こうふくじ|法相宗
興福寺のお参りの記録一覧(3ページ目)
夕方近くなってから興福寺を訪問しました。
国宝館は閉館間際になってしまいましたが、職員の方から阿修羅像を含む八部衆像について丁寧にご説明いただき、とても勉強になりました。
ホトカミさんにお世話になって約1年半、なんとか300投稿に到達です。 当初より投稿ペースは落ちましたが、これからも当方の拙い投稿にお付き合いの程よろしくお願いします。 さて、記念すべき300回目の投稿は初心に帰って、という訳ではありませんが1回目と同じ奈良・興福寺さんと致しました。 プロフィールにも書かしていただいているように、私が御朱印を集めるきっかけとなった思い入れのあるお寺です。 以前お伺いしたのが2019年の夏なので、約3年半ぶりのお参りとなりました。
興福寺(こうふくじ)は奈良県奈良市、奈良公園の一画にある法相宗の大本山の寺院でユネスコの世界遺産に「古都奈良の文化財」の構成遺産の一つとして登録されています。 「大化の改新」を行った中心的人物としても有名な藤原鎌足/中臣鎌足(ふじわらのかまたり/なかとみのかまたり)が重い病を患った際に、正妻である鏡女王(かがみのおおきみ)が病気平癒を祈願し、天智天皇8年(669年)に釈迦三尊を本尊として山背国山階(現在の京都市山科区)に造営した私寺・山階寺(やましなでら)が起源とされていて、壬申の乱のあった天武天皇元年(672年)に厩坂寺(うまやさかでら)という名で藤原京に移された後、さらに和銅3年(710年)平城遷都の際、鎌足の子息・藤原不比等(ふじわらのふひと)によって現在地に移転し興福寺と改称されました。 その後は藤原氏の氏寺として、藤原一族の隆盛とともに寺勢を拡大していき、不比等が没した養老4年(720年)には「造興福寺仏殿司」という造寺司が設置されると、朝廷の主導のもと多くの伽藍の建設が進められていくことになります。 こうした官司による私寺の造営は異例であり、絶大な権力を持った藤原氏の影響によって興福寺の地位は公的に強大な存在へと高められ、奈良時代後期にはその大伽藍の整備はほぼ完了したものと考えられています。 また、神護景雲2年(768年)に創建された同じく藤原氏の氏神として知られる春日社(春日大社)とは「神仏習合思想」によって次第にその関係性が強まっていき、天暦元年(974年)に春日社の社頭での読経が始まり本地垂迹思想(ほんじすいじゃくしそう)が進むにつれて、春日社との一体を主張するに及び、平安時代の保延元年(1135年)に春日若宮を創設すると、以来、興福寺による春日社の実権支配が行われていくこととなります。 こうした春日社との関係は、時には神威をかざし僧兵を従えて朝廷に強訴(神木動座)するという手段に使われ、放氏(氏族からの追放)を恐れた藤原氏公卿たちが朝廷への出仕を控える事態を招いた為、そのほとんどが藤原氏の公卿らによって運営されていた朝政は強訴が起こる度に麻痺状態に陥ったと云われます。 このような神木入洛(しんぼくじゅらく)はおよそ70回も行われたとされ、人々はこの状況を前身である山階寺の名から「山階道理」と皮肉を込めて呼びました。 やがて大和国一国の荘園のほとんどを領して事実上同国の国主となった興福寺は、経済的にも全国規模の勢力として、さらに僧兵と呼ばれる軍事力を持つなど独立した力も持ち合わせるその存在は、同様の力を持っていた比叡山延暦寺とあわせ、「南都北嶺」と称され社会的政治的影響力を有した寺社勢力として君臨します。 しかし、繁栄を極めるも、度重なる災厄に見舞われることは他の例に洩れず、とくに治承4年(1180年)に起こった平氏一族の平重衡(たいらのしげひら)らによる治承・寿永の乱の「南都焼討」では東大寺とともにほとんどの堂宇を焼失してしまいます。 その後、藤原氏や朝廷の力を借りて再建への道筋へと進んでいくことになりますが、全山焼亡に等しいまでに延焼した興福寺には、現存する建造物に奈良時代由来のものが一つも残っていないという歴史的な影を落とすこととなります。 