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ほっけどうあと(みなもとのよりとものはか・ほうじょうよしときのはか)

法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)
神奈川県 鎌倉駅

階段登り口へ至るまでの周囲が民家なのですが、常識的な時間帯ならばいつでも参拝できます。

パーキング
駐車場
なし

なし

御朱印について御朱印
なし
ありません

法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)について

鎌倉幕府を開いた源頼朝のお墓とその義弟で執権政治を確立した北条義時のお墓の跡地。
他に三浦一族のやぐらや毛利季光•大江広元•島津忠久のお墓もあります。

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高砂あさっぴー
高砂あさっぴー
2024年10月29日(火) 19時41分22秒
1390投稿

鎌倉市西御門にある源頼朝のお墓。
鎌倉幕府を開き武家政権の礎を築いた征夷大将軍源頼朝を祀る法華堂が現在石塔のあるこの場所にあったと云われ宝治合戦では三浦一族がこの場所で自刃しました。後に法華堂は新たに建て直されましたが明治になると廃仏毀釈により取り壊されました。法華堂があった場所に新たに建てられたのが現在の白旗神社です。現在のお墓である石塔は江戸時代に薩摩藩主島津重豪が建てたものです。これは島津家初代忠久が頼朝の落胤だという伝承を信じていたからだと云われています。お墓ですが鳥居と手水があり他のお墓とは雰囲気が違います。先人に敬意を払いお線香をあげ手を合わせてきました。
源頼朝墓のすぐ傍にある北条義時の墓である法華堂があった場所があります。
大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公でもある北条義時は鎌倉幕府二代執権にして得宗家初代。承久の乱で後鳥羽上皇に勝利し幕府による執権政治を確立した人物です。現在法華堂跡には史跡表示板がいくつかあるだけですが発掘調査で基礎などが発見されています。QRコードで専用アプリをダウンロードすればARで立体的に再現された法華堂を見ることができるようですが私のスマホの機種ではダウンロードできませんでした。跡地ではありますが頼朝と並ぶ中世の偉人のお墓の跡なので手を合わせてきました。法華堂跡には他に宝治合戦で自刃した三浦一族を供養するやぐらや同じく宝治合戦で自刃した毛利家初代毛利季光、その父で頼朝に仕えた大江広元、島津家初代島津忠久のお墓もあります。

法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)の景色

源頼朝墓前

法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)の鳥居

鳥居

法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)のお墓

源頼朝墓

法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)の自然

周りの森

法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)の歴史

説明板

法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)の芸術

笹竜胆の手すり

法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)の庭園

法華堂跡

法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)の鳥居

鳥居

法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)の手水舎

手水

法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)のお墓

史跡法華堂跡

法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)の景色

法華堂(北条義時)墓前

法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)のお墓

法華堂跡(北条義時墓)

法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)のお墓

法華堂跡(北条義時墓)

