なんぜんじ|臨済宗南禅寺派
南禅寺
京都府 蹴上駅
12月1日~2月28日 午前8時40分~午後4時30分 3月1日~11月30日 午前8時40分~午後5時
南禅寺
~亀山上皇を偲んで②~
山号 瑞龍山
宗派 臨済宗南禅寺派
寺格 大本山
京都五山および鎌倉五山の別格上位
御本尊 釈迦如来
創建年 正応4年(1291年)
開山 無関普門(大明国師)
開基 亀山法皇
正式名 瑞龍山 太平興国南禅禅寺
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ニ度にわたる元寇(蒙古襲来)など多難な問題に直面した亀山天皇は、後嵯峨天皇の第4皇子で兄の後深草天皇の後を継いで正元元年(1259)11歳で即位されます。
元寇(元軍来襲)の際、「我が身を以て国難に代わらん」と「敵国降伏」を祈願されました。「敵国降伏」とは、武力で敵を降伏させるのではなく、徳の力をもって導き、相手が自ら靡き伏するという意味です。
積極的な行動派の賢帝とされていましたが、25歳で皇子の後宇多天皇に譲位し上皇となった後も、意欲的に政務に取り組まれました。 40歳になった正応2年(1289)離宮で出家して法皇となり、その離宮を寄進して禅寺とされます。その離宮の遺跡が、赤レンガの水路閣をくぐって石段を登ったところにある南禅院で、南禅寺発祥の地です。
平成16年(2004)は亀山法皇の700年忌となり、4月7日から17日まで盛大な大法要が営まれました。
皇家の人間ながら、当時の新興宗教である禅宗・律宗を手厚く保護されました。
五山別格とされ臨済宗寺格第一である南禅寺は、無関普門(大明国師)に帰依した亀山天皇の勅願によるものです。また、真言律宗の開祖である西大寺の叡尊(興正菩薩)にも深く帰依されました。禅律振興政策は孫である後醍醐天皇、及び後醍醐を敬愛された足利尊氏に継承されました。
境内には亀山法皇の遺言によって分骨埋葬された御廟があります。
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日本最初の勅願禅寺であり、京都五山および鎌倉五山の上に置かれる別格扱いの寺院で、約700年以上昔当時最も傑出した禅僧が歴代住持として住山し、五山文学の中心地となるなど、禅界最高の格式を持ちます。
南禅寺を別格とし、その下に天竜寺・相国寺・建仁寺・東福寺・万寿寺が位置します。
南禅寺境内の東の奥に建つ方丈(国宝)は、もともと別の建物であった大方丈と小方丈がひとつにまとめられています。入母屋造、柿(こけら)葺きの大方丈は、豊臣秀吉が天正17年(1589)に造営して寄進した御所の清涼殿を慶長16年に移築したもので、寝殿造りの美しい形を今に伝えています。
左甚五郎が彫った両面透かし彫りの欄間が掲げられ、縁側の欄干の金具には南禅寺の山号の瑞龍の紋が彫刻されています。
南禅院は応仁の乱の兵火で焼失した後、しばらくそのままになっていましたが、元禄16年(1703)徳川5代将軍・綱吉の母・桂昌院が方丈を再建して寄進されます。方丈の襖絵は狩野養朴父子の筆による水墨画が描かれ、軒丸瓦は菊の紋が象られています。 方丈内陣に安置されている法皇の木像(国・重文)は、椅子に座る法体姿で、玉眼をはめた写実性豊かで落ち着いた雰囲気の像です。納衣には飛雲、袈裟には霊鳥と草花の文様が金泥で描かれており、崩御から間もない時期に製作されたと思われます。
南禅寺山を背後にした庭園は、京都に残る鎌倉時代の代表的な池泉回遊式庭園で、亀山法皇自らの作庭とも言われます。大方丈の6室の襖には、狩野永徳や狩野元信ら狩野派絵師らの筆による中国の孝子説話「二十四孝図」や麝香の間の2匹と3匹の麝香猫の親子が対峙している「牡丹麝香猫図」のほか「宮嬪の図」など、壮麗な極彩色の襖絵(国・重文)120面が描かれています。禅宗風襖絵とは異なる桃山時代の金碧画として注目されています。
