こうふくじ|法相宗
興福寺のお参りの記録一覧(5ページ目)
興福寺は、奈良県奈良市にある法相宗の大本山の寺院。本尊は中金堂の釈迦如来。南都七大寺の一つ。西国三十三所9番札所で、札所本尊は南円堂の不空羂索観音(ふくうけんさく~/ふくうけんじゃく~)(国宝)。ユネスコの世界遺産に「古都奈良の文化財」の構成資産の1つとして登録されている。また、旧境内(現境内と奈良公園の一部)が<国の史跡>に指定されているほか、建物だと東金堂、五重塔、北円堂、三重塔が国宝、仏像だと東金堂安置、北円堂安置、南円堂安置、国宝館所蔵の多くの仏像が国宝に指定されている。南円堂など、国指定の重要文化財も多数。
飛鳥時代、藤原鎌足が病の折、夫人の鏡大王が夫の病気平癒を願い、669年に山背国山階(現・京都府京都市山科区)に私寺として創建した「山階寺」が当社の起源。壬申の乱が起きた672年、山階寺は藤原京に移転、地名から「厩坂寺」と改称。710年の平城京遷都にあたり、鎌足の子、藤原不比等が厩坂寺を現在地に移転し「興福寺」と改称。天皇・皇后、藤原氏によって伽藍が整備され、不比等の死後、「造興福寺仏殿司」という役所が設置され、本来藤原氏の私寺である興福寺の造営が国家により進められることとなった。
当寺の多くの伽藍は、近鉄奈良駅の南東数百mの位置にあり徒歩圏。奈良公園と境界がないため、伽藍の周りにいる人が寺院の参拝者なのか公園に遊びに来た人かは見分けがつかない。現伽藍のエリアだけでもそれなりに広いので、かつての寺院の力を感じるには十分。有料拝観は東金堂と国宝館で、両館同時拝観で割引がある。
参拝時は休日の午後で、当寺境内相当地には多くの人が行き交っていた。
※帰京の時間が決まっていたため、有料拝観はパス。次回要拝観。
※本坊、大湯屋、菩提院大御堂のある東側エリアは参観せず。
旧境内南西側、<南円堂>への階段。ここから参拝を始める。
階段を上がり切った右側に<水屋>。
水屋から見た<南円堂>。江戸時代後期の1789年再建で4代目の八角円堂。国指定の重要文化財。
<南円堂>全景。
南円堂の正面前にある<不動堂>。不動明王坐像と、西国三十三所観音霊場の札所本尊を模した33体の観音像を祀る。
<不動堂>正面。
南円堂の右脇にある<一言観音堂>と<納経所>。御朱印はこちら。
<一言観音堂>に行くには、藤棚をくぐる。
藤棚の藤はほぼ満開~♪
<一言観音堂>正面。
東方向に歩いて行くと、北側にある<中金堂>。2018年再建。柵の向こう側すぐの場所は<中門跡>。
南側にある<南大門跡>。
さらに東に進むと国宝<五重塔>。室町時代1426年に再建、三間五重塔婆。高さは50.1mあり、現存する日本の木像塔としては2番目に高い(1番は東寺五重塔)。
<五重塔>の北側にある国宝<東金堂>。1415年再建、桁行七間梁間四間で屋根一重、寄棟造、本瓦葺。創建時は、奈良時代の726年に聖武天皇が伯母にあたる元正上皇の病気平癒を祈願し薬師三尊像を安置する堂宇であった。
堂内には、重文の薬師如来像・日光菩薩像・月光菩薩像を中心に、国宝<文殊菩薩像>、国宝<維摩居士像>、国宝<四天王像>、国宝<十二神将像>が祀られている。
国宝<東金堂>と国宝<五重塔>のツーショット。興福寺を代表するカメラアングル。
<東金堂>の拝観受付。拝観料は300円。
上の拝観受付の参道挟んで対面(西側)にある<勧進所・売店>。かつては納経所の役割もあったようだが、現在は南円堂の納経所に集約されているみたい。
北に向かって歩き、大宮通りにある興福寺入口。境内の境がないので、奈良公園と一体化している。写真の左外にたくさんの鹿たちがいた。
興福寺境内入口にある<世界遺産認定記念碑>。
<中金堂>の北側にある<仮講堂>。1975年に薬師寺の旧金堂(室町時代、正面27m、側面16m、寄棟造、本瓦葺)を移築したもの。
<中金堂>の西側にある国宝<北円堂>。鎌倉時代初期の1210年建立。屋根が一重で本瓦葺の八角円堂。興福寺に現存するもっとも古い建物。
<北円堂>の南側にある<西金堂跡>。鹿が自由に歩き回って草を食んでいる。
南円堂の南西にある国宝<三重塔>。鎌倉時代前期の再建。高さ19mの三間三重塔婆。
<三重塔>の近くにある<摩利支天石>。
境内南西部の興福寺会館、三重塔の南側にある<手力雄神社>。
定番の興福寺さんです。国宝館はさすがでした!
