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四天王寺聖徳太子1400年限定御朱印大バナー2023年5月※蓮華王院(三十三間堂)ではいただけません

れんげおういん(さんじゅうさんげんどう)|天台宗

蓮華王院(三十三間堂)

京都府 七条駅

8時~17時(11月16日~3月は9時~16時)年中無休、受付終了は30分前

投稿する
075-561-0467

※お問い合わせの際は「ホトカミを見た」と
お伝えいただければ幸いです。

御朱印・御朱印帳

御朱印 (1種類)

蓮華王院(三十三間堂)では、大悲殿の御朱印をいただけます。

大悲殿の御朱印

300円

真ん中に「大悲殿」と墨書きされています。
右上に「洛陽十七番」の印、「大悲殿」の文字に寺紋印、左下に「三十三間堂」の印が押されています。

御朱印帳

三十三間堂では「納経帖」として1種類授与されます。
春と秋にそれぞれの意匠を取り入れた期間限定の「納経帖」が授与されます。

通常の御朱印帳 (えんじ色)

表面に本堂が金色で描かれている、シンプルなデザインの御朱印帳です。

授与場所・時間

三十三間堂の御朱印は、本堂(三十三間堂)内で授与していただけます。
受付時間は季節によって異なるため、公式サイトをご確認ください。

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御朱印について
御朱印
あり
限定
-
御朱印帳
あり
パーキング
駐車場
あり

あり(50台)

巡礼

洛陽三十三所観音霊場
洛陽三十三所観音霊場第17番札所

蓮華王院(三十三間堂)について

会いたい人の顔が1000体の観音像の中から見つかる?


本堂には国宝である風神雷神像、観音二十八部衆、そして1000体の等身大観音立像が並び圧巻。これらの観音像の制作には多くの仏師が携わったため一体一体の表情が微妙に違います。この中に自分の会いたい人に似た仏像があると言われています。ぜひ探してみては?

時代を先取り!?平安時代の「免震」建築。正式名称は蓮華王院本堂(れんげおういんほんどう)


三十三間堂の基礎地盤には地下振動を吸収する版築、堂内の屋台骨は二十虹梁などの免震工法がとられています。平安時代からこうした災害対策が行われていたんですね。

おすすめの投稿

のぶさん
2022年03月09日(水)
1321投稿

修学旅行で訪れて以来なので三十数年振りの参拝です、当時は何も感じることなくただ眺めていたのだろうと。歳を重ねると見方も変わるものだなぁとつくづく思います。
こちらでも突然雪が降り出し、関東では経験することない晴れ時々雪を初体験できた一日でした。
三十三間堂。正しくは蓮華王院(れんげおういん)蓮華王とは千手観音のこと、蓮華王院本堂の内陣の柱間(はしらま)が33あることことから、「三十三間堂」と呼んでいる。現在の三十三間堂は建長元年(1249)の火災後に再建された2代目。

東に面して南北120メートルに伸びる長大な空間に仏像がひしめく光景は、一度見たら忘れられない光景。じつはここには後白河法皇の極楽往生を望む執念がつまっているのだ。

三十三間堂に安置されているのは、中尊である丈六の「千手観音菩薩坐像」、守護神の「風神・雷神像」、眷属(けんぞく=従者)の「二十八部衆像」(いずれも国宝)、そして「千手観音立像」1001体(重文)と合わせて、その数1032体!

これだけの仏像がどういう風に並べられているかというと、国宝の中尊の左右それぞれ10段に、千手観音像が各段50体ずつ階段状に並べられ、中尊の後ろにも1体安置されている。

出口付近にある売店で奈良時代から同じ製法で作られてるお菓子を購入しました、昔は貴族した食べれなかった貴重なものをいただける貴重な経験を京都の最後にさせていただきました✨帰宅後に間違いなく食べる機会は無かったと思われるご先祖様にもお仏壇に備えさせていただきました。

蓮華王院(三十三間堂)(京都府)蓮華王院(三十三間堂)(京都府)蓮華王院(三十三間堂)の庭園蓮華王院(三十三間堂)(京都府)蓮華王院(三十三間堂)の本殿蓮華王院(三十三間堂)の建物その他蓮華王院(三十三間堂)(京都府)蓮華王院(三十三間堂)の庭園蓮華王院(三十三間堂)の建物その他蓮華王院(三十三間堂)(京都府)蓮華王院(三十三間堂)(京都府)蓮華王院(三十三間堂)の本殿蓮華王院(三十三間堂)の本殿蓮華王院(三十三間堂)(京都府)蓮華王院(三十三間堂)(京都府)
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きどっち
2021年10月31日(日)
953投稿

