年(1808年)に烏枢沙摩明王を奉る別殿として明王殿が建立されました。腰部の疾病に霊験があると言われ女性の参拝が多く、「尾張名所図会」にも描かれたそうです。
文化13年(1816年)、第23世黄泉無著が大光院に住して厳しく古い規範を復興したそうです。
安政3年(1856年)が松平忠吉の250回忌に当たるので、安政2年(1855年)に本堂、玄関、位牌堂等を修復したそうです。
大須観音、清安寺墓地に囲まれた北野新地に旅役者のための宿が作られ、やがて遊女も置かれて遊郭が出来ました。遊女の外出先として大光院への参拝を許していたので縁日には遊女も訪れて大いに賑わったそうです。
明治5年(1872年)、第30世大薩祖梁の時に常恒会地(曹洞宗での最高の寺格)に昇進し、諸堂を再建、御霊屋、開山祠堂等を修繕しました。
昭和初期に区画整理によって境内地に道路が作られることになり、明王殿が北に移されました。
昭和9年(1934年)に開通した道路は大光院の朱塗りの山門から赤門通りと命名されました。
これまであった僧堂は昭和14年(1939年)に覚王山日泰寺へ譲渡されています。
昭和20年(1945年)、名古屋大空襲で堂宇が全焼しました。
戦後、名古屋市が実施した戦災復興土地区画整理事業により墓地が平和公園に移設されました。
昭和32年(1957年)に本堂と明王殿が竣工しました。
昭和41年(1966年)に山門が再建されました。
平成15年(2003年)、本堂等が鉄筋コンクリート造りで再建されました。
長くなって申し訳ありませんが、この大光院さんは成田長親と関係があるそうです。
成田長親というと「のぼうの城」で有名になりましたが、豊臣秀吉の小田原征伐の際に、忍城に籠城し総大将として石田三成勢の攻撃に抵抗して小田原城開城まで落城させなかったとういうことです。
開城後は主君の成田氏長に従って烏山まで同行したようです。
しかし、主君氏長が浅野長政、石田三成から話しを聞き長親が内通していたと疑ったため、長親は主君の元を去り浪人となりました。後に氏長は聞いた話しが誤まりと知り長親に陳謝しましたが、長親は謝罪を断り剃髪して名古屋國に隠居したそうです。長親の息子が松平忠吉に仕えており、忠吉が尾張国に移封された時、息子といっしょに尾張に移り住んだと思われます。
長親は慶長17年(1613年)に67歳で亡くなりました。
菩提寺は大須の大光院で墓碑は平和公園にあるそうです。
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