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菅公聖蹟二十五拝の第16番です。伊保港に立ち寄った道真公が日笠山に登って無実を証明するために植えた松があり、それを四男の淳茂公が来たときに父にゆかりのある地として社殿を創建しました。
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加古川市にある天満宮で、道真公がこの地に休憩のために立ち寄り、海上の平穏と万民の幸福を祈って松を植えたと言われており、天神信仰の隆盛とともに松の下に北野天満宮から分社して創建されました。
菅公聖蹟二十五拝の第15番です。双六上では明石休天神と書かれており、道真公が太宰府に向かう途中に知己だった明石の駅家へ立ち寄って休んだという伝承があります。
菅公聖蹟二十五拝の第14番です。全国に9社しかない「綱敷」の社名を持ち、着船した道真公を地元の漁師が漁の綱を敷いて即席の座席にしたことに由来しています。 境内はパワースポットのテーマパークでした。
全国に9社しかない「綱敷」の社名を持つ天満宮で、菅原道真公が讃岐国司に任じられたときと、太宰府に向かう途中の2回立ち寄ったことのある場所に立っています。
菅公聖蹟二十五拝の第13番です。大阪湾に出た道真公ですが今度は大物浦で潮待ちのため上陸し、この長洲の浜を散策していたという伝承の残る天満宮です。
菅公聖蹟二十五拝の第12番です。道真公が大阪湾に出る前に風を待って逗留した際に手厚くもてなされたことに感謝し、詩と自画像を送ります。そして自身が植えた梅と松が見事に茂り、その場所に村人が祠…続きを読む
菅公聖蹟二十五拝の第11番です。梅田と曽根崎の総鎮守といわれ、道真公がこの地で残された和歌が社名の由来となっています。『曽根崎心中』の影響で恋人の聖地みたいになっていて、人の集まる憩いの場…続きを読む
北区神山町の綱敷天神社の御旅社です。御旅所というのはよく見るんですが、御旅"社"となっているのは珍しいですね。これもちゃんと調べるとちゃんと由緒がありました。
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阪急東中通商店街の中にある住宅街に建つ天満宮で、元々は第45代嵯峨天皇さまがこの地まで行幸していたときの頓宮になっていた場所で、皇子の源融公がその縁で嵯峨天皇さまを祀って創建した神野太神宮…続きを読む
菅公聖蹟二十五拝の第10番です。関西を代表する天満宮の一つで、例祭の天神祭りは京都の祇園祭や東京の神田祭と同じく日本を代表する三大祭りといわれています。
菅公聖蹟二十五拝の第9番です。道真公の別邸があった場所で、太宰府に向かう途中にも滞在していました。その際に濡れ衣の無実が証明される「沙汰」を待ったことが社名の由来となっています。神主さんが…続きを読む
菅公聖蹟二十五拝の第8番です。菅原氏の前身である土師氏が領地としていた地に立っており、隣にある道明寺には道真公の叔母が住んでいました。太宰府に行く前に別れの挨拶に来た道真公は自作の木像を遺…続きを読む
菅公聖蹟二十五拝の第7番です。吉野山で修行をしていた日蔵上人がひょんなことから閻魔宮に行ってしまい、そこで彷徨っていた醍醐天皇さまに道真公を弔ってほしいと頼まれて創建したなんともファンタジ…続きを読む
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菅公聖蹟二十五拝の第6番です。鎮座している與喜山で仕事をしていた木こりに「これを祀れ」と長谷寺にお参りしてた道真公が投げて寄越された木像を、お祀りしたことが神社の創祀で、生前にできたことか…続きを読む
伏見区の醍醐寺の裏手にある天満宮で、菅原道真公が太宰府に左遷される前に、この長尾を墓所と決めて醍醐寺の開祖である聖宝さんと約束し、没後に建てられた神社です。現在も醍醐寺の鎮守社として崇敬されています。
菅公聖蹟二十五杯の第4番です。道真公の幼少期に住んでいたとされていた場所に鎮座しており、道真公のへその緒を埋めた「胞衣塚」というものがあります。
記念すべき800社目は!!!なんと!!なんとぉ!! 熊野本宮大社だぁぁぁ!!!! 熊野三山の一角を担う神社で、『延喜式』神名帳にも紀伊国牟婁郡の名神大社「熊野坐神社」として載ってい…続きを読む
菅公聖蹟二十五拝の第3番です。ここも道真さんの邸宅跡と言われる場所に立っており、そのほかにも道真さんを追って太宰府に飛んで行った飛梅の伝承地でもあります。
菅公聖蹟二十五拝の第2番です。目の前に錦市場があることから、天満宮おなじみの学力向上だけでなく、商売繁盛のご神徳でも崇敬されています。 入り口からど迫力でしたね。
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