鎌倉時代や室町時代といった武士の時代になっても大和武士と僧兵等を擁し依然、強大な兵力を持っていたことから、大和国一帯を実効支配し続けますが藤原氏ら公卿の勢力は平安時代をピークに時代が進むにつれ衰退の兆しを示しはじめ、安土桃山時代に至っての文禄4年(1595年)には豊臣秀吉による検地において春日社と興福寺合計の知行として2万1千余石と定められるに止まります。 徳川政権下においてもこの知行が維持され、それなりの規模は保障されていたものの、かつて平安時代のような繁栄を極めることはありませんでした。 しかし、興福寺にとっての最大の苦境は、明治政府の樹立に伴う神道を国教とする祭政一致への政策の転換と、それによる時代の潮流かもしれません。 慶応4年/明治元年(1868年)に明治政府より出された神仏分離令やその後の明治4年(1871年)発令の社寺領上知令は、興福寺の長年にわたる神仏混淆の信仰形態を完全に否定し、僧侶の全てが春日大社の神官になることを強制すると、一部の境内地を除きほとんどの寺領を召し上げるなど、宗名・寺号も名乗れない正に廃寺同様の状態に追い遣ります。 さらに神仏分離の施策は廃仏毀釈という時勢へと繋がり、寺の破壊や撤去が興福寺でも押し進められていくこととなり、極めつけには三重塔が30円、五重塔が250円(25円という説も)もの値段で売りに出されるという噂が飛び交うほど事実上消滅したお寺に近い状況となってしまいます。 このため興福寺境内の周りには門や土塀などがほとんど無く、そのときに失った境内地の一部が今の奈良公園となっているのです。 こうした廃仏毀釈はどうにか一時的なうねりに留まり、明治14年(1881年)ようやく再興が許可されると、文化財保護法も整備され、大量の仏教美術や歴史的価値の仏像を保有していた興福寺は存続の道を歩み現在に至ります。
南都七大寺の一つに数えられる歴史ある興福寺、嘗ての興隆と衰亡を重ね合わせ奈良公園を散策するのも一興かと思います。
興福寺・中金堂
興福寺・南大門跡
興福寺・五重塔
興福寺・東金堂
興福寺・東金堂
興福寺・東金堂と五重塔
興福寺・北円堂
興福寺・三重塔
御朱印・東金堂
お御籤・大黒天
中金堂の木造大黒天立像がモチーフのようです。
お御籤・(金運招き)ふくろう
お御籤・(金運招き)達磨
お御籤・(金運招き)猫
お御籤・猫(縞)
お御籤・猫三匹で決めポーズ
京都・知恩寺で戴いたお御籤、三毛と黒とのコラボです。
令和4年10月、奈良市の興福寺卍
今回は時間なくて境内を歩いたのみ👣
投稿は迷いましたが、ちょうど500投稿目に興福寺さんというビッグネームをお借りします😅
奈良公園で鹿と遊んで古都の旅を終わりました🦌
中金堂
五重塔
猿沢池の近くから👀
立派な角をお持ちで🦌
こういうほうが可愛い😄
世界遺産・法相宗大本山・興福寺に参詣。
興福寺国宝館には、有名な「阿修羅立像」「天燈鬼立像」「龍燈鬼立像」「千手観音菩薩立像」など勢揃い。
世界文化遺産の印の「令興福力」の御朱印を直接書き込んでいただきました。
※中金堂と北円堂は工事中でした。
興福寺〜東金堂と五重塔
興福寺〜北円堂
御朱印〜世界遺産・令興福力の文字
興福寺〜南円堂
興福寺〜五重塔
国宝殿の阿修羅像にずっと見惚れてました。
藤原鎌足夫人の鏡王女が夫の病気平癒を願い、鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、天智天皇8年(669年)に山背国山階(現・京都府京都市山科区)で創建した山階寺(やましなでら)が当寺の起源である。壬申の乱のあった天武天皇元年(672年)、山階寺は藤原京に移り、地名の高市郡厩坂をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した。
和銅3年(710年)の平城京への遷都に際し、鎌足の子不比等は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し「興福寺」と名付けた。この710年が実質的な興福寺の創建年といえる。中金堂の建築は平城遷都後まもなく開始されたものと見られる。
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