にんなじ|真言宗御室派|大内山
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京都市右京区にある世界遺産に登録されているお寺です。
五大明王大祭でお参りしました。
5年ぶりに金堂の五大明王の壁画を観ることができるのです。
紅葉の時期は人混みがつらいので ぎりぎり最後の日にお参りしました。
紅葉がもう見ごろを過ぎていますので 比較的空いていました。
建物はどれも見事な造りで さすがに江戸時代のものは立派です。
さて 本日の目的金堂に向かいます。
昨年まではビニル袋をいただいていたのですが 今回はエコバッグのような袋をいただきました。
靴を入れるだけでは勿体ない エコバッグとして使います。
お堂の中では 僧侶による説明を聞くことができました。
お話がお上手で 楽しい時間はあっという間にすぎました。
「888年宇多天皇開基だけは覚えて帰ってください。」 こういうのいいですね。
応仁の乱で荒廃し 160年ほど後に再興されたとのことですが 120年もの間 「ここに立派なお寺があったらしい」 と伝えられていたなんて想像しがたいものです。
重要な仏像などを避難させていたことが再興のきっかけだとか。
その強い思いが120年の時を経て再興につながったそうです。
金堂の仏像も立派で素晴らしいのですが いよいよ五大明王です。
もちろん金堂内陣は写真撮影禁止ですので 写真はありません。
江戸時代に描かれた壁画ですが 彩色などは当時のままだそうで 300年以上も前の彩色がそのまま残っているのは 奇跡とも言えると思いました。
クリアファイルやポストカードなと販売していましたので 私はポストカードを購入しました。
由緒についてはHPに
仁和寺の歴史は仁和2年(886年)第58代光孝天皇によって「西山御願寺」と称する一寺の建立を発願されたことに始まります。
しかし翌年、光孝天皇は志半ばにして崩御されたため、第59代宇多天皇が先帝の遺志を継がれ、仁和4年(888年)に完成。寺号も元号から仁和寺となりました。
宇多天皇は寛平9年(897年)に譲位、後に出家し仁和寺第1世 宇多(寛平)法皇となります。以降、皇室出身者が仁和寺の代々住職(門跡)を務め、平安〜鎌倉期には門跡寺院として最高の格式を保ちました。
しかし応仁元年(1467年)に始まった応仁の乱で、仁和寺は一山のほとんどを兵火で焼失するという悲運に見舞われました。そのような中、本尊の阿弥陀三尊をはじめ什物、聖教などは仁和寺の院家であった真光院に移され、法燈とともに伝えられていきました。
応仁の乱から約160年後の寛永11年(1634年)、ようやく再興の機会が訪れます。『仁和寺御伝』によれば、同年7月24日、仁和寺第21世 覚深法親王は、上洛していた徳川幕府3代将軍家光に仁和寺再興を申し入れ、承諾されるのです。
さらには慶長時代の御所建て替えとも重なり、御所から紫宸殿(現 金堂)、清涼殿(御影堂)など多くの建造物が下賜され、正保3年(1646年)に伽藍の再建が完了。ようやく創建時の姿に戻ることが出来たのです。
慶応3年(1867年)、第30世 純仁法親王が還俗したことにより皇室出身者が住職となる宮門跡の歴史を終えます。また、明治20年(1887年)には御殿の焼失がありましたが、大正時代になると再建。
昭和時代に入ると、仁和寺は真言宗御室派の総本山となり、近年では平成6年(1994年)に古都京都の文化財としてユネスコの「世界遺産」に登録され新たな歴史を刻んでいます。
とありました。

御室御所とも称される。
888年宇多天皇によって建立された。
応仁の乱(1467年~1477年)の兵火で焼失したが、1634年徳川家光が再興を許し、1641年~46年にかけて幕府の援助で伽藍が整備され現在の形となった。
寛永年間(1624年~1645年)京都御所の建て替えにより、紫宸殿、清涼殿、常御殿が下賜され移築されている。
