たるみじんじゃ
垂水神社公式大阪府 豊津駅
参拝24時間可能
授与所開設時間 9時から17時
御朱印 | 御朱印については、9時から17時まで社務所で授与しております。 | ||
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限定 | - | ||
御朱印帳にお書き入れ | |||
御朱印帳 | - | ありません | |
駐車場 | あり(10台) |
吹田めぐり、2日目は垂水神社から。
645-654年頃に、干ばつで困っている難波宮に垂水の滝から水を引いた功績で、垂水神社が創始されたとあります。今の距離にして15 kmだそう。
その元となったといわれる垂水の滝は、市街地となった今も残されているようです。
落ち着いた佇まいの神社でした。駐車場は社務所横に8台程度あります。
御朱印
注連柱と社号標
社殿への階段と、左には垂水の滝への道。
鳥居と幣殿。
幣殿。
左から、皇大社、祓戸社、戎社。
戎社。
楠明神社。
垂水の小滝、奥には大滝があるよおうですが、今回はパスしました。
2回目のお参りです。
創建は不明です。平安時代に行われていた、天皇陛下即位の儀式のひとつ、八十嶋まつりには、伊勢や出雲とともに、朝廷から使者が遣わされ、明治に入るまで菊の御紋も社殿に使うことをゆるされていたとか。まつられている神様も、位が高く格式高い神社です。大阪に都があった飛鳥時代、森に光る場所を見つけてたどり着くと滝であったそうで、斉明天皇の時代、干ばつにあった難波の宮まで、樋を通して垂水の滝から水が運ばれ人々を救ったということです。万葉集に、この滝を読んだ志貴皇子の有名な歌があります。
江戸時代、五月山あたりの滝で無くした武士の刀が垂水の滝から出てきた(地下水を通じて繋がっているのか?)という民話も残ります。この滝から、すぐのところには弥生時代の大きな舟の遺跡や難波の宮の瓦を焼いたと言う竈跡などが発掘されていて、かなり古くから人の住むところで、千年以上地域の人から大切に思われてきたのだなと思います。雉畷の民話の歌碑もすぐ近くにあり、ゆったり落ち着いた鎮守の森も素晴らしいですね。
割と近い神社ですが、話題盛りだくさんの神社です。
一の鳥居
手水舎
拝殿
玉之井の井戸
戎社
祓戸社
垂水の瀧 小滝
楠明神社
大神神社
龍王社
津くよみの池
垂水の瀧 大滝
高登社
垂水不動社
政高大明神社
孝徳天皇(ご在位645年~654年)の御代、この地の領主である阿利真公ありまのきみご祭神である豊城入彦命とよきいりひこのみことの子孫)が、干ばつに苦しむ難波長柄豊碕宮に、懸け樋を作って当地から水を送り、その功績をたたえられ、「垂水公たるみのきみ」の姓を賜り、垂水神社を創始しました。 このことは 『新撰姓氏録しんせんしょうじろく』の右京皇別うきょうこうべつの項に記載されております。(写真は垂水の滝)
「豊城入彦命四世孫賀表乃真稚命之後也。六世孫阿利真公。謚孝徳天皇御世。天下旱魃。河井涸絶。于時阿利真公。造作高樋。以垂水岡基之水。令通宮内。供奉御膳。天皇美其功。使賜垂水公姓。掌垂水神社也」(新撰姓氏録)
これを意訳しますと、次のようになります。
「豊城入彦命の数世の御孫阿利真公、孝徳天皇の御宇、天下旱魃し河井涸絶せるに際し高樋をつくりて垂水岡基の水を長柄豊崎宮に通じ御膳に供すれば天皇その功を賞し垂水公の姓を賜いて本社を掌らしめ給えり」
『新撰姓氏録』とは、平安時代初期の815年(弘仁6年)に、嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑のことです 。 おそらくこの時より以前からこの地では祖先神である豊城入彦命を祀る何らかのお社があり、また当然ながら都に送れるほどの水量のある滝があり、人々によって神聖な空間として大切にされていたのでしょう。また千里丘陵の南端に位置する当社は、上町台地に位置する難波宮とはほぼ南北の直線上にあって、距離にして約15㎞ですので、難波宮から滝が見えていたとも考えられます。
名称 | 垂水神社 |
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読み方 | たるみじんじゃ |
参拝時間 | 参拝24時間可能
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参拝にかかる時間 | 約15分 |
参拝料 | 無料 |
トイレ | 境内西側に参拝者用トイレあり |
御朱印 | あり 御朱印については、9時から17時まで社務所で授与しております。 |
限定御朱印 | なし |
御朱印帳に直書き | あり |
御朱印の郵送対応 | なし |
御朱印帳 | なし |
電話番号 | 06-6384-1526 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
メールアドレス | rjtkm482@gmail.com |
ホームページ | http://taruminoyama.starfree.jp |
SNS |
ご祭神 | 《主》豊城入彦命,《配》大己貴命,少彦名命 |
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ご由緒 | 孝徳天皇(ご在位645年~654年)の御代、この地の領主である阿利真公ありまのきみご祭神である豊城入彦命とよきいりひこのみことの子孫)が、干ばつに苦しむ難波長柄豊碕宮に、懸け樋を作って当地から水を送り、その功績をたたえられ、「垂水公たるみのきみ」の姓を賜り、垂水神社を創始しました。 このことは 『新撰姓氏録しんせんしょうじろく』の右京皇別うきょうこうべつの項に記載されております。(写真は垂水の滝)
これを意訳しますと、次のようになります。 「豊城入彦命の数世の御孫阿利真公、孝徳天皇の御宇、天下旱魃し河井涸絶せるに際し高樋をつくりて垂水岡基の水を長柄豊崎宮に通じ御膳に供すれば天皇その功を賞し垂水公の姓を賜いて本社を掌らしめ給えり」 『新撰姓氏録』とは、平安時代初期の815年(弘仁6年)に、嵯峨天皇の命により編纂された古代氏族名鑑のことです 。 おそらくこの時より以前からこの地では祖先神である豊城入彦命を祀る何らかのお社があり、また当然ながら都に送れるほどの水量のある滝があり、人々によって神聖な空間として大切にされていたのでしょう。また千里丘陵の南端に位置する当社は、上町台地に位置する難波宮とはほぼ南北の直線上にあって、距離にして約15㎞ですので、難波宮から滝が見えていたとも考えられます。 |
体験 | 祈祷おみくじお祓いお宮参り絵馬結婚式七五三御朱印お守り |
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