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せんばとうしょうぐう

仙波東照宮
埼玉県 本川越駅

御朱印について御朱印
あり

徳川家の家紋『三つ葉葵』の印が、押されています。

限定
-
御朱印帳にお書き入れ
あり
御朱印帳
-
ありません
パーキング
駐車場
あり

有料駐車場 明星駐車場133台

歴史

仙波東照宮は、喜多院第27世住職天海僧正が徳川初代将軍家康公を祀ったものです。
家康公は、元和2年(1616)4月17日、75歳で薨去されると、いったんは静岡県の久能山に葬られましたが、家康公の遺言に従い、元和3年(1617)、2代将軍秀忠は亡父家康公の遺骸をあらためて日光に移葬しました。
その時、久能山から日光に至る道中、同年3月15日出発して、道中の各宿に泊りつぎ、同23日、仙波喜多院の大堂(薬師堂、のちに東照宮本地堂とも言いました)に到着しました。
このところで天海僧正 は親しく導師となって、3月26日まで、実に4日間、衆憎を集めて、丁重な法要を厳修しました。
この長い法要を終えて、次宿・行田忍にお送りした後の元和3年(1617)9月16日、天海僧正は家康公在世の渥恩に感謝の気持ちを伝えるため、また遺柩止留の跡として、家康公の像(高さ八寸八分)を作り、大堂に祀ったのが東照宮の初めです。
天海僧正は、この東照宮を広く多くの方に崇拝してもらうため、現在のこの地に高さ五間の丘陵を築きあげて立派な社殿を造り、寛永10年(1633)11月16日遷祀しました。
同年12月24日には、後水天皇が宸翰御神号として「東照大権現」の勅額を下賜されました。ところが寛永15年(1638)1月28日、川越街に大火災が起こり、仙の神社、堂塔、門前屋敷まで延焼してしまいました。これを聞いた3代将軍徳川家光は、直接東照宮再建の計画を立て、同年3月、川越城主堀田加賀守正盛を造営奉行に命じ、天海僧正を導師として、寛永17年(1640)5月竣工しました。現在の社殿はこのときのものです。
以来、社殿並びに神器等はすべて幕府が運営するものとなりましたが、もともと自祭であり祭資は幕府からいただいておりませんでした。そこで喜多院第29世住職周海僧正(天海の高弟)は祭典の完備を期して、寛文元年(1661)3月、松平伊豆守信綱(川越城主)を介して、4代将軍徳川家綱にお願いをし、大仙彼の地200石を祭資に供せられました。
その後、幕府の手でたびたび修理を加えられ、弘化4年(1847)にもっとも大きな修理を行いました。明治2年(1869)、諸領一般上地の令により社領を奉遷し、逓減割となり、同年の神仏分離令により、喜多院の管理を離れました。
[川越八幡宮HP当神社由緒書きより]

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仙波東照宮の基本情報

住所

埼玉県川越市小仙波町1-21-1

行き方

西武鉄道新宿線本川越駅蔵のまち口(東口)より徒歩13分
東武バス 下松江町停留所より徒歩5分

アクセスを詳しく見る
名称

仙波東照宮

読み方

せんばとうしょうぐう

通称

御霊舎・権現様

参拝時間

参拝自由

参拝にかかる時間

約10分

参拝料

なし

御朱印あり

徳川家の家紋『三つ葉葵』の印が、押されています。

限定御朱印なし
御朱印帳に直書きあり
御朱印の郵送対応なし
御朱印帳なし
電話番号049-222-1396(川越八幡宮)
お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。
ホームページhttps://www.kawagoe-hachimangu.net/%E8%A4%87%E8%A3%BD-%E7%A5%9E%E5%89%8D%E7%B5%90%E5%A9%9A%E5%BC%8F-3

巡礼の詳細情報

全国東照宮連合会

第12番

詳細情報

ご祭神徳川家康
ご神体

徳川家康公木像

創建時代

元和三年(1617年)

創始者

天海僧正

本殿

三間社流造

文化財

○国指定重要文化財
・本殿
・瑞垣
・唐門
・拝殿・幣殿
・石鳥居
・随身門
・三十六歌仙額36面
○市指定有形文化財
・木造随身像
・木像獅子狛犬像

ご由緒

仙波東照宮は、喜多院第27世住職天海僧正が徳川初代将軍家康公を祀ったものです。
家康公は、元和2年(1616)4月17日、75歳で薨去されると、いったんは静岡県の久能山に葬られましたが、家康公の遺言に従い、元和3年(1617)、2代将軍秀忠は亡父家康公の遺骸をあらためて日光に移葬しました。
その時、久能山から日光に至る道中、同年3月15日出発して、道中の各宿に泊りつぎ、同23日、仙波喜多院の大堂(薬師堂、のちに東照宮本地堂とも言いました)に到着しました。
このところで天海僧正 は親しく導師となって、3月26日まで、実に4日間、衆憎を集めて、丁重な法要を厳修しました。
この長い法要を終えて、次宿・行田忍にお送りした後の元和3年(1617)9月16日、天海僧正は家康公在世の渥恩に感謝の気持ちを伝えるため、また遺柩止留の跡として、家康公の像(高さ八寸八分)を作り、大堂に祀ったのが東照宮の初めです。
天海僧正は、この東照宮を広く多くの方に崇拝してもらうため、現在のこの地に高さ五間の丘陵を築きあげて立派な社殿を造り、寛永10年(1633)11月16日遷祀しました。
同年12月24日には、後水天皇が宸翰御神号として「東照大権現」の勅額を下賜されました。ところが寛永15年(1638)1月28日、川越街に大火災が起こり、仙の神社、堂塔、門前屋敷まで延焼してしまいました。これを聞いた3代将軍徳川家光は、直接東照宮再建の計画を立て、同年3月、川越城主堀田加賀守正盛を造営奉行に命じ、天海僧正を導師として、寛永17年(1640)5月竣工しました。現在の社殿はこのときのものです。
以来、社殿並びに神器等はすべて幕府が運営するものとなりましたが、もともと自祭であり祭資は幕府からいただいておりませんでした。そこで喜多院第29世住職周海僧正(天海の高弟)は祭典の完備を期して、寛文元年(1661)3月、松平伊豆守信綱(川越城主)を介して、4代将軍徳川家綱にお願いをし、大仙彼の地200石を祭資に供せられました。
その後、幕府の手でたびたび修理を加えられ、弘化4年(1847)にもっとも大きな修理を行いました。明治2年(1869)、諸領一般上地の令により社領を奉遷し、逓減割となり、同年の神仏分離令により、喜多院の管理を離れました。
[川越八幡宮HP当神社由緒書きより]

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