こうふくじ|天台宗|薬王山
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ここ、広福寺に来たい!と思ったのは、なんのことはない。旅番組で紹介されたからだ。
ダイアンの2人がそれぞれチームを作り、西武線沿線での対決旅。
新狭山駅からなんでこんなに歩くんや!と文句を言いながらも、津田が歩いていた。
その目的地がここ、広福寺だ。
テレビで観た時はパノラマ撮影で満開の枝垂桜が見事で、うっとりとしたのだ。
番組で紹介されていたのは、この門が竜宮作りという日本ではなかなか珍しいものなのだそうだ。
今回は残念ながら、梅、桜、紫陽花。何も咲いていない。
やはり、行くのに相応しい時期というのがあるのだろう。
住職に話を伺う事が出来た。
東京、横浜と違い、戦時中に空襲などなかった。イヤ、むしろ、この辺りは疎開してくる場所だったのだ、と。
ただ、元々の御堂は江戸時代に焼失してしまい、今存在しているものは江戸時代に建てられたものだとか。それでも、素晴らしいと思うのは、昭和以降の建物しか普段見ていない
からだろう。
丁寧に対応してくださり、感謝であった。
門の内側に階段を発見!
こちらは、徳川家光が鷹狩の時に休憩されて、使われた井戸だと言う事だ。
今は飲料用としては適さないが、水はまだ出ている。
その水を利用して造られたのがこちらの池だが、これは先代住職が造られたということで、数十年前の新しいものなのだそうだ。
鎌倉街道散策(狭山柏原)2
【散策ルート】
新狭山駅〜①生越道道標〜②奥富神社〜③広福寺〜④梅宮神社〜⑤九頭龍大権現碑〜⑥城山砦〜新狭山駅
生越道道標の少し北側に国道16号線から入間川の低湿地に下る鎌倉街道の枝道と言われている「五平坂」がある。
奥富神社の前の道(鎌倉街道)を柏原方面へ道なりに真っ直ぐ5分程で右手に広福寺が現れる。
③広福寺
狭山市下奥富にある天台宗寺院で、薬王山地蔵院と号す。本尊は薬師如来で、尊榮(天正12年1584年寂)が永禄11年(1568)に創建。
江戸時代には徳川家光が度々当寺を訪れ、梅樹を賞賛した。
山門は市指定文化財であり、文化2年(1805)に建造され、関東では珍しい竜宮造りである。山門をくぐると、右側すぐのところに井戸と梅の木があります。
徳川家光公が武蔵野で鷹狩りをしたときに、井戸の水で沸かしたお茶を飲みながら、紅梅の美しさを愛でたといわれる「御詞の梅」、「梅の井」が代々引継がれ、「お茶屋寺」ともいわれています。
③広福寺 駐車場
③広福寺 参道
③広福寺 山門
狭山市の文化財に指定されている。山門(竜宮造)の上が鐘楼になっている。何処かで見た気がする。
③広福寺 山門前
③広福寺 山門裏
③広福寺 鐘楼
③広福寺 毘沙門天堂
③広福寺 地蔵像
③広福寺 本堂
③広福寺 本堂
③広福寺 梅の井
家光が好んで愛でた梅と井戸の庭は流石に趣きがある。
③広福寺 御詞の梅(家光、縁の梅)
③広福寺 境内
③広福寺 歌碑
③広福寺 御朱印
歴史
廣福寺は川越にある仙波中院の末寺である。正徳4年(1714)に全焼したため古記録類の全てを失ったが、新編武蔵風土記稿には、「開山尊栄 永禄11年(1568)当寺を草創して天正12年(1584)7月11日寂せり」とあります。その一方で過去帳序文を見ると「永正甲戌仏涅槃日天台沙門実海寂」とあるので、その草創は永正11年(1514)以前にさかのぼるものと考えられます。
当寺には、徳川三代将軍家光がたびたびお成りになったと記録があり、寛永5年(1628年)のお成りの際、川越城主松平伊豆守に命じて本堂西側に休憩所を造らせ、その側に御鷹部屋を建てて、鷹を放し飼いされたといわれています。
本堂前の紅梅は、家光が嘆賞したので「御詞の梅」という言い伝えがあり、またその梅の側の井戸もその水で家光にお茶を入れたので、これも「梅の井」といわれています。
幕末には、水戸藩士から広福寺の住職になった章意和尚に関係して、勤皇の志士である当時の川越地方出身の西川錬造や清河八郎らが、当寺に出入りしていたと伝えられています。
広福寺山門は市指定文化財です。
名称 | 廣福寺 |
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読み方 | こうふくじ |
トイレ | 本堂横に看板あり |
御朱印 | あり |
限定御朱印 | なし |
御朱印帳 | なし |
電話番号 | 04-2952-5011 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
詳細情報
ご本尊 | 薬師瑠璃光如来坐像、脇侍、日光・月光両菩薩 |
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山号 | 薬王山 |
院号 | 地蔵院 |
宗旨・宗派 | 天台宗 |
創建時代 | 永禄11年(1568) |
開山・開基 | 尊栄(開山) |
文化財 | ・山門(鐘楼門) |
ご由緒 | 廣福寺は川越にある仙波中院の末寺である。正徳4年(1714)に全焼したため古記録類の全てを失ったが、新編武蔵風土記稿には、「開山尊栄 永禄11年(1568)当寺を草創して天正12年(1584)7月11日寂せり」とあります。その一方で過去帳序文を見ると「永正甲戌仏涅槃日天台沙門実海寂」とあるので、その草創は永正11年(1514)以前にさかのぼるものと考えられます。 当寺には、徳川三代将軍家光がたびたびお成りになったと記録があり、寛永5年(1628年)のお成りの際、川越城主松平伊豆守に命じて本堂西側に休憩所を造らせ、その側に御鷹部屋を建てて、鷹を放し飼いされたといわれています。
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体験 | 御朱印札所・七福神巡り |
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