猿沢池から
いつ西国三十三所結願できますことやら。のんびり巡りたいと思います!
国宝館のショップにて頂きました
参拝客は少なめでした
国宝館
興福寺境内と周辺部を分けて周ってみました。
藤原氏の氏寺・一門の繁栄を願うために建立された「私立」の寺院。「国立」の官寺である薬師寺寺や大安寺を凌ぎ、東大寺が創建されるまでは平城京最大のお寺。
藤原不二等の死後は、孫である聖武天皇や光明皇后によって相次いで堂塔を造営、皇室と密接な関係を結ぶことによって庇護を受けることになる。
都が平安京に遷ると、平城京の寺は移転が認められず打撃を受けた寺院もありましたが、隆盛を誇る藤原氏に支えられ、南円堂など新たな堂宇を建立。
1180年平重衡いよってほぼ全てが焼失したが、藤原一門の支援により速やかに復興。
江戸時代の1717年、講堂より出火した大火により中金堂や南円堂などを焼失、中金堂は本格的な復興を見ぬまま明治維新を迎えています。
南大門跡
東大寺の南大門と同じくらいのものがあったと言われています。現在発掘調査ごの礎石のみが整備されています。
般若の芝
興福寺南大門跡の般若ノ芝で5月11日と12日に行われる薪能が、現在全国各地で行われている薪能で最も古い歴史をもちます。日程はご確認を。
三重塔 国宝
1143年創建、治承の兵火で焼けその後再建、時期は明らかでないが鎌倉前期とみられています。
南円堂
藤原冬嗣が813年建立、不空羂索観音菩薩を安置。西国霊場9番札所、現在の建物は1714の立柱、唐破風から江戸時代の再建とわかります。
日本最大の円堂、北円堂と同じく本瓦葺き八角円堂。西金堂に配する西の五重塔に代用するもと考えられており、これで興福寺の堂塔は完成と考えられます。
不動堂
不動明王、奈良ではあまり見かけないようにも思いますが。
額塚
南円堂手水舎の東にある塚。南大門前に大穴が開き水が出たが、南大門の門額の「月輪山」の文字が水に縁があるというので、ここに納めたとされます。
興福が放逸しないように中金堂の「興福」の額を封じたとも。
塚は古墳時代の後期の小円墳の残存とみられています。
興福寺境内の大部分は丘陵を削平して造成しており、陥没することもあり得るかも。
西金堂跡
江戸時代に焼失。石碑のみです。
北円堂
藤原不比等の一周忌(721年)に菩提を弔うために建立された円堂。平城京を見渡せる絶好の場所にあります。
現在の堂宇は治承の兵火後に1210年頃に再建。基壇の基礎部分は奈良時代のもので、現存する興福寺の建物群の中で最も古い。
中金堂
寺の勢威が衰えた江戸時代、享保の大火(1717年)で伽藍の西半分が焼けたあと、本格的な再建はされず、1819年に一人の町衆の手によって再建された仮金堂で明治を迎えた。
7回焼失、8回目の再建は2018年の七転び八起き。工費は60億円、柱はアフリカ・カメルーンにて調達、梁はカナダ産。
拝観可能かはご確認を。
東金堂(国宝)
聖武天皇が伯母の元正太上天皇の病気回復を願って建立、室町時代の再建。
五重塔と接近しているため罹災・再建もほぼ同じ。1017年・1046年・1060年・1180年・1356年に焼けまもなく再建。1411年に雷火で焼失、再建されています。
食堂・細殿(国宝館)
明治まで鎌倉再建の建物が残っており、柱と屋根だけの「あばらや」になっていました。
明治7年に毀され、その部材は寧楽書院(師範学校の前身)の建設資材に。
昭和34年に食堂・細殿の外見を復原し国宝館が造られました。
五重塔と花の松の石碑
光明皇后の建立、現在の塔は室町時代。創建時は高さ45mで日本で最も高い塔だった。現在の塔は1426年再建、高さ50.1mで東寺に次ぎます。
奈良では五重塔より高く建てないとされてましたが、ホテル日航は46m、その後の新築建物については確認しておりません。
大垣(築地塀)
1868年の神仏判然令、1872年には興福寺の廃寺指令が出される。
境内を囲む大垣は、当時の奈良縣令四条隆平によって取り壊された。
現在も人も鹿も往来自由となっており、南大門跡周辺に僅かに築地塀が残ります。
