ほっけどうあと(みなもとのよりとものはか・ほうじょうよしときのはか)
法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)神奈川県 鎌倉駅
階段登り口へ至るまでの周囲が民家なのですが、常識的な時間帯ならばいつでも参拝できます。
ほっけどうあと(みなもとのよりとものはか・ほうじょうよしときのはか)
階段登り口へ至るまでの周囲が民家なのですが、常識的な時間帯ならばいつでも参拝できます。
駐車場 | なし | ||
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御朱印 | ありません |
鎌倉市西御門にある源頼朝のお墓。
鎌倉幕府を開き武家政権の礎を築いた征夷大将軍源頼朝を祀る法華堂が現在石塔のあるこの場所にあったと云われ宝治合戦では三浦一族がこの場所で自刃しました。後に法華堂は新たに建て直されましたが明治になると廃仏毀釈により取り壊されました。法華堂があった場所に新たに建てられたのが現在の白旗神社です。現在のお墓である石塔は江戸時代に薩摩藩主島津重豪が建てたものです。これは島津家初代忠久が頼朝の落胤だという伝承を信じていたからだと云われています。お墓ですが鳥居と手水があり他のお墓とは雰囲気が違います。先人に敬意を払いお線香をあげ手を合わせてきました。
源頼朝墓のすぐ傍にある北条義時の墓である法華堂があった場所があります。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公でもある北条義時は鎌倉幕府二代執権にして得宗家初代。承久の乱で後鳥羽上皇に勝利し幕府による執権政治を確立した人物です。現在法華堂跡には史跡表示板がいくつかあるだけですが発掘調査で基礎などが発見されています。QRコードで専用アプリをダウンロードすればARで立体的に再現された法華堂を見ることができるようですが私のスマホの機種ではダウンロードできませんでした。跡地ではありますが頼朝と並ぶ中世の偉人のお墓の跡なので手を合わせてきました。法華堂跡には他に宝治合戦で自刃した三浦一族を供養するやぐらや同じく宝治合戦で自刃した毛利家初代毛利季光、その父で頼朝に仕えた大江広元、島津家初代島津忠久のお墓もあります。
源頼朝墓前
鳥居
源頼朝墓
周りの森
説明板
笹竜胆の手すり
法華堂跡
鳥居
手水
史跡法華堂跡
法華堂(北条義時)墓前
法華堂跡(北条義時墓)
法華堂跡(北条義時墓)
AR北条義時法華堂
発掘調査成果と表示
三浦一族のやぐら
鳥居
手水
島津忠久墓
大江広元墓
毛利季光墓
説明板
源頼朝墓説明書き
22.03.04 鎌倉 ” 法華堂跡 ” と、
敷地内の 伝・中世武士の各墓所<供養塔>を拝礼。
01-1) 北条義時 「法華堂跡」 _ 鎌倉市西御門(にしみかど)
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私感: 大河ドラマ関連でなのか? 手摺設置など整備されたが、
嘗ては見捨てられたような場所と感じていた。
嘗ての私としては ’ 大江広元墓所 ’ 入り口との認識で、
” 北条泰時 ” の名前すら想起することもなかった。
一時期だったが ” 大江広元墓所 ” と書かれた、
大風で吹き飛ばされてしまうような薄板木札が掛かっていたこともあった。
道標も見当たらず 頼朝墓所階段前を右折した未舗装路を20m弱の場所だが
時を経て道沿いには民家が迫っているし、
未舗装路を更に進むと新宅地開発された区域に至り
袋小路へ迷い込んだような気分になる。
大河ドラマ放映後の数年間は観光客さまが訪れるであろうが、
極々控えめな観光コース表示に留まると思う。
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01-2) 高台平地の、北条義時 「法華堂跡」 への階段。
(少し離れた階段からの ’ 源頼朝墓所 ’ のような 墓塔<供養塔>のような、
北条義時の墓塔は ’ ありません ’。)
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02-1) 階段を登りきって、平地へ入ったところ。
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02-2) 嘗ては草ぼうぼうだったが、近年に大掛かりに整備された平地の
史跡標 ※ ” 史跡 法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)
史跡指定年月日 平成十八年七月二十八日 ”
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※ 文化庁 ’ 国指定文化財等 ’ での名称。_
_ https://kunishitei.bunka.go.jp/heritage/detail/401/778
参考: 文化庁が運営する電子情報広場 ’ 文化遺産オンライン ’ での項目ページ
_ https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/209910
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02-3) 解説ボード
” 国指定 法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓) ” の日本語部分
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02-4) ARアプリケーションソフトのインストール方法と使い方 解説ボード
↑ ↓ 画像を拡大操作すると、QRコードが使えるかもしれません。
03-1) ARアプリケーションソフトの使い方 解説ボード
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03-2) 発掘調査を経て整備された史跡の遠景
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03-3) 雨落溝を模したような、
小石を敷いた白線状で囲われた ” 北条義時法華堂跡 ”
この区域を 北条義時墓 と見做している ’ らしい ’。
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< 以下は、国指定史跡の範囲外だと思う。>
( ↑ 写真の鳥居左方の奥: 伝 ’ 三浦一族墓所<供養塔>やぐら )
04) 写真03-3)の左方奥、伝 ’ 三浦一族墓所<供養塔>やぐら ’
_ ’ 宝治合戦/宝治の乱 ’ で 三浦泰村以下一族郎党500余人が自刃し、
葬られたところとされる。