小方丈の3室は「虎の間」と呼ばれ、狩野探幽の筆による「竹林と虎」を主題にした虎の襖絵が42面描かれ、中でも水を呑む虎とそれを眺める虎の美しい姿態の「水呑みの虎」の絵が名高くあります。
周囲を深い樹林で包まれた静かな庭園は、国の史跡・名勝に指定されていて、新緑と紅葉の時期はことに深い趣があります。
庭園の大小の池の上池は曹源池と呼び、竜の形に作られ、中央に蓬莱島があります。下池は池を心字形にしないで島を心字島にしたところに特色があります。築庭当時の庭には吉野の桜、難波の葦、竜田の楓が移植され、井手の蛙も放たれていたとの記録があるそうです。
三門は禅寺の仏殿前にある三解脱門、すなわち空門・無相門・無作門に例えて言い、禅宗七堂伽藍のひとつに入る重要な建物です。
創建当時の三門は永仁3年(1295)太政大臣・西園寺実兼が寄進、後に改築されましたが文安4年(1445)の火災で焼失。 現在の三門は寛永5年(1628)藤堂高虎が、大坂夏の陣で戦死した侍たちの冥福を念じて寄進されました。
禅宗様式の豪壮な建物は、巨大な門を支える列柱群が力強さを示し、日本三大門のひとつです。楼上の2階部分には縁がぐるりと取り巻いています。
南禅寺の三門は歌舞伎「楼門五三桐」で、楼上に住みついた大盗賊の石川五右衛門が、楼上からの眺めを「絶景かな、絶景かな、春の眺めは値千金とは小さなたとえ、この五右衛門の目からは万両」と言った名台詞の伝説があまりにも有名です。
今もこの台詞の通り楼上から京都市街、御所方向を見渡す眺めは素晴らしいとのことです。
京の三大門は、
知恩院の三門・南禅寺の三門・仁和寺の二王門です。
南禅寺法堂から境内を南へ進み南禅院前へ出ると、レンガ造りのアーチ型の水路閣が現れます。明治18年(1885)長等山と東山にトンネルを掘り、琵琶湖の水を京都へ引き入れる大胆な計画が実行に移されました。この琵琶湖疏水事業の一環として造られた水路が南禅寺境内にある水路閣で、今日もこの長さ93mのアーチ橋の上を琵琶湖の水が流れ続けています。 100年以上たった今では、レンガの色も古色に変化して周囲の景色に溶け込み、南禅寺を代表する景観のひとつとして参詣者の目に馴染んでいます。
文化財
方丈、亀山天皇宸翰禅林寺御祈願文案(国宝) 三門、勅使門、絹本著色大明国師像ほか(重要文化財) 境内(国の史跡) 方丈庭園(国の名勝)
南禅寺の主な塔頭
金地院 / 南禅院 / 天授庵 / 聴松院 / 慈氏院
境内北側にある南禅寺塔頭の薝蔔林寺(せんぷくりんじ)。
南禅僧堂、南禅寺専門道場ともいわれています。
南禅寺境内にある琵琶湖疏水の水道橋(水路閣)
湯豆腐は南禅寺周辺参道の精進料理が起源とされています。 山形県酒田市、鶴岡市では「南禅寺豆腐」というほぼ半球の形をした豆腐が名産。江戸時代に北前船に乗って京都から西廻り航路で伝わったといわれています。
~2月4日ROOT 京都駅迄~
🙋南禅寺福地町地蔵尊🙋
蹴上インクラインを渡る「南禅寺橋」
左の南禅寺参道と右の仁王門通に挟まれた「厭離庵」
このあたりから「琵琶湖疏水記念館」越しに吉田山、金戒光明寺の文殊塔が見えます
左の脇道に、厭離庵(左)と正面の南禅寺参道。
楽しい会話であっという間に京都タワーが見えてきました。
エメラルドにも見えるブルー(ワールドキャンサーデーの一環として)癒しの色でした。~
京都市左京区南禅寺福地町86
こちらの画像を見るとご一緒頂けて 楽しかった一時がよみがえります。ありがとうございました。
忍
亀山天皇分骨(御廟)
🙋南禅寺福地町地蔵尊🙋
蹴上インクラインを渡る「南禅寺橋」
「八千代」 小川治兵衛の庭を眺めながら南禅寺名物の湯豆腐や旬の食材を使い、継承の技を伝える京懐石が頂ける料理旅館です。八千代は 安土桃山時代に御所に出入りを許された魚問屋として始まり、天正16年(1588)聚楽第での盛宴の際にご用命を受けたと古い記録に残っているそうです。
