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こうふくじ|法相宗

興福寺のお参りの記録一覧(2ページ目)
奈良県 近鉄奈良駅

ぶーさん
2023年02月12日(日)
374投稿

奈良市にある法相宗の大本山の寺院。南都七大寺のひとつで、藤原氏の氏寺としても有名で、建造物の国宝も多数存在し、世界遺産にも登録されています。
この日は、西国三十三所巡りで南円堂に参拝しました。

興福寺の建物その他

東金堂と五重塔(国宝):1415年再建の5代目と1426年再建の6代目。

興福寺(奈良県)

北円堂(国宝):1210年再建。

興福寺(奈良県)

三重塔(国宝):鎌倉時代前期の再建

興福寺(奈良県)

南円堂(重要文化財):1789年再建した4代目。

興福寺(奈良県)

中金堂:2018年に再建された9代目

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らんでぃー
2023年03月04日(土)
342投稿

ホトカミさんにお世話になって約1年半、なんとか300投稿に到達です。 当初より投稿ペースは落ちましたが、これからも当方の拙い投稿にお付き合いの程よろしくお願いします。 さて、記念すべき300回目の投稿は初心に帰って、という訳ではありませんが1回目と同じ奈良・興福寺さんと致しました。 プロフィールにも書かしていただいているように、私が御朱印を集めるきっかけとなった思い入れのあるお寺です。 以前お伺いしたのが2019年の夏なので、約3年半ぶりのお参りとなりました。