大湯屋
興福寺の境外を周って観ました。
慶応四(1868)年、いわゆる神仏分離令が出されると、興福寺一山はいち早く復飾願いを出し、春日社の神司となり僧侶がいなくなり主がいなくなりました。
千体仏は束ねられ薪となり、金泥の経巻が金を取るために焼かれ、天平写経古文書は漆器の包み紙となり、仏像仏具は売り払われ海外へ流失、五重塔が五圓あるいは五十圓で売りに出され、相輪等の金属を取るために焼かれそうになったのを、類焼を心配する近所の反対で中止になったとかは有名な話しですね。
東向商店街
近鉄奈良駅を出ると奈良まちへ向かう東向商店街の入り口に。
興福寺にお尻を向けないように東向きに店の入り口を構え、昔は東向きにしか店が無かったと。現在はアーケード下通りの両側に店舗が並んでいますが。
猿澤池
池には龍が住み、竜宮に通じ、如何なる旱魃にも水は半分以上には減らないとされる。
「澄まず、濁らず、出ず、入らず、蛙わずかに、藻が生えず、魚が七分に水三部」というような説明がありますが。
猿沢池は興福寺の放生池であり神聖な伽藍の一部。
でもなんで❔、猿を池に放り込む❔、まさか。
中国仏教が由来とされているようですが。
釆女神社
平城京の宮廷に召され仕える女性が帝の寵愛の衰えを悲しみ猿沢池に身を投げたという釆女伝説。
釆女神社の本殿が猿沢池に背を向けているのは、「池を見るのも恨めしく背を向けている」とか、春日社に遠慮したためとか、江戸時代から色々と説があるようで。
衣掛柳の石碑
江戸時代以来、釆女が入水の際に衣を掛けた柳。「古樹すでに枯れて後人植え継ぎなり」とされ、猿澤池周囲の柳は、その後も何度も植え替えられ続いています。
縣廰 一乗院跡
奈良県庁は明治四(1871)年に一乗院跡(現・奈良地裁)に置かれたが、明治九年に奈良縣は堺縣に合併、明治十四年に大阪府に再合併。
奈良縣再設置運動の結果、明治二十年に奈良縣が再設置、この時の縣廰は当時興福寺境内にあった寧楽書院に置かれました。
明治二十八年に現・文化会館の地に木造風庁舎が完成、昭和四十年に現・県庁舎が完成。
興福寺で最大勢力の門跡寺院である一乗院をたどる遺構の確認は出来ませんでした。
徹底して取り除かれたようですが、宸殿造りの建物は唐招提寺に昭和39年に移建され現在工事中の御影堂となり、南門は大安寺に移建されています。
五十二段
猿沢池東北と五重塔下をつなぐ石段で段数が五十二あり、悟りを開く階段との言われは江戸前期まで遡るようです。
五十二の階数は菩薩の修行階位である五十二位に基づくと言われ、輪廻迷いの六道の辻から五十二の菩薩行を経て仏界である興福寺に至るらしい。
明治の始め頃は途中に踊り場があったようですが、道路の拡幅工事によって明治二十八年に改修されたようです。
何度か試みましたが、悟りとは縁遠く俗物のままでした。
十三鐘
興福寺菩提院大御堂。「稚児観音」と呼ばれる十一面観音が秘仏として祀られる。
朝欣上人が長谷詣の帰途、十二、三歳の孤児と行き会い哀れに思って連れ帰った。
1013年にその稚児が亡くなり、棺を開くと稚児の姿は無く観音像があり、稚児は長谷観音の変化であったというものである。
十三鐘はこの稚児の遺言によって毎夜七つと六つの間に鐘を撞き、供養したことに始まると。
また、十三歳の子供・三作が誤って鹿を殺し死罪となり、その弔いとして鐘を十三撞き三作の歳を表すとも、江戸時代から二つの話しが伝わります。
菊水楼
興福寺の子院興善院の地にあり明治二十四年開業。
円成寺の子院の部材を使って建てられたもの。
登録文化財であり、明治の和風高級旅館の姿を残していると言われています。
奈良ホテル
興福寺門跡寺院の大乗院境内地で荒池の南岸に、「日本漫遊外国人ヲ奈良市ニ誘導スルノ目的ヲ以テ」建設し明治四十二年開業。
建設資金は関西鉄道が出すことになったが、明治四十年国有化されたため建設費は国が出し、経営も大日本ホテルから鉄道院の直営に。
国賓・皇族の宿泊する迎賓館に準ずる施設として宿泊者に著名人が多い。