法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)の体験その他

AR北条義時法華堂

法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)の歴史

発掘調査成果と表示

法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)のお墓

三浦一族のやぐら

法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)の鳥居

鳥居

法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)の手水舎

手水

法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)のお墓

島津忠久墓

法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)のお墓

大江広元墓

法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)のお墓

毛利季光墓

法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)の歴史

説明板

法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)の歴史

源頼朝墓説明書き

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歴史

法華堂跡(源頼朝墓)は、神奈川県の南東部に位置し、大蔵幕府跡推定地北側の山稜部とその南側山裾部に所在する。昭和二年の山稜中腹部の塚と石塔を源頼朝墓、山裾部の廟所跡(現在の白旗神社境内)を法華堂跡として史跡指定した。その後、赤星直忠氏の研究によって、源頼朝墓は法華堂と同一で、中腹の平場が法華堂跡であることが明らかにされ、平成十二年に法華堂跡(源頼朝墓)に統合・名称変更された。指定範囲は東西約一一〇メートル、南北約七〇メートルである。
 二代執権、北条義時は元仁元年(一二二四)年六月十三日に死去し、十八日に葬儀が執り行われた。『吾妻鏡』十八日条に「故右大将家法華堂東の山上を以て墳墓となす」、八月八日条に「今日。故奥州禅室墳墓堂<新法花堂と号す。>供養なり」とあり、法華堂跡(源頼朝墓)の東隣の山稜平坦地が北条義時の法華堂跡と推定されていた。『吾妻鏡』をはじめとする文献史料には、幕府有力者が頼朝法華堂と義時法華堂を併せて参拝したこと、焼亡した両法華堂が幕府によって再興され、修復維持されていたことなどが記されている。義時法華堂の存続期間は、文献史料上の終見が延慶三年(一三一〇)であること(『鶴岡社務記録』等)、出土瓦の年代等から、元仁元年から鎌倉時代末期ころまでと推定される。
(文化遺産オンラインから引用)

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法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)の基本情報

住所

神奈川県鎌倉市西御門2丁目5

行き方

・JR鎌倉駅東口から徒歩20分/・JR鎌倉駅東口4番・5番バス乗り場から ’ 八幡宮・浄明寺方面行き ’ で「岐れ道」下車し徒歩約3分

アクセスを詳しく見る
名称

法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)

読み方

ほっけどうあと(みなもとのよりとものはか・ほうじょうよしときのはか)

参拝時間

階段登り口へ至るまでの周囲が民家なのですが、常識的な時間帯ならばいつでも参拝できます。

参拝にかかる時間

約20分~30分(源頼朝墓所階段と法華堂跡階段が離れていることと、大江広元墓所を含む各所を廻ると広くはない見た目の規模の割には想定よりも時間がかかるかもしれません。)

参拝料

なし

トイレなし(ヒント:少し離れた「荏柄天神社」参拝と併せて拝借させていただくことが可能です)
電話番号0467-61-3857(鎌倉市文化財課)
お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。
ホームページhttps://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/209910

詳細情報

ご本尊源頼朝、北条義時
宗旨・宗派
創建時代

源頼朝墓:1199年(正治元年) 北条義時墓:1224年(元仁元年)

文化財

法華堂跡 源頼朝墓・北条義時墓(国指定史跡)

ご由緒

法華堂跡(源頼朝墓)は、神奈川県の南東部に位置し、大蔵幕府跡推定地北側の山稜部とその南側山裾部に所在する。昭和二年の山稜中腹部の塚と石塔を源頼朝墓、山裾部の廟所跡(現在の白旗神社境内)を法華堂跡として史跡指定した。その後、赤星直忠氏の研究によって、源頼朝墓は法華堂と同一で、中腹の平場が法華堂跡であることが明らかにされ、平成十二年に法華堂跡(源頼朝墓)に統合・名称変更された。指定範囲は東西約一一〇メートル、南北約七〇メートルである。
 二代執権、北条義時は元仁元年(一二二四)年六月十三日に死去し、十八日に葬儀が執り行われた。『吾妻鏡』十八日条に「故右大将家法華堂東の山上を以て墳墓となす」、八月八日条に「今日。故奥州禅室墳墓堂<新法花堂と号す。>供養なり」とあり、法華堂跡(源頼朝墓)の東隣の山稜平坦地が北条義時の法華堂跡と推定されていた。『吾妻鏡』をはじめとする文献史料には、幕府有力者が頼朝法華堂と義時法華堂を併せて参拝したこと、焼亡した両法華堂が幕府によって再興され、修復維持されていたことなどが記されている。義時法華堂の存続期間は、文献史料上の終見が延慶三年(一三一〇)であること(『鶴岡社務記録』等)、出土瓦の年代等から、元仁元年から鎌倉時代末期ころまでと推定される。
(文化遺産オンラインから引用)

体験重要文化財武将・サムライ有名人のお墓伝説
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