ずいがんじ
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瑞巌寺ではいただけません
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瑞巌寺のお参りの記録(2回目)
投稿日:2023年12月08日(金)
参拝:2023年11月吉日
宮城県松島町、日本三景松島内に境内を構える瑞巌寺、歴史的建造物の寺院は見応えが在り、四季の景色と寺院との景色は絶景です、紅葉時期にはライトアップもやってます、どの様な寺院かを引用を用いて調べて見ました、山号は松島青龍山、寺号は瑞巌円福禅寺、宗派は現在臨済宗妙心寺派に属する禅宗寺院、聖観世音菩薩、(蜂屋観音)各種霊場の札所にもなってます、
奥州三十三観音霊場、第六番札所、
東日本大震災慰霊
みちのく巡礼、宮城第二十番札所、
奥の細道みちのく路三十三ヶ所霊場、第四番札所、
北國八十八ヶ所霊場、第六番札所
四寺廻廊、円仁が開山した四寺を巡る、瑞巌寺、毛越寺、中尊寺、山寺、立石寺、で満願、
三陸三十三ヶ所霊場、特別番外札所、
東北三十六不動尊他、円仁によって開創したのと日本でも有数の歴史的建造物位しか解りませんでしたが、仏閣、神社巡る様になり気になりましたので調べて見ました。
9世紀初頭、慈覚大師円仁によって開創された天台宗延福寺がその前身と言い伝えられ、13世紀中頃、鎌倉幕府執権・北条時頼公が法身性西禅師を開山として臨済宗建長寺派への改宗を行い、寺名も円福寺と変わりました、関ヶ原の戦い後、仙台に治府を定めた伊達政宗公は、仙台城の築城と併せて、領民の精神的拠り所とするため盛んに神社仏閣の造営を行いました。中でも戦国時代を経て衰退していた円福寺の復興には特に力を注いでおり、事業開始にあたり自ら縄張りを行い、平安の昔から「浄土の地」とみなされてきた紀州熊野に用材を求め、畿内から名工130名を招き寄せる等だったそうです、慶長13年(1608)に鋳造された大鐘には、「山を号して松島と曰い、寺を名づけて瑞岩(巌)と曰う」という一文を見ることができます。これが「瑞巌寺」という呼称の始まりで正式名称を「松島青龍山瑞巌円福禅寺」となり翌慶長14年(1609)、5年の歳月を経て工事が完了し、以後江戸時代を通じて伊達家の菩提寺として領内随一の規模と格式を誇りました。と在ります納得の偉大さであります、その景観、庭、内装どれをとっても見応えがあります、仏閣
奥州三十三観音霊場、第六番札所、
東日本大震災慰霊
みちのく巡礼、宮城第二十番札所、
奥の細道みちのく路三十三ヶ所霊場、第四番札所、
北國八十八ヶ所霊場、第六番札所
四寺廻廊、円仁が開山した四寺を巡る、瑞巌寺、毛越寺、中尊寺、山寺、立石寺、で満願、
三陸三十三ヶ所霊場、特別番外札所、
東北三十六不動尊他、円仁によって開創したのと日本でも有数の歴史的建造物位しか解りませんでしたが、仏閣、神社巡る様になり気になりましたので調べて見ました。
9世紀初頭、慈覚大師円仁によって開創された天台宗延福寺がその前身と言い伝えられ、13世紀中頃、鎌倉幕府執権・北条時頼公が法身性西禅師を開山として臨済宗建長寺派への改宗を行い、寺名も円福寺と変わりました、関ヶ原の戦い後、仙台に治府を定めた伊達政宗公は、仙台城の築城と併せて、領民の精神的拠り所とするため盛んに神社仏閣の造営を行いました。中でも戦国時代を経て衰退していた円福寺の復興には特に力を注いでおり、事業開始にあたり自ら縄張りを行い、平安の昔から「浄土の地」とみなされてきた紀州熊野に用材を求め、畿内から名工130名を招き寄せる等だったそうです、慶長13年(1608)に鋳造された大鐘には、「山を号して松島と曰い、寺を名づけて瑞岩(巌)と曰う」という一文を見ることができます。これが「瑞巌寺」という呼称の始まりで正式名称を「松島青龍山瑞巌円福禅寺」となり翌慶長14年(1609)、5年の歳月を経て工事が完了し、以後江戸時代を通じて伊達家の菩提寺として領内随一の規模と格式を誇りました。と在ります納得の偉大さであります、その景観、庭、内装どれをとっても見応えがあります、仏閣
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