~2月4日ROOT 京都駅迄~
🙋南禅寺福地町地蔵尊🙋
インクラインを渡る「南禅寺橋」
左の南禅寺参道と右の仁王門通に挟まれた「厭離庵」
このあたりから「琵琶湖疏水記念館」越しに吉田山、金戒光明寺の文殊塔が見えます
左の脇道に、厭離庵(左)と正面の南禅寺参道。
楽しい会話であっという間に京都タワーが見えてきました。
エメラルドにも見えるブルー(ワールドキャンサーデーの一環として)癒しの色でした。~
南禅寺御朱印帳
南禅寺(なんぜんじ)は、京都府京都市左京区南禅寺福地町にある臨済宗南禅寺派の大本山の寺院。山号は瑞龍山、正式には太平興国南禅禅寺と号する。開山は無関普門(大明国師)、開基は亀山法皇。本尊は釈迦如来。日本最初の勅願禅寺で、京都五山、鎌倉五山の上に置かれる別格扱いの寺院で、日本のすべての禅寺の中で最も高い格式を持つ。方丈は国宝、三門、勅使門、大方丈障壁画などは国指定の重要文化財。方丈前庭は国の名勝。境内全体が国の史跡。
創建は鎌倉時代末期の1291年、亀山天皇が大宮院(亀山天皇の母)の御所として造営した離宮を、無関普門(大明国師)を開山として寺院に改めたことに始まる。1334年には、禅寺の格付け制度である五山の制の下で京都五山の第一位となり、さらに足利義満によって五山の上という最高位に位置付けられ隆盛を極めた。その後、1393年、1447年の火災、1467年の応仁の乱の兵火で伽藍をことごとく焼失、江戸時代に入り、のちに徳川家康の側近になる以心崇伝が1605年に入寺してから本格的に復興が進んだ。なお、明治時代中期に、境内を通る琵琶湖疎水の水路閣が完成している。
当寺は、京阪本線・三条駅の東方2kmあまりの小山の裾野にある。明治時代に政府の上地に遭ったとはいえ、いまだに境内はかなり広々としている。観光客としては国宝の方丈や重文の三門、勅使門などを見て廻れば満足しそうだが、個別の建物や庭園を丁寧に見て廻ると、半日はゆうにかかると思われる。自分は初参拝につき、今回は観光客コースにした。
今回は京都旅行の1日目で3寺社目、臨済宗南禅寺派の大本山であることから参拝することに。参拝時は週末の正午ごろで、観光客が多く訪れていた。
※有料拝観エリアの方丈庭園、三門、南禅院をすべてパスしてしまった。要再参拝。
仁王通りの南禅寺前交差点から東方を望む。ここに<寺号標>がある。
境内入口の<中門>。1601年細川家家老・松井康之により伏見城内松井邸の門を勅使門として寄進されたもの。日の御門拝領に伴い現在地に移築、幕末までは脇門と呼ばれた。当寺は一般エリアは拝観無料。入ってすぐ右側は駐車場。
中門を入って左側に進むと、勅使門、三門、法堂を繋ぐ参道に出る。正面は<三門>。
きれいに色づいた木々。
参道脇にある昭和の臨済宗の高僧・森永湛堂自筆の石碑。「この門を 入れば涼風 おのづから」とある。高浜虚子に師事したホトトギス派の俳人でもあり、南禅寺住持に何度も推挙されながらも終生、臨済宗円通寺(佐賀県伊万里市)で過ごしたという。
こちらが<三門>。江戸時代初期1628年に津藩主・藤堂高虎の寄進。五間三戸の二重門。国指定の重要文化財。歌舞伎『楼門五三桐』で石川五右衛門が「絶景かな!絶景かな!」という名科白を回すのがこちら。
創建当時の三門は1295年に西園寺實兼の寄進だが応安年間(1368年~1375年)に建替えられ、1447年の南禅寺大火で焼失。
上層の「五鳳楼」には釈迦如来、十六羅漢、藤堂家歴代の位牌、大阪の陣の戦死者の位牌などを安置。拝観有料。(次回要参拝)
知恩院三門、東本願寺御影堂門とともに「京都三大門」の一つに数えられている。
参拝のタイミングが良かったみたいで、燃えるような紅葉が三門下から見える。
三門をくぐり、<法堂>を望む。
参道進んで振り返り、紅葉と<三門>。
紅葉を振り返りながら進むと、いよいよ<法堂>が見えてくる。
<法堂>全景。