第七十七代後白河天皇が退位後上皇として、この地に御所を造営して院政を行なわれました。
長寛2年(1164年)に平清盛に命じて、蓮華王院の本堂として造営されましたが、80年後に焼失してしまったそうです。
しかしまもなくして、後嵯峨上皇によって1266年に再建されたとのこと。
桃山時代には豊臣秀吉によって建立された大仏殿方広寺の境内に取り込まれ、南大門や太閤塀が築かれました。

三十三間堂は子供の頃に行ったような記憶がうっすらとあるのですが、1001体の観音様を見た記憶が・・・ない!
ということで今回はしっかりと脳裏に焼き付けてまいりました。
しかし1001体の金色の観音様はさすがに圧巻ですが、これを忘れるとは思えないんですよね。
子供の時の記憶ってそんなもんなんでしょうか。

本堂内は撮影禁止だったため本堂の外側のみの写真となりましたが、実は本堂内は結構拝観者が多く、さらに修学旅行生とも被ってしまいました。
一体一体顔が異なる観音様や、迫力の風神雷神様、二十八部衆像をもう少しじっくり見たかったですがあまり長く立ち止まることができず。

御朱印は本堂内でいただけるのですが、御朱印帳を持っていってたものの、秋限定のイチョウの御朱印帳を見た瞬間衝動的に手に取ってしまい、そちらに御朱印をいただきました。

蓮華王院(三十三間堂)の山門

東大門

蓮華王院(三十三間堂)の建物その他

東大門から南大門方向

蓮華王院(三十三間堂)の山門

南大門(重文)
慶長5年(1600年)の建造。
豊臣秀吉がここから北に約500mのところにある方広寺の南門として建てたものだそうです。

蓮華王院(三十三間堂)の山門蓮華王院(三十三間堂)の建物その他

太閤塀(重文)
豊臣秀吉によって寄進された築地塀で、軒丸瓦には豊臣家の家紋である五七ノ桐を見ることができます。
最初の太閤塀は慶長伏見地震で倒壊したため、現在の太閤塀は豊臣秀頼により再建されました。

蓮華王院(三十三間堂)の本殿

本堂正面
と言ってもここからは入れません。
本堂への出入りは本堂北側の拝観入口のみとなります。

蓮華王院(三十三間堂)の芸術蓮華王院(三十三間堂)の本殿

それでは本堂の周りを一周してみます。

蓮華王院(三十三間堂)の本殿

本堂南側

蓮華王院(三十三間堂)の本殿

本堂西側にまわってみます。

蓮華王院(三十三間堂)の本殿

毎年1月中旬にここで通し矢が行なわれます。
今ではニュースなどで成人を迎えた晴れ着姿の男女が弓矢の腕前を競っていますが、江戸時代には各藩で競い合い負けると切腹なんていうこともあったとか。

蓮華王院(三十三間堂)の庭園

東庭池泉(南側)

蓮華王院(三十三間堂)の庭園

東庭池泉(北側)

