ようふくじ あと
永福寺跡(永福寺址)神奈川県 鎌倉駅
4月から10月までの間は 午前9時から午後5時まで /11月から3月までの間は 午前9時から午後4時30分まで
ようふくじ あと
4月から10月までの間は 午前9時から午後5時まで /11月から3月までの間は 午前9時から午後4時30分まで
駐車場 | なし | ||
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御朱印 | - | ありません |
源頼朝は鎌倉に3つの大きな寺院を建立しました。
一つ目は鶴岡八幡宮(鶴岡八幡宮寺)、二つ目は勝長寿院、三つ目は永福寺。
現在、残っているのは鶴岡八幡宮だけで後の2つは焼失してしまいました。
この地は周辺約9万平方メートルは源頼朝が建立した永福寺の跡で、国指定史跡に指定されています。
(参考:ホトカミ _ 勝長寿院跡https://hotokami.jp/area/kanagawa/Hkyty/Hkytytm/Dmspz/152671/)
鎌倉市二階堂 「瑞泉寺」手前の分岐路に在ります。 瑞泉寺へは直進。
右折して ’ 理智光寺橋 ’ を渡ると史跡碑「理智光寺跡」と宮内庁管理「後醍醐天皇皇子 護良親王墓所」が在ります。理智光寺橋 ’ 周辺は紅葉の時季が綺麗です。
(参考:ホトカミ _ 理智光寺跡
https://hotokami.jp/area/kanagawa/Hkyty/Hkytytm/Dmspz/149307/)
左折すると ’ 獅子舞 ’ 谷戸へ通じ、紅葉の時季が綺麗です。
ただし 私有地地区を通過させていただくので、鎌倉市はハイキングコースとしての紹介を控えているようですのでマナーを心得ての散策をお願いいたします。
文治5年(1189)の奥州合戦で亡くなった源義経や義経をかくまった奥州平泉の藤原泰衡ら
数万の霊を供養する為、源頼朝が建久3年(1192)に建てた永福寺の跡である。
永福寺は奥州藤原氏が建てた中尊寺(平泉)の屋根が二層になった二階大堂大長寿院を手本に建造されたもので、永福寺は二階堂と通称され、この地区の名称となった。
足利尊氏は北条時行を討った後、この場所で武士の賞罰を行ったと伝えられる。
応永12年(1450)の火事で焼失し、廃寺となった。
発掘調査により本堂(二階堂)の両側に阿弥陀堂、薬師堂の三堂が横に並び、その前面に広い池が作られ、中の島や釣殿がある浄土式庭園を持つ壮大な寺院の遺構が確認され、現在は鎌倉時代を代表する遺跡として国の史跡に指定され、史跡を活かした公園として復元整備が行われ、当時の伽藍配置や苑池などを見ることができる。
21.12.15。先の鎌倉宮より徒歩5分。鎌倉市二階堂にある寺院跡。(ようふくじあと)《国指定史跡》
鎌倉時代初期に源頼朝が中尊寺の二階大堂、大長寿院を模して建立した寺院で、鶴岡八幡宮、勝長寿院と並んで当時(文治5年/1189年)の鎌倉の三大寺社の一つであった。二階建ての仏堂であった事から「二階堂」とも称された。
〜Wikipediaより〜
「古都・鎌倉紅葉巡り」第四弾で瑞泉寺への途上に立ち寄りで見学。Webサイトの復元CGを見ると、大きな池を前に建つ各堂が宇治平等院を彷彿とさせる豪華な大寺院であったようです。敷地内でお弁当を食べているグループがいたりで、ハイキングコースとしても人気があるみたいです。
紅葉もまだ見れました!
石碑。
案内図。
説明板。
二階堂跡。
阿弥陀堂跡。
Webサイトより!