<法堂>内部の須弥壇。中央には本尊・釈迦如来坐像、右側に文殊菩薩、左側に普賢菩薩を配置。
<法堂>内部の<幡龍>。今尾景年画伯畢生の大作と云われる。
法堂の右奥にある<本坊>。御朱印はこちら。
本坊の南側にある、琵琶湖疏水の<水路閣>。 明治中期の1888年築。レンガ造りのアーチ橋。
<水路閣>と紅葉。後ろは<南禅院>。拝観有料。(ここで大失策。拝観パス。次回要参拝。)
写真映えする水路閣だが、観光客が多いので、人が写り込まないようにするのは至難の業!(^_^;)
水路閣近くにある<波気都歌(刷毛塚、はけつか)>。工芸に使用される刷毛(はけ)には動物の活毛が多く使用されているため、刷毛の恩恵、動物たちに感謝するために1969年に建立。
本坊の北側にある<大方丈>。方丈庭園は拝観有料。(ここで再び大失策。拝観パス。次回要参拝。)
境内北東にある<龍渕閣>。南禅寺派宗務本所。
境内北側にある南禅寺塔頭の薝蔔林寺(せんぷくりんじ)。南禅僧堂、南禅寺専門道場ともいう。
薝蔔林寺の境内の一部。臨済宗南禅寺派の専門道場は全国に4カ所(ほかに永保寺(岐阜県多治見市)、円通寺(佐賀県伊万里市)、広園寺(東京都八王子市))あり、その中心道場。
薝蔔林寺前から見た<法堂>。
ふたたび、三門から法堂までの参道。
ふたたび、三門の下から法堂を望む。
中門につながる坂道から見た<三門>と紅葉。
境内入口の中門を入って参道を進み、右手にある<天授庵庭園>の入口。天授庵は1339年に南禅寺15世・虎関師錬が開山の無関普門の塔所として開いた塔頭。1602年に細川幽斎が再興。この中にも方丈、庫裡、大書院などの建物があり、その周りが庭園となっているみたい。拝観有料。
境内入口の中門の隣にある<勅使門>。1641年に明正天皇により御所の「日の御門」を拝領し移築したもの。国指定の重要文化財。
何度も行っていると意外に写真を撮り忘れる事があるようで・・・。
改めて見ると少ない事に驚きました(苦笑)
石川五右衛門が「絶景かな、絶景かな」と言ったとか言わなかったとかの三門をいつでも拝観できるのはここだけかも。
定番の観光地なので常に門前は観光バスに溢れてまして、外観を写真におさめるのは難しい(苦笑)
その所為で有名な三門の写真が多いんでしょうね。
穴場は雨の5・6月かもしれません。
わりと少ないかもと思えます。
実はこの頃のお庭が一番艶めいていて私は綺麗だと思うんです。新緑の香りが素敵です。
いつも電車で来るので(地下鉄が無かった頃はバスか最寄り駅から歩いていましたが・・・)「蹴上」で下りて「ねじりまんぽ」と呼ばれる明治の遺構でもある短いレンガのトンネルを通って毎回参拝します。
ここには塔頭が並んでいて春秋の特別拝観の時期になると公開されることもあります。
「橋の上を水が走る」と言われる「水路閣」
これを南禅寺の境内に通すという話になった頃結構反対があったんですが(当たり前か)今ではすっかり溶け込んで美しい風景を醸し出していますね。
それにしても大胆な発想だなぁって今でも思いますよね。
ところで、「山門」と「三門」の違いなんですが、最近知ったというお粗末な話。
「禅宗寺院などでは「山門」の字を使わず、「三門」と書く場合もあります。 これは、「三解脱門」の略で、迷いから解放されるための三つの道を門に例えたもので、寺院の正門を指します。 三つの道とは空・無相・無願で、どれも物事にとらわれないことを意味します。 そこから三門は五間三戸(柱の間が五つで、入り口が三つ)に造るのが基本ですが、実際には三間一戸のものもあります」とありました。
三門(重要文化財)
三門からの風景
南禅院
南禅院
南禅院
方丈
方丈庭園
庭を結ぶ渡り廊下
大方丈前広縁上部欄間彫刻(左甚五郎作)
三門
水路閣
水路閣
水路閣
ねじりまんぽ
ねじりまんぽ
ねじりまんぽ
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