とうしょうだいじ|律宗
唐招提寺奈良県 西ノ京駅
8:30~17:00(受付は16:30まで)
御朱印(2種類)
唐招提寺では、「唐招提寺の御朱印」と「鑑真大和上の御朱印」の2種類の御朱印をいただけます。
唐招提寺の御朱印
真ん中に盧遮那仏、左下に唐招提寺と書かれ、真ん中に唐招提寺の印が押されています。
盧遮那仏は唐招提寺の金堂御本尊です。
奈良市五条町の唐招提寺にご参拝させていただきました🥹🌿
南大門から入る正面の唐招提寺金堂は手前一間に壁が無く吹き放しで八本の立派な円柱が列をなして並んでいて ずどーっんと大きく目に入はいってきて とても印象的です🥹🌿
盧舎那仏坐像(奈良時代)中央(ご本尊)
薬師如来立像(平安時代)右側
千手観音立像(奈良時代)左側
(いずれも国宝です)
それぞれの仏さまの前で畏かしこみ畏かしこみそれぞれのご真言を唱上させていただきました🥹🌿
大きく包み込んでいただくような なんとも言えないオーラの仏さまの表情にとても感動しました🥹🌿
鑑真さまの御廟は 緑の苔こけむす 癒しの空間で 落ち着いた雰囲気にほっとできました🥹🌿ゆったりと時間をとって散策させていただきました🥹🌿 「もっともっと仏を頼って良いのだぞ」(現世でもあの世でも)と鑑真さんが語っておられた一節を思い出しました☺️🌿(識子.S)
やっと憧れていた場所にご参拝することができました☺️🌿この感覚を忘れないように大切にあたためていきたいと思います🥹🌿
精進して また 健康にご参拝させていただけますように🥹🌿
御廟入口です🥹🌿
ここから まったくの別世界でした🥹🌿
🐉🐲🌿
唐招提寺
~天平の甍・蓮と長老と趙樸初先生~
🪷🪷🪷 🪷🪷🪷 🪷🪷🪷
宗派 律宗
寺格 総本山
御本尊 盧舎那仏(国宝)
創建年 天平宝字3年(759年)
開山 鑑真和上
中興年 寛元2年(1244年)
中興 覚盛(大悲菩薩)
札所等
大和北部八十八ヶ所霊場 第26・27番
神仏霊場巡拝の道第24番(奈良第11番)
ロータスロード
鴟尾(しび)とは、宮殿や仏殿などの瓦葺き屋根のてっぺんに、シャチホコと同じく大棟(おおむね)両端にのる飾りです。
奈良時代の建物で、寄棟造の屋根に鴟尾をのせているのは、天平の甍として有名な唐招提寺金堂のみです。
唐招提寺金堂では西側に奈良時代、東側に鎌倉時代の鴟尾をのせていました。
東大寺大仏殿やその他寄棟造の屋根で鴟尾をのせる建物は、この唐招提寺金堂の据えかたを真似しているそうです。
⭐⭐♡⭐⭐
唐招提寺は、苦難の末に来日を果たされた唐の高僧・鑑真和上が、759年戒律を学ぶ人々の修行の道場として創建されました。
当初は講堂や経蔵・宝蔵があるだけでしたが、8世紀後半、弟子によって金堂が完成。その荘厳な美しさは奈良時代の代表的な建築物として広く知られています。豊かな自然に包まれた静かな境内には国営・国の宝で、平城京の面影をたたえる伽藍や仏像など、数多くの国宝や重要文化財があり、時を越えて多くの人々に愛され、また感動を与えてきました。
鑑真和上が来日された際に、蓮根を持ち込まれたことから、開創以来、蓮を大切にしてこられました。
約130の蓮鉢では6月中旬から7月下旬まで、 2ヶ所の蓮池では7月中旬から9月初旬まで、 美しい蓮の花が咲き誇ります。
*乾漆鑑真和上坐像(国宝)
像高80.1㌢。
鑑真和上の弟子の忍基が、唐招提寺の講堂の梁が折れる夢を見、師僧の死去が間近いことを知って造らせたもの。鑑真和上が入滅された天平宝字7年(763年)頃の作と推定され、日本最古の肖像彫刻といわれます。脱活乾漆造ですが、膝上で組んだ両手は木製。
肖像彫刻としては異例の、目を閉じた形に表されます。
*御影堂
重要文化財。文化財指定名称は「旧一乗院 宸殿 殿上及び玄関」。鑑真和上の肖像彫刻(国宝)が安置される(開山忌前後の6月5日 - 7日のみ公開)。
建物は興福寺の有力な子院であった一乗院の宸殿で、慶安2年(1649年)の建立。一乗院が廃寺となった後、奈良県庁や、1962年(昭和37年)までは奈良地方裁判所の庁舎として使用され、1964年(昭和39年)に唐招提寺に移築されました。障壁画は鑑真像に奉納するため、1971年(昭和46年)から1982年(昭和57年)にかけて東山魁夷画伯により描かれたものです。
東山魁夷画伯
唐招提寺御影堂障壁画
1970年に奈良・唐招提寺森本長老から依頼されたもので、《山雲》《濤声》《揚州薫風》《黄山暁雲》《桂林月宵》の5部からなる大作。襖絵と床の壁面は全68面におよび、すべてをつなげると全長83mにもなります。