蓮華王院(三十三間堂)の建物その他

鐘楼

蓮華王院(三十三間堂)の塔

法然塔

蓮華王院(三十三間堂)の建物その他蓮華王院(三十三間堂)の地蔵

夜泣泉

蓮華王院(三十三間堂)の建物その他蓮華王院(三十三間堂)の末社

稲荷社
久勢大明神

蓮華王院(三十三間堂)の建物その他

南大門と太閤塀を内側から

蓮華王院(三十三間堂)の仏像蓮華王院(三十三間堂)の建物その他

境内のマンホール
これも有名ですかね。

蓮華王院(三十三間堂)の御朱印帳

季節限定御朱印帳

蓮華王院(三十三間堂)の御朱印

御朱印

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歴史

この地には、もともと後白河上皇が離宮として建てた法住寺殿があった。その広大な法住寺殿の一画に建てられたのが蓮華王院本堂、今に言う三十三間堂である。
上皇が平清盛に建立の資材協力を命じて旧暦の長寛2年12月17日(西暦1165年1月30日)に完成したという。創建当時は五重塔なども建つ本格的な寺院であったが、建長元年(1249年)の火災で焼失した。文永3年(1266年)に本堂のみが再建されている。現在「三十三間堂」と称される堂がそれであり、当時は朱塗りの外装で、内装も極彩色で飾られていたという。建築様式は和様に属する。
桃山時代には、豊臣秀吉の東山大仏(方広寺)造営により、三十三間堂もその境内に含まれ、周囲の土塀や門などが整備された。
「三十三間堂」の名称は、間面記法による表記「三十三間四面」に由来する。「33」は観音に縁のある数字で、『法華経』等に観音菩薩が33種の姿に変じて衆生を救うと説かれることによる。俗に「三十三間堂の仏の数は三万三千三十三体」というのは、本尊と脇仏の一千一体がそれぞれ33に化身するからである。
江戸時代には各藩の弓術家により本堂西軒下(長さ約121m)で矢を射る「通し矢」の舞台となった。縁の北端に的を置き、縁の南端から軒天井に当たらぬよう矢を射抜くのである。「通し矢」の名もこの「軒下を通す」ということからきている。強弓を強く射なければ到底軒下を射通すことができない。それゆえ弓術家の名誉となったのである。その伝統に因み、現在は「楊枝のお加持」大法要と同日(1月中旬)に、本堂西側の射程60mの特設射場で矢を射る「三十三間堂大的全国大会」が行われる。弓道をたしなむ新成人参加者が振袖袴姿で行射する場面は、しばしばニュース番組等で取り上げられる。一般的には「通し矢」と呼ばれているが、60mは弓道競技の「遠的」の射程であり、軒高による制限もないから、かつての通し矢とはまったく違うものである。

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蓮華王院(三十三間堂)の基本情報

住所京都府京都市東山区三十三間堂廻り町657
行き方

JR京都駅より、市バス100・206・208系統で10分「博物館三十三間堂前」下車すぐ
京阪七条駅より徒歩7分

アクセスを詳しく見る
名称蓮華王院(三十三間堂)
読み方れんげおういん(さんじゅうさんげんどう)
参拝時間

8時~17時(11月16日~3月は9時~16時)年中無休、受付終了は30分前

参拝にかかる時間

1時間

参拝料

一般600円、中高生400円、子供300円

トイレあり
御朱印あり

限定御朱印なし
御朱印帳あり
電話番号075-561-0467
お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。
ホームページhttp://www.sanjusangendo.jp/
お守りあり

詳細情報

ご本尊千手観音
宗旨・宗派天台宗
創建時代長寛二年(1165)
札所など

洛陽三十三所観音霊場第17番札所

ご由緒

この地には、もともと後白河上皇が離宮として建てた法住寺殿があった。その広大な法住寺殿の一画に建てられたのが蓮華王院本堂、今に言う三十三間堂である。
上皇が平清盛に建立の資材協力を命じて旧暦の長寛2年12月17日(西暦1165年1月30日)に完成したという。創建当時は五重塔なども建つ本格的な寺院であったが、建長元年(1249年)の火災で焼失した。文永3年(1266年)に本堂のみが再建されている。現在「三十三間堂」と称される堂がそれであり、当時は朱塗りの外装で、内装も極彩色で飾られていたという。建築様式は和様に属する。
桃山時代には、豊臣秀吉の東山大仏(方広寺)造営により、三十三間堂もその境内に含まれ、周囲の土塀や門などが整備された。
「三十三間堂」の名称は、間面記法による表記「三十三間四面」に由来する。「33」は観音に縁のある数字で、『法華経』等に観音菩薩が33種の姿に変じて衆生を救うと説かれることによる。俗に「三十三間堂の仏の数は三万三千三十三体」というのは、本尊と脇仏の一千一体がそれぞれ33に化身するからである。
江戸時代には各藩の弓術家により本堂西軒下(長さ約121m)で矢を射る「通し矢」の舞台となった。縁の北端に的を置き、縁の南端から軒天井に当たらぬよう矢を射抜くのである。「通し矢」の名もこの「軒下を通す」ということからきている。強弓を強く射なければ到底軒下を射通すことができない。それゆえ弓術家の名誉となったのである。その伝統に因み、現在は「楊枝のお加持」大法要と同日(1月中旬)に、本堂西側の射程60mの特設射場で矢を射る「三十三間堂大的全国大会」が行われる。弓道をたしなむ新成人参加者が振袖袴姿で行射する場面は、しばしばニュース番組等で取り上げられる。一般的には「通し矢」と呼ばれているが、60mは弓道競技の「遠的」の射程であり、軒高による制限もないから、かつての通し矢とはまったく違うものである。

体験仏像御朱印国宝武将・サムライ札所・七福神巡り

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