興福寺(こうふくじ)は奈良県奈良市、奈良公園の一画にある法相宗の大本山の寺院でユネスコの世界遺産に「古都奈良の文化財」の構成遺産の一つとして登録されています。 「大化の改新」を行った中心的人物としても有名な藤原鎌足/中臣鎌足(ふじわらのかまたり/なかとみのかまたり)が重い病を患った際に、正妻である鏡女王(かがみのおおきみ)が病気平癒を祈願し、天智天皇8年(669年)に釈迦三尊を本尊として山背国山階(現在の京都市山科区)に造営した私寺・山階寺(やましなでら)が起源とされていて、壬申の乱のあった天武天皇元年(672年)に厩坂寺(うまやさかでら)という名で藤原京に移された後、さらに和銅3年(710年)平城遷都の際、鎌足の子息・藤原不比等(ふじわらのふひと)によって現在地に移転し興福寺と改称されました。 その後は藤原氏の氏寺として、藤原一族の隆盛とともに寺勢を拡大していき、不比等が没した養老4年(720年)には「造興福寺仏殿司」という造寺司が設置されると、朝廷の主導のもと多くの伽藍の建設が進められていくことになります。 こうした官司による私寺の造営は異例であり、絶大な権力を持った藤原氏の影響によって興福寺の地位は公的に強大な存在へと高められ、奈良時代後期にはその大伽藍の整備はほぼ完了したものと考えられています。 また、神護景雲2年(768年)に創建された同じく藤原氏の氏神として知られる春日社(春日大社)とは「神仏習合思想」によって次第にその関係性が強まっていき、天暦元年(974年)に春日社の社頭での読経が始まり本地垂迹思想(ほんじすいじゃくしそう)が進むにつれて、春日社との一体を主張するに及び、平安時代の保延元年(1135年)に春日若宮を創設すると、以来、興福寺による春日社の実権支配が行われていくこととなります。 こうした春日社との関係は、時には神威をかざし僧兵を従えて朝廷に強訴(神木動座)するという手段に使われ、放氏(氏族からの追放)を恐れた藤原氏公卿たちが朝廷への出仕を控える事態を招いた為、そのほとんどが藤原氏の公卿らによって運営されていた朝政は強訴が起こる度に麻痺状態に陥ったと云われます。 このような神木入洛(しんぼくじゅらく)はおよそ70回も行われたとされ、人々はこの状況を前身である山階寺の名から「山階道理」と皮肉を込めて呼びました。 やがて大和国一国の荘園のほとんどを領して事実上同国の国主となった興福寺は、経済的にも全国規模の勢力として、さらに僧兵と呼ばれる軍事力を持つなど独立した力も持ち合わせるその存在は、同様の力を持っていた比叡山延暦寺とあわせ、「南都北嶺」と称され社会的政治的影響力を有した寺社勢力として君臨します。 しかし、繁栄を極めるも、度重なる災厄に見舞われることは他の例に洩れず、とくに治承4年(1180年)に起こった平氏一族の平重衡(たいらのしげひら)らによる治承・寿永の乱の「南都焼討」では東大寺とともにほとんどの堂宇を焼失してしまいます。 その後、藤原氏や朝廷の力を借りて再建への道筋へと進んでいくことになりますが、全山焼亡に等しいまでに延焼した興福寺には、現存する建造物に奈良時代由来のものが一つも残っていないという歴史的な影を落とすこととなります。 鎌倉時代や室町時代といった武士の時代になっても大和武士と僧兵等を擁し依然、強大な兵力を持っていたことから、大和国一帯を実効支配し続けますが藤原氏ら公卿の勢力は平安時代をピークに時代が進むにつれ衰退の兆しを示しはじめ、安土桃山時代に至っての文禄4年(1595年)には豊臣秀吉による検地において春日社と興福寺合計の知行として2万1千余石と定められるに止まります。 徳川政権下においてもこの知行が維持され、それなりの規模は保障されていたものの、かつて平安時代のような繁栄を極めることはありませんでした。 しかし、興福寺にとっての最大の苦境は、明治政府の樹立に伴う神道を国教とする祭政一致への政策の転換と、それによる時代の潮流かもしれません。 慶応4年/明治元年(1868年)に明治政府より出された神仏分離令やその後の明治4年(1871年)発令の社寺領上知令は、興福寺の長年にわたる神仏混淆の信仰形態を完全に否定し、僧侶の全てが春日大社の神官になることを強制すると、一部の境内地を除きほとんどの寺領を召し上げるなど、宗名・寺号も名乗れない正に廃寺同様の状態に追い遣ります。 さらに神仏分離の施策は廃仏毀釈という時勢へと繋がり、寺の破壊や撤去が興福寺でも押し進められていくこととなり、極めつけには三重塔が30円、五重塔が250円(25円という説も)もの値段で売りに出されるという噂が飛び交うほど事実上消滅したお寺に近い状況となってしまいます。 このため興福寺境内の周りには門や土塀などがほとんど無く、そのときに失った境内地の一部が今の奈良公園となっているのです。 こうした廃仏毀釈はどうにか一時的なうねりに留まり、明治14年(1881年)ようやく再興が許可されると、文化財保護法も整備され、大量の仏教美術や歴史的価値の仏像を保有していた興福寺は存続の道を歩み現在に至ります。
南都七大寺の一つに数えられる歴史ある興福寺、嘗ての興隆と衰亡を重ね合わせ奈良公園を散策するのも一興かと思います。

興福寺(奈良県)

興福寺・中金堂

興福寺(奈良県)

興福寺・南大門跡

興福寺(奈良県)

興福寺・五重塔

興福寺の建物その他

興福寺・東金堂

興福寺の建物その他

興福寺・東金堂

興福寺(奈良県)

興福寺・東金堂と五重塔

興福寺の建物その他

興福寺・北円堂

興福寺の塔

興福寺・三重塔

興福寺(奈良県)

御朱印・東金堂

興福寺(奈良県)

お御籤・大黒天
 中金堂の木造大黒天立像がモチーフのようです。

興福寺(奈良県)

お御籤・(金運招き)ふくろう

興福寺のおみくじ

お御籤・(金運招き)達磨

興福寺のおみくじ

お御籤・(金運招き)猫

興福寺(奈良県)

お御籤・猫(縞)

興福寺のおみくじ

お御籤・猫三匹で決めポーズ
 京都・知恩寺で戴いたお御籤、三毛と黒とのコラボです。

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