1971年(昭和46年)から12年もの歳月をかけて制作された本障壁画には、幾多の困難を乗り越えて中国から来日し唐招提寺を開いた鑑真和上への讃仰と崇敬の念を込めて描かれました。
中でも印象深い作品が「揚州薫風」1980(昭和55)年 。
『揚州薫風』は鑑真生誕の地・揚州の風景を、《桂林月宵》は鑑真和上が第5回目の渡航に失敗した際滞在した桂林の風景を、そして《黄山暁雲》は中国の景勝地を代表する黄山の風景をそれぞれ描かれ、畢生の大作となりました。
国交回復間もない中国への渡航はご苦労もおありだったと思いますが、千変万化する山の姿を墨の濃淡を使い分け、鮮やかに描き出されました。
そして1981年、唐招提寺鑑真和上像厨子絵
『瑞光』を制作・奉納。
「濤声」においては、
海の景色を巡る旅で訪れたのは、青森県・津軽半島の北端「龍飛崎(たっぴざき)」や秋田県・男鹿半島「入道崎」、石川県輪島市の「曽々木海岸」、福井県「越前海岸」、京都府「間人(たいざ)」、兵庫県「浦富(うらどめ)」、山口県長門市「青海島(おおみじま)」、長崎県「天草灘」など、東北地方から九州までおよそ100ヶ所。
山の旅では、「黒部渓谷」「穂高」「上高地」「天生峠(あもうとうげ)」など。天生峠では「この風景を描けと何者かに命じられているのを感じた。」と記し、数日間この場所に写生に通ったとあります。その他、渓谷の滝を求めて山形・蔵王の「三階滝」や、栃木県日光市の「霧降滝」なども訪れられたそうです。
1998年 世界遺産
688年(唐垂拱四年)-
763年5月6日(日本天平宝字七年五月六日)
開山鑑真大和上の命日6月6日
東山魁夷先生の命日は、1999年5月6日でありました。
唐招提寺第87代石田智圓長老、
第88代西山長老、第89代岡田長老
7月6日鑑真和上の月命日で、講堂で読経下さった後、柔やかな笑顔の長老御三方は御影堂へお入りになりました。
その下り道、金亀舎利塔東の通路にツバメの巣があります。今年も元気に巣立っていってくれたことと思います。
ありがとうございました。
奈良市五条町13-46
唐招提寺第87代石田智圓長老
こちらに一筋の光線が✴
御影堂から開山御廟へ
趙樸初居士之碑
(ちょう ぼくしょ、1907年11月5日 - 2000年5月21日)
中国の政治家、書道家、仏学家、作家、社会活動家。
開山御廟の奥に「趙樸初居士之碑」があり、
薬師寺與楽門前の揮毫は趙樸初先生によります。
呉江浩大使「中日仏教交流は長い歴史があり、古来より両国の文化交流の重要なリンクであった。鑑真、隠元、空海、最澄などの大徳の僧は、両国の文明の架け橋となり、共通の文明の刻印を残してきました。戦後、両国の仏教界は、趙樸初師を中心に、平和の理想を掲げ、広範な交流と協力を行い、両国の仏教交流の深化を促進し、日中関係の復興と発展に積極的な役割を担って来られたお方です。
今年は日中平和友好条約締結45周年にあたります。
『日本・中国の架け橋 趙樸初』放送を記念して、2023年6月6日(火)京都にて、日中の仏教界の関係者が一同に集まり友好座談会が実施されました。
天平の甍
鑑真和上1250年御諱記念御朱印帳
国宝 方円彩糸花網
『続日本紀』等によれば、唐招提寺は唐僧・鑑真が天平宝字3年(759年)、新田部親王(天武天皇第7皇子)の旧宅跡を朝廷から譲り受け、寺としたものである。寺名の「招提」は、サンスクリット由来の中国語で、元来は「四方」「広い」などの意味を表す語であったが、「寺」「院」「精舎」「蘭若」などと同様、仏教寺院(私寺)を指す一般名詞として使われていた。つまり、唐招提寺という寺号は、「唐僧鑑真和上のための寺」という意味合いである。南都六宗の1つである律宗の総本山である。井上靖の小説『天平の甍』で広く知られるようになった中国・唐出身の僧鑑真が晩年を過ごした寺であり、奈良時代建立の金堂、講堂を始め、多くの文化財を有する。
唐招提寺は1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。
住所 | 奈良県奈良市五条町13-46 |
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行き方 | 最寄り駅
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名称 | 唐招提寺 |
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読み方 | とうしょうだいじ |
