こんごうじ|浄土宗|一切経山
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京都浄土宗寺院特別大公開最終日。山門すぐの地蔵堂お参りしてから本堂へ。行基上人御作と伝わる丈六阿弥陀様をお参り。10時から念佛法要とのことでそれまでは散策。四十八願のことを伺うと本堂に張られている札まで案内していただけました。「四十八願巡一百度成就」とあり、百回巡礼した記念のようで、「余程やることなかったんですかね(笑)」とおっしゃられてました🤣とはいえ今の御時世みたいに檀家のみとかで突っぱねられることもなく自由にお参りできるのはむしろ羨ましい。
本堂内写真はご自由にとのことで遠慮なく。原派絵師による襖絵なども展示されておりました😊




















早朝まだ小雪のちらつく中、二日目の京都散策に出ました。
平安神宮の大鳥居から琵琶湖疎水が白川となって祇園の街に流れ込んでゆくこの辺りもワタクシには懐かしい場所。
三条通りに面した閑静なお寺さんが目に留まりました。

交通量の多い通り沿いに山門が。

行基菩薩作の阿弥陀様がおられるそうです。
特別公開されることもあるみたい。

苔むす静かな境内

御本堂

観音さまかしら

観音堂とお地蔵様

庫裡にてご住職から御朱印をいただきました。
朝早くからすみません。

御朱印

裏の路地も風情があります。

並河七宝記念館。
残念ながら臨時休業中。
京都市有形登録文化財。いつか見てみたい。

白川に沿って、また歩き出します。
境内・文化財
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当寺は山号を一切経山とする浄土宗の寺院。奈良時代、天平年間に行基が東岩倉山(左京区)の一切経谷に創建した阿弥陀堂に起源をもち「上の堂」とも称しました。伝えでは、行基は丈六の阿弥陀如来像を彫ったとされています。応仁の乱で、東岩倉山一帯は戦場となり、当寺は荒廃した。伝えによると焼けた御堂から首だけになった阿弥陀如来像を信者達が見つけだし、それを粟田の地に本尊を遷し、仮堂(粟田惣堂)を建て蔣(こも)(菰)を敷き、その上に阿弥陀如来の頭部像を祀ったところから、今も蹴上には「小物座(蔣座)町」という地名が残ると言います。
以降、地元の住民たちによって御堂は守られ信仰されてきましたが、慶長七年(一六〇二)に岌然(きゅうねん)上人が、青蓮院門跡の許可を得て、現在の地に堂を移し寺を再興しました。 正徳三年(一七一三)には本尊が修復され、享保十五年(一七三〇)には本堂が建立され、現在に至ります。
-一切経山金剛寺HPより-
| 名称 | 金剛寺 |
|---|---|
| 読み方 | こんごうじ |
| 御朱印 | あり |
| 限定御朱印 | なし |
| 電話番号 | 075-771-2442 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
| ホームページ | https://www.kongoji-kyoto.org |
| SNS |
詳細情報
| ご本尊 | 阿弥陀如来像 |
|---|---|
| 山号 | 一切経山 |
| 宗旨・宗派 | 浄土宗 |
| 創建時代 | 奈良時代 |
| ご由緒 | 当寺は山号を一切経山とする浄土宗の寺院。奈良時代、天平年間に行基が東岩倉山(左京区)の一切経谷に創建した阿弥陀堂に起源をもち「上の堂」とも称しました。伝えでは、行基は丈六の阿弥陀如来像を彫ったとされています。応仁の乱で、東岩倉山一帯は戦場となり、当寺は荒廃した。伝えによると焼けた御堂から首だけになった阿弥陀如来像を信者達が見つけだし、それを粟田の地に本尊を遷し、仮堂(粟田惣堂)を建て蔣(こも)(菰)を敷き、その上に阿弥陀如来の頭部像を祀ったところから、今も蹴上には「小物座(蔣座)町」という地名が残ると言います。
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| 体験 | 仏像食事・カフェ御朱印 |
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