現在、土地建物はJR西日本所有、奈良ホテル株式会社の経営。。
大乗院門跡庭園
大乗院には有名な庭園があったが、堂宇とともに明治五年に破壊され、跡地は奈良ホテルや道路に。
復原工事の結果、平城遷都1300年記念事業にあわせて2010年より一般公開。
同門跡は摂家九条流(一条・九条・二条)の管領となり、明治維新に際して還俗し松園氏を称し男爵に列する。
また一乗院門跡は、近衛流(近衛・鷹司)が門跡を管領、特に近衛家が主流となり明治維新に際して還俗し水谷川を姓として、春日社宮司となり男爵に列される。
昨年の大河ドラマで一乗院門跡であった覚慶が助け出され、後の室町幕府将軍となる姿がドラマ化されていましたが。
奈良県奈良市登大路町にある法相宗の大本山の寺院で、山号はなし。本尊は中金堂の釈迦如来で、南都七大寺の一つ。
京都山科の藤原鎌足私邸に建立された「山階寺」がその前身である。
飛鳥時代を経て、和銅3年(710)平城遷都に伴い、藤原不比等によって現在地に移転。その際に「興福寺」と名付けられ、以降、藤原氏の氏寺として大いに繁栄し、奈良時代初期には四大寺の一つにあげられ、四町四方に170坊あまりの堂舎が立ち並ぶ寺院として隆盛を極めた。
境内には光明皇后創建とされる五重塔(室町時代再建・国宝)、北円堂(鎌倉時代再建・国宝)の国宝建築物をはじめ、南円堂(江戸時代再建・重要文化財)、国宝館などがある。また、多くの仏教彫刻の名品を所蔵し、 「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。
定期的に通っている歯医者へ行くために奈良へ。
歯医者が終わり、お気に入りの定食屋へ行きオムライスを食べたのち、興福寺へお参りしました。
三条通り
いつか行ってみたいフクロウカフェ
お気に入りの定食屋
定食屋の西には五重塔が見えます
五十二段
興福寺へ
中金堂
東金堂
南円堂
五重塔の扉が開いてました
南円堂
【秋の奈良旅 6】
街中の相宗大本山、興福寺に。
やっぱり奈良に来たら鹿🦌と戯れなければ!
興福寺の駐車場に止めようと、探していたら鹿🦌が道路の真ん中に!わ!と、鹿を眺めていたら、入口過ぎてしまいました😅
街中で、駐車料1日1000円時間制限無しなのが嬉しいですね。時間気にせず色々散策出来ますが、5時には閉まってしまいます。
平日なので、駐車場もガラガラでした。
まずは、国宝館で阿修羅立像のお姿を🙏
人も少なくゆっくり見学できました。
やっぱり奈良は仏像ですね☘
東金堂と五重塔
鮮やかな赤色の中金堂
この日はまだ拝観出来ませんでした。
残念😓
南円堂
こちらの隣にあるところで、御朱印いただきました。沢山種類があり、迷います☘️
この日は御朱印をいただける場所は一ヶ所だけでした。
写真を撮っていると、鹿🦌が来てくれました。
が!その時後にトラック🚚が来て止まってしまいました😱残念💦
鹿、鹿、鹿
和みますね☘
阿修羅立像に釘付けになりました。
猿沢池、のんびり散策
お店の前にも鹿🦌
カフェを探していたら、素敵なお茶屋さんが。
暑い一日、冷たい煎茶が美味しかった。
吉野葛を使った栗のお菓子。上品で美味しかったです。
お茶屋さんの襖絵も鹿!☘️
夕飯に柿の葉寿司を買って帰りました。
こちらのお店その場で詰めてくれて、美味しかった☘️
軒先にくくり猿がかけつありました。
何件か掛けてあったので、近くに庚申さんがあるのかな。
奈良に来たら、興福寺さんは外せません。
でも参拝は15年ぶりかな。
南円堂さんや不動堂などあまり変わってはいないけれど、中金堂が再建されていたのは驚きでした。
東金堂
五重塔。
いつ見ても素晴らしい!
中金堂
立派です。
不動堂
南円堂
南円堂
南円堂
一言観音様
本殿の改修後、初めて来ました。
夕暮れの本殿
南円堂に御朱印記帳して頂いたご詠歌~掲げられてました。
いつもながら五重の塔~素晴らしい☺️
国宝「千手観音」と南円堂のご詠歌
奈良県のおすすめ🎏
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