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おんじょうじ(みいでら)|天台寺門宗総本山長等山

園城寺(三井寺)
滋賀県 三井寺駅

御朱印(6種類)

園城寺(三井寺)では、「大悲殿」、「黄不動尊」、「釈迦如来」、「弥勒佛」、「無量寿」、「御詠歌」の6種類の御朱印をいただけます。
また、行事に合わせた御朱印が頒布されています。

大悲殿の御朱印

300円
記念印の押印は2022年3月31日まで

真ん中に大悲殿と書かれ、右上に西國十四番の印、真ん中に三井寺の文字が入った蓮華座に梵字(如意輪観音)の火焔宝珠印、左上に三井の晩鐘のイラストが入った西国三十三所草創一三〇〇年の三井寺記念印、左下に三井寺の文字、長等山三井寺の印が押されています。
如意輪観音坐像は西国三十三所観音霊場第十四番札所正法寺(三井寺観音堂)の本尊で、衆生に財宝を与え煩悩を破る仏として厚く信仰されてきました。

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御朱印について御朱印
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御朱印帳にお書き入れ
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御朱印帳
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巡礼

その他の巡礼の情報

西国三十三所観音霊場第十四番札所
近江西国三十三観音霊場第五番札所
西国薬師四十九霊場第四十八番札所
江州三十三観音霊場第三番・第四番札所
湖国十一面観音菩薩霊場第一番札所
びわ湖百八霊場第五番・第六番札所
神仏霊場巡拝の道第百四十七番札所
土鈴、浄土の鳥近江六(他寺院は、長命寺・石山寺・正法寺・宝厳寺・観音正寺)

歴史

667年に天智天皇により飛鳥から近江に都が移され、近江大津京が開かれました。
672年、前年の天智天皇の永眠後、大友皇子(天智天皇の子:弘文天皇)と大海人皇子(天智天皇の弟:天武天皇)が 皇位継承をめぐって争い、壬申の乱が勃発。 壬申の乱に敗れた大友皇子の皇子の大友与多王は父の霊を弔うために 「田園城邑(じょうゆう)」を寄進して寺を創建し、 天武天皇から「園城」という勅額を賜わったことが園城寺の始まりとされています。
勝利をおさめた大海人皇子は再び飛鳥に遷都し、近江大津京はわずか五年で廃都となりました。
三井寺と呼ばれるようになったのは、天智・天武・持統天皇の三帝の誕生の際に 御産湯に用いられたという霊泉があり「御井の寺」と呼ばれていたものを後に 智証大師円珍が当時の厳義・三部潅頂の法儀に用いたことに由来します。
現在、金堂西側にある「閼伽井屋」から湧き出ている清水が御井そのものとされています。
貞観年間(859~877)になって、智証大師円珍(ちしょうだいしえんちん)和尚が、 園城寺を天台別院として中興されてからは、 東大寺・興福寺・延暦寺と共に「本朝四箇大寺(しかたいじ)」の一つに数えられ、 南都北嶺の一翼を担ってきました。
円珍の死後、円珍門流と慈覚大師円仁門流の対立が激化し、 正暦四年(993)、円珍門下は比叡山を下り一斉に三井寺に入ります。 この時から延暦寺を山門、三井寺を寺門と称し天台宗は二分されました。
その後、両派の対立や源平の争乱、南北朝の争乱等による焼き討ちなど幾多の法難に遭遇しましたが、 智証大師への信仰に支えられた人々によって支えられ、その教法は今日に伝えられています。

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園城寺(三井寺)の基本情報

住所

滋賀県大津市園城寺町246

行き方

京阪電鉄石山坂本線 「三井寺駅」 下車 徒歩12分

アクセスを詳しく見る
名称

園城寺(三井寺)

読み方

おんじょうじ(みいでら)

通称

三井寺

参拝時間

8:00~17:00

参拝料

大人600円、中高生300円、小学生200円

トイレあり
御朱印あり
限定御朱印あり
御朱印帳に直書きあり
御朱印の郵送対応なし
御朱印帳あり
電話番号077-522-2238
お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。
ホームページhttp://miidera1200.jp
おみくじ

あり

お守り

あり

絵馬

あり

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巡礼の詳細情報

春の京阪・御朱印めぐり2021

近江西国三十三箇所

第5番

仏さま:如意輪観世音菩薩

御詠歌:

世々経ても 昔ながらの 山深く 仏の恵み 有明の月

神仏霊場巡拝の道

西国三十三所霊場

数珠巡礼

第68番

びわ湖百八霊場

第6番

仏さま:如意輪観世音菩薩

近江湖西二十七名刹霊場

第6番

仏さま:如意輪観世音菩薩

詳細情報

ご本尊弥勒菩薩
山号

長等山

宗旨・宗派天台寺門宗総本山
創建時代

弘文元年(672)

開山・開基

開基:大友与多王 中興:智證大師円珍

文化財

金堂(国宝)
仁王門、釈迦堂、鐘楼、閼伽井屋、霊鐘堂、一切経蔵、唐院、毘沙門堂、三重塔、千手観音立像、不動明王坐像、訶梨帝母倚像、護法善神立像、吉祥天立像、愛染明王坐像、智証大師坐像(国指定重要文化財)
観音堂(県指定文化財)

ご由緒

667年に天智天皇により飛鳥から近江に都が移され、近江大津京が開かれました。
672年、前年の天智天皇の永眠後、大友皇子(天智天皇の子:弘文天皇)と大海人皇子(天智天皇の弟:天武天皇)が 皇位継承をめぐって争い、壬申の乱が勃発。 壬申の乱に敗れた大友皇子の皇子の大友与多王は父の霊を弔うために 「田園城邑(じょうゆう)」を寄進して寺を創建し、 天武天皇から「園城」という勅額を賜わったことが園城寺の始まりとされています。
勝利をおさめた大海人皇子は再び飛鳥に遷都し、近江大津京はわずか五年で廃都となりました。
三井寺と呼ばれるようになったのは、天智・天武・持統天皇の三帝の誕生の際に 御産湯に用いられたという霊泉があり「御井の寺」と呼ばれていたものを後に 智証大師円珍が当時の厳義・三部潅頂の法儀に用いたことに由来します。
現在、金堂西側にある「閼伽井屋」から湧き出ている清水が御井そのものとされています。
貞観年間(859~877)になって、智証大師円珍(ちしょうだいしえんちん)和尚が、 園城寺を天台別院として中興されてからは、 東大寺・興福寺・延暦寺と共に「本朝四箇大寺(しかたいじ)」の一つに数えられ、 南都北嶺の一翼を担ってきました。
円珍の死後、円珍門流と慈覚大師円仁門流の対立が激化し、 正暦四年(993)、円珍門下は比叡山を下り一斉に三井寺に入ります。 この時から延暦寺を山門、三井寺を寺門と称し天台宗は二分されました。
その後、両派の対立や源平の争乱、南北朝の争乱等による焼き討ちなど幾多の法難に遭遇しましたが、 智証大師への信仰に支えられた人々によって支えられ、その教法は今日に伝えられています。

体験仏像御朱印国宝重要文化財武将・サムライ札所・七福神巡り伝説
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