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05-1) 二列で それぞれ2本の階段登り口。
片方の登り口に鳥居があるが、他方には 墓所やぐら開口部に鳥居がある。
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05-2) 中段の平場で、両階段の行き来は この場だけ。
むかって左: ’ 大江広元墓所 ’ と ’ 毛利季光墓所 ’、右: ’ 島津忠久墓所 ’
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06-1) 表示銘板 ” 毛利季光墓 ”
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06-2) 江戸時代に整備された ” 毛利季光(もうりすえみつ) ” 墓所<供養塔>
_ 本姓名は大江 季光(おおえ-の-すえみつ)で、大江広元の四男。
所領相模国毛利荘/荘園 からとされる、毛利氏の祖であり毛利元就の先祖。
<毛利元就の姓(セイ_ カバネではない)は、’ 大江 ’ >
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07-1) 右隣、表示銘板 ” 大江広元墓 ”
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07-2) 墓所<供養塔> ” 大江広元(おおえ-の-ひろもと) ” 墓所<供養塔>
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08-1) 写真05-2)へ戻り、右の階段から 表示銘板 ” 島津忠久 ” 墓所。
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08-2) 鳥居は此処に建つ、江戸時代に整備された ” 島津忠久(しまづただひさ)” 墓所<供養塔>
_ 本姓名は惟宗忠久(これむね の ただひさ)で、所領の島津荘からなのか 島津氏の祖。
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このページでは、’ 源頼朝墓所<供養塔> ’ の写真はありません。
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22.03.04C #鎌倉 ” #法華堂跡 ” と、
敷地内の 伝・ #中世武士 の各墓所< #供養塔 >を拝礼。 #鎌倉市西御門
https://mitch1.blog.ss-blog.jp/2022-03-09
/ #北条義時 #鎌倉殿の13人 #北条義時法華堂跡
法華堂跡(源頼朝墓)は、神奈川県の南東部に位置し、大蔵幕府跡推定地北側の山稜部とその南側山裾部に所在する。昭和二年の山稜中腹部の塚と石塔を源頼朝墓、山裾部の廟所跡(現在の白旗神社境内)を法華堂跡として史跡指定した。その後、赤星直忠氏の研究によって、源頼朝墓は法華堂と同一で、中腹の平場が法華堂跡であることが明らかにされ、平成十二年に法華堂跡(源頼朝墓)に統合・名称変更された。指定範囲は東西約一一〇メートル、南北約七〇メートルである。
二代執権、北条義時は元仁元年(一二二四)年六月十三日に死去し、十八日に葬儀が執り行われた。『吾妻鏡』十八日条に「故右大将家法華堂東の山上を以て墳墓となす」、八月八日条に「今日。故奥州禅室墳墓堂<新法花堂と号す。>供養なり」とあり、法華堂跡(源頼朝墓)の東隣の山稜平坦地が北条義時の法華堂跡と推定されていた。『吾妻鏡』をはじめとする文献史料には、幕府有力者が頼朝法華堂と義時法華堂を併せて参拝したこと、焼亡した両法華堂が幕府によって再興され、修復維持されていたことなどが記されている。義時法華堂の存続期間は、文献史料上の終見が延慶三年(一三一〇)であること(『鶴岡社務記録』等)、出土瓦の年代等から、元仁元年から鎌倉時代末期ころまでと推定される。
(文化遺産オンラインから引用)
住所 | 神奈川県鎌倉市西御門2丁目5 |
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行き方 | ・JR鎌倉駅東口から徒歩20分/・JR鎌倉駅東口4番・5番バス乗り場から ’ 八幡宮・浄明寺方面行き ’ で「岐れ道」下車し徒歩約3分 |
名称 | 法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓) |
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読み方 | ほっけどうあと(みなもとのよりとものはか・ほうじょうよしときのはか) |
参拝時間 | 階段登り口へ至るまでの周囲が民家なのですが、常識的な時間帯ならばいつでも参拝できます。 |
参拝にかかる時間 | 約20分~30分(源頼朝墓所階段と法華堂跡階段が離れていることと、大江広元墓所を含む各所を廻ると広くはない見た目の規模の割には想定よりも時間がかかるかもしれません。) |
参拝料 | なし |
トイレ | なし(ヒント:少し離れた「荏柄天神社」参拝と併せて拝借させていただくことが可能です) |
御朱印 | なし |
電話番号 | 0467-61-3857(鎌倉市文化財課) お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
ホームページ | https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/209910 |
ご本尊 | 源頼朝、北条義時 |
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宗旨・宗派 | |
創建時代 | 源頼朝墓:1199年(正治元年) 北条義時墓:1224年(元仁元年) |
文化財 | 法華堂跡 源頼朝墓・北条義時墓(国指定史跡) |
ご由緒 | 法華堂跡(源頼朝墓)は、神奈川県の南東部に位置し、大蔵幕府跡推定地北側の山稜部とその南側山裾部に所在する。昭和二年の山稜中腹部の塚と石塔を源頼朝墓、山裾部の廟所跡(現在の白旗神社境内)を法華堂跡として史跡指定した。その後、赤星直忠氏の研究によって、源頼朝墓は法華堂と同一で、中腹の平場が法華堂跡であることが明らかにされ、平成十二年に法華堂跡(源頼朝墓)に統合・名称変更された。指定範囲は東西約一一〇メートル、南北約七〇メートルである。
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体験 | 重要文化財武将・サムライ有名人のお墓伝説 |
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