1887年宸殿(旧・常御殿)を焼失。現在の建物は1890年~1914年にかけて新築されたものである。
宸殿は将棋の竜王戦の対局場としても使用された。
金堂(1613年建築・京都御所の正殿・紫宸殿を寛永年間(1624年 ~1644年)に移築したもの)で国宝。
観音堂(1641年~1645年再建)、五重塔(1644年再建)、経蔵(1641年~1645年再建)、鐘楼(1644年再建)、二王門(1641年~1645年再建)、中門(1641年~1645年再建)、御影堂(1641年~1645年再建)、御影堂中門(1641年~1645年再建)、本坊表門(慶長年間(1596年~1615年)建築)、遼廓亭(茶室・尾形光琳の屋敷から移築された。江戸時代中期1661年~1750年建築)、飛濤亭(茶室・1830年~1867年建築)、九所明神本殿(仁和寺の鎮守。1641年~1645年再建)、左殿(1641年~1645年再建)、右殿(1641年~1645年再建)は重文指定されている。





特別公開に併せて五大明王の御朱印をいただきに参拝
平成30年、総本山仁和寺では、第51世門跡瀬川大秀大僧正の晋山を記念し、寛永年間の移築以来372年にわたり非公開を貫いてきた五大明王の壁画初公開という、歴史的な特別拝観を行いました。
この壁画は、金堂裏堂すなわち須弥壇背面の裏、いわゆるお堂のバックヤードにあたる場所に描かれており、僧侶でも薄暗い手灯りでしか見ることができない貴重な壁画です。
不動明王を中心に金剛薬叉明王、降三世明王、軍荼利明王、大威徳明王の五大明王が柱を挟んで一体ずつ細部まで丁寧に描かれ、柱にも美しい文様が施されています。不動明王は高さ2.2m、幅3.7m、その他は幅2.8m という迫力です。
このたび、初公開より5年を経て、ふたたび公開することを決定いたしました。迫力ある壁画を見て楽しむことはもちろん、五大明王の御朱印をいただくこともできます。
どうぞ貴重なこの機会をお見逃しなく、多くの皆様に楽しんでいただければと思います。
🟥五大明王とは
五大明王とは、数多くの仏の中でも忿怒を表す明王部の代表的な五尊から成り立っており、真言宗においては不動明王・降三世明王・軍荼利明王・大威徳明王・金剛薬叉明王の五尊とされています。
これは護国三部経の一つである『仁王経』に説かれており、彼らはそれぞれ金剛界曼荼羅の中心にいる五仏が仏法に従わない者を懲らしめるために忿怒の明王に変化した姿であると言われています。
この五大明王は護国三部経に説かれるように日本国の安寧を願う鎮護国家の為に修法され、同じく鎮護国家を願って毎年東寺で行われる後七日御修法や五壇法と呼ばれる大法でも必ずこの五大尊壇が組み込まれます。さらには堂の中に邪悪な者が入ってこないようにする結界の役割を果たしています。
🔹金剛薬叉明王 こんごうやくしゃみょうおう
3 つの顔と6 本の手、左足を高く上げたお姿。正面顔には5 つの目。左手の「金剛鈴」の他、様々な法具や武器を構えています。
🔹降三世明王 ごうざんぜみょうおう
各3 つの目がある3 つのお顔、手は8 本。左足でシバ神を、右足でウマ女神を踏みつける、何とも勇ましく偉大な力を持つ明王です。
🔹不動明王 ふどうみょうおう
五大明王の動かざるリーダー、髪は巻毛で手には剣と縄。右下の牙で上唇を噛み、左下唇を垂らして左上の牙を出すお顔が特徴的です。
🔹大威徳明王 だいいとくみょうおう
6 つの顔、手に足も6 本ずつという威厳に満ちた明王。水牛に乗る姿が一般的ですが、仁和寺では乗っていない姿で描かれています。
🔹軍荼利明王 ぐんだりみょうおう
指をぴんと伸ばして胸の前で交差、よく見ると手や足に蛇を巻き付けた個性的な明王。災いを取り除くと言われています。
仁和寺ホームページより
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