参拝時間 | 8:30~17:00(受付は16:30まで) |
トイレ | なし |
御朱印 | あり 「盧舎那佛」の墨書きされたものと、開祖の鑑真大和上の姿を描いた印を押したものと2種類の御朱印がいただけます。 |
限定御朱印 | なし |
御朱印帳 | あり |
電話番号 | 0742-33-7900 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
ホームページ | https://toshodaiji.jp/ |
神仏霊場巡拝の道 | |
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大和北部八十八ヶ所 第26番 | 御本尊:盧舎那仏 |
ご本尊 | 廬舎那仏(国宝)、薬師如来立像(国宝)、千手観音立像(国宝)鑑真和上像(国宝)その他国宝の持仏多数。 |
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宗旨・宗派 | 律宗 |
ご由緒 | 『続日本紀』等によれば、唐招提寺は唐僧・鑑真が天平宝字3年(759年)、新田部親王(天武天皇第7皇子)の旧宅跡を朝廷から譲り受け、寺としたものである。寺名の「招提」は、サンスクリット由来の中国語で、元来は「四方」「広い」などの意味を表す語であったが、「寺」「院」「精舎」「蘭若」などと同様、仏教寺院(私寺)を指す一般名詞として使われていた。つまり、唐招提寺という寺号は、「唐僧鑑真和上のための寺」という意味合いである。南都六宗の1つである律宗の総本山である。井上靖の小説『天平の甍』で広く知られるようになった中国・唐出身の僧鑑真が晩年を過ごした寺であり、奈良時代建立の金堂、講堂を始め、多くの文化財を有する。
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体験 | 世界遺産御朱印国宝重要文化財花の名所有名人のお墓札所・七福神巡り |
概要 | 唐招提寺(とうしょうだいじ)は、奈良県奈良市五条町にある律宗の総本山の寺院。山号はなし。本尊は盧舎那仏。開基(創立者)は唐出身の僧鑑真である。鑑真が晩年を過ごした寺であり、奈良時代建立の金堂、講堂を始め、多くの文化財を有する。1998年に古都奈良の文化財の一部として、ユネスコより世界遺産に登録されている。 |
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歴史 | 歴史[編集] 『続日本紀』等によれば、唐招提寺は唐僧・鑑真が天平宝字3年(759年)、新田部親王(天武天皇第7皇子)の旧宅跡を朝廷から譲り受け、寺としたものである。寺名は当初は「唐律招提」と称した。「招提」は、サンスクリットのチャートゥルディシャ・サンガ(「四方」を意味するcāturdiśaに僧団組織を意味するサンガをあわせた語。現前する僧だけでなく、全ての僧のための組織を意味する)に由来する中国語[1]で、四方から僧たちの集まり住する所を意味した。鑑真研究者の安藤更生によれば、唐では官寺でない寺を「招提」と称したという。「唐律招提」とは「唐の律を学ぶ道場」の意であり、後に官額を賜って...Wikipediaで続きを読む |
アクセス | アクセス[編集] 西ノ京駅(近鉄橿原線)徒歩8分 |
行事 | 行事[編集] 梵網会(うちわまき)(5月19日) - 鎌倉時代に唐招提寺を復興した覚盛上人を偲んで行われる行事。覚盛は殺生戒を守り、蚊も殺さなかったといわれ、その徳を偲んだ法華寺の尼僧がせめてうちわで蚊を払えるようにと霊前にうちわを供えたのが始まりといわれる。15時、ハート型をした1500枚のうちわが鼓楼より参拝者に向けばら撒かれる。このうちわは拾えた参拝者から縁起物として非常に貴重がられている。害虫よけや、雷よけなどのご利益があるとされる。撒かれるうちわは寺の手作りである。 開山忌(6月5日 - 7日) - 6月6日が鑑真の命日にあたり、その前後3日間、御影堂において国宝の鑑真和上像を...Wikipediaで続きを読む |
引用元情報 | 「唐招提寺」『ウィキペディア日本語版』。 この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E5%94%90%E6%8B%9B%E6%8F%90%E5%AF%BA&oldid=101945061 |
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