史跡永福寺跡はJR鎌倉駅の北東約1.8km、鎌倉市二階堂字三堂他に所在する、源頼朝が建立した寺院の跡です。源義経、藤原泰衡等、頼朝の奥州攻めで亡くなった武将等の鎮魂のため、平泉の中尊寺二階大堂等を模して建立され、建久五年(1194)に三堂が完成しています。鎌倉幕府の御願寺として手厚く保護されましたが、応永12年(1405)に焼失し、以後は再建されませんでした。
山林に囲まれた東西約100m、南北約200mの平坦地が寺の中心域と考えられ、その周囲の山林や谷戸も含め、約88,000平方メートルが史跡に指定されています。昭和58年度から平成8年度まで発掘調査が行われ、二階堂・薬師堂・阿弥陀堂の三堂を中心とする壮大な伽藍や庭園の存在が確認されました。
伽藍の配置は三堂が複廊を介して南北方向に一列に並び、両側の堂からはL字型の廊が付属し、中門・釣殿がつくられていました。こうした伽藍配置とその規模は他に例を見ないもので、源頼朝の独創性を示すものとして注目されています。東に向く堂の前には南北約200m、東西約40~70mの広大な苑池がつくられ、二階堂の前には橋が架けられていました。
鎌倉市役所Webサイトの「史跡永福寺跡の公開について」のページから、全文を引用。
https://www.city.kamakura.kanagawa.jp/treasury/yohukuji_cg.html
住所 | 神奈川県鎌倉市二階堂209 |
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行き方 | JR鎌倉駅から「鎌倉宮(大塔宮)」行きバスを利用し「大塔宮」下車、瑞泉寺に向かい徒歩5分。
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名称 | 永福寺跡(永福寺址) |
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読み方 | ようふくじ あと |
参拝時間 | 4月から10月までの間は 午前9時から午後5時まで /11月から3月までの間は 午前9時から午後4時30分まで |
参拝にかかる時間 | 1時間 |
参拝料 | なし |
トイレ | なし( ヒント: 遠いですが「鎌倉宮」へ戻って鳥居右方に無料トイレがあります。遠いですが先の「瑞泉寺」参拝と併せて受付周辺で借用可能です。) |
御朱印 | なし |
電話番号 | 鎌倉市役所文化財部文化財課:0467-61-3857 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
宗旨・宗派 | |
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創建時代 | 建久五年(1194)に三堂が完成/応永12年(1405)焼失 |
開山・開基 | 源頼朝 |
ご由緒 | 史跡永福寺跡はJR鎌倉駅の北東約1.8km、鎌倉市二階堂字三堂他に所在する、源頼朝が建立した寺院の跡です。源義経、藤原泰衡等、頼朝の奥州攻めで亡くなった武将等の鎮魂のため、平泉の中尊寺二階大堂等を模して建立され、建久五年(1194)に三堂が完成しています。鎌倉幕府の御願寺として手厚く保護されましたが、応永12年(1405)に焼失し、以後は再建されませんでした。 山林に囲まれた東西約100m、南北約200mの平坦地が寺の中心域と考えられ、その周囲の山林や谷戸も含め、約88,000平方メートルが史跡に指定されています。昭和58年度から平成8年度まで発掘調査が行われ、二階堂・薬師堂・阿弥陀堂の三堂を中心とする壮大な伽藍や庭園の存在が確認されました。 伽藍の配置は三堂が複廊を介して南北方向に一列に並び、両側の堂からはL字型の廊が付属し、中門・釣殿がつくられていました。こうした伽藍配置とその規模は他に例を見ないもので、源頼朝の独創性を示すものとして注目されています。東に向く堂の前には南北約200m、東西約40~70mの広大な苑池がつくられ、二階堂の前には橋が架けられていました。 鎌倉市役所Webサイトの「史跡永福寺跡の公開について」のページから、全文を引用。
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体験 | 重要文化財武将・サムライ |
概要 | 永福寺跡(ようふくじあと)は、神奈川県鎌倉市二階堂(旧:鎌倉郡二階堂村)にある寺院跡。鎌倉時代初期に源頼朝が中尊寺の二階大堂、大長寿院を模して建立した寺院で、鶴岡八幡宮、勝長寿院とならんで当時の鎌倉の三大寺社の一つであった。2階建ての仏堂であった事から二階堂とも称された。寺跡は国の史跡に指定されている。また世界遺産候補となっている武家の古都・鎌倉の構成資産のひとつ。 |
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歴史 | 歴史[編集] 源頼朝は1189年(文治5年)9月の奥州合戦を契機に、数多の戦を供養し源義経・藤原泰衡をはじめとする数万の怨霊・英霊をしずめ、冥福を祈るための寺院の建立を発願。その年の12月には永福寺の建立に着手した。造立責任者は工藤行政、建立には畠山重忠ら関東の御家人の助力があった事が『吾妻鏡』に記載されている。1192年(建久3年)11月25日に本堂が完成し、落慶供養が行われた。 1405年(応永12年)に火災に遭い[1]、のちに廃絶した。 ^ 新編相模国風土記稿 二階堂村 永福寺蹟. |
引用元情報 | 「永福寺跡」『ウィキペディア日本語版』。 この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E6%B0%B8%E7%A6%8F%E5%AF%BA%E8%B7%A1&oldid=99878576 |
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