きよみずでら|北法相宗|音羽山
清水寺のお参りの記録一覧(9ページ目)
何十年ぶりかの清水寺。 子供のころに訪れたのでほとんど記憶になく、新たな気持ちでお参りを致しました。 言わずもがなの清水寺、コメント短め写真多めで投稿します。
清水寺・仁王門
清水寺・祥雲青龍
清水寺・鐘楼
清水寺・随求堂
清水寺・三重塔
清水寺・経堂と三重塔
清水寺・開山堂(田村堂)
清水寺・轟門
清水寺・朝倉堂
清水寺・本堂へ続く回廊
清水寺・仏足石
清水寺・本堂
清水寺・本堂
舞台からの眺め
清水寺・音羽の滝
舞台から望む
清水寺・阿弥陀堂
清水寺・本堂
奥之院から望む
清水寺・音羽の滝
清水寺・本堂舞台下
音羽の滝から望む
清水寺・本堂舞台下
御朱印・大悲閣
御朱印・阿弥陀如来
御朱印・不動明王
京都といえば、このお寺。
大改修が完了してから初めての参拝。
また美しさを増した舞台を眺め、
「大悲閣」と書かれた御朱印をいただきました。
風鈴の音色が心を和ませる。
ダイナミックに「大悲閣」と書かれた御朱印。直書きはいいですね。
参拝時はそれ程混みおっておらず音羽の滝でも柄杓で水を組むことが出来ました。
清水坂を上がって来ると仁王門が見えて来る。
清水坂を上がってくると最初に臨むのは仁王門と西門、奥の方には三重塔の先端が見える。
普門閣に東日本大震災の犠牲者追悼や新型コロナ終息を願う沢山の風鈴が吊るされていました。
本堂で最初に見えるのは出世大黒様。
清水の舞台です、とても高いです。正面に見えるのが奥之院です。
奥之院から清水の舞台を臨んだ風景。
清水の舞台から眺めた音羽の滝。
音羽の滝近影。
下から見上げた清水の舞台。
清水寺の御朱印。
清水寺で買った御朱印帳。
雨降り
コロナ禍
平日
これは、人少ないやろ
と思って狙って行ったら、思ってる以上に人がいた
てゆーか、修学旅行生多し
多!
とはいえ、中国人密集時代にくらべれば閑散としてる
曇り空も風情がある
寺より景色を撮りたくなる
それが清水寺の不思議
御朱印はこちらで
京都人でよかった!
と思える場所
寺の前だけが人が多い
それ以外はシーンとしてる
子安と聞くと
くっそカッコいい声の声優さんが浮かぶ件
心霊写真のように映るわい
滝
真ん中は縁結び!
滝。。。ここだけ、密が発生してる。。。
なぜや
地主神社でさえ1人2人やったのに
滝、、、人が減るのを待ってたんやけど、減らない
待てば待つほど修学旅行生の集団まで現れて
今回は縁がなかったと思って諦める
(TДT)
なんと、最寄りの清水寺駐車場閉鎖中やった
( ̄▽ ̄;)
2日目は京都散策
修学旅行のようなコースで参拝してきました😁
まずは清水寺様から
以前来た時は舞台が大改修していた時だから何年ぶりだろう❓
ほんとに人がいなくてビックリでしたがその分、ゆっくり満喫しました👍
山門にも人は見当たらず
音羽の滝も空いてます
音羽の滝への道
ご覧の通りの空き具合😁
40年ぶりの清水寺参拝
緊急事態だからこその静まり返った状態もいい感じ。
ゆっくりとした時間が過ごせました
人っ気のない仁王門
三重塔
清水の舞台 人も少なくいい感じ
清水寺は奈良時代後期に創建された北法相宗の寺院。
山号は音羽山。
778年(宝亀9年)、霊夢を受け音羽山麓にたどり着いた延鎮(えんちん)が、そこで出会った行叡居士(ぎょうえいこじ)に授けられた霊木で千手観音像を刻み、滝の上に庵を結んだのがその始まりだという。
のちの798年(延暦17年)、延鎮に帰依したという坂上田村麻呂が自邸を仏殿として寄進し、十一面千手観音を本尊として安置した。
はじめの寺名は嵯峨天皇から賜ったという北観音寺。
その後、音羽の滝の清水が人々に知られるようになり清水寺と改められたのだという。
本尊の千手観音は、「清水型十一面千手観音」と呼ばれ、一般的なものとは姿が異なる。
秘仏で33年毎に開帳されている。
「松風や音羽の滝の清水をむすぶ心はすずしかるらん」
(西国三十三所第十六番)
清水寺は、778年に延鎮によって開かれました。平安京遷都以前からの歴史を持つ、数少ない寺のひとつでもあります。798年には、坂上田村麻呂によって伽藍の整備がなされたと伝えられています。
平安時代以降は観音霊場として栄えましたが、1063年以降は何度も火災により焼失しています。
1469年の応仁の乱でも大きなダメージを受けてしまいますが、願阿弥(がんあみ)の尽力により再建されました。
現在の本堂は、1633年に徳川家光の寄進によって再建されたものです。
清水寺は婚前旅行で妻と訪れたことがあり、生まれつき心臓の弱く歩くのが苦手な妻の手を引き休みながら参道を上りきったこと思い出しながら、散策してきました。緊急事態宣言下で残念ながら思い出のお店は開いてませんでしたが一枚一枚妻と撮った場所を妻を感じながら撮影してきたので写真が多くなってしまいました、いつもは写真選んで投稿してますが今回は選ぶことできなかったので写真多めですm(__)m
あとどのくらい妻のことを覚えていられるか分かりませんがまだ自分の中で妻は生きていました😊
一周忌の後、訪れた時は涙を堪えるのが精一杯で清水寺を楽しむことできませんでしたが、本堂の修復工事も終わっていて、今回は金閣寺も清水寺も参拝客が少なく妻との思い出に浸りながら貸切に近い状態でのんびり散策することができました。妻が一緒に散策する為に人よけしてくれたんだと思うことにします🤗
少しずつ妻のことを思い出す時間が減っていき時間とは残酷なものだとも少し感じてしまいましたが😅しかし確実にどん底から抜け出したことも実感でる散策となりました。数年後また訪れてみたいと思います、その時は今より前を向いていられるよう頑張らないとと思います
境内入口にある門で、その色から「赤門」とも呼ばれています。応仁の乱の後、15世紀末に再建されました。
847年に創建され、解体修理後は極彩色の文様が鮮やかによみがえりました。高さ30.1mというのは、三重塔としては日本最大級です。内部に大日如来を祀り、密教仏画が描かれています。
徳川家光の寄進により再建されたもので、本尊は千手観音立像、両脇の厨子には毘沙門天立像と地蔵菩薩立像が祀られています。しかしこれらはすべて秘仏であり、通常は見ることができません。
そして、「清水の舞台」の語源となった場所があります。この舞台は山の斜面に突き出すようにして建てられており(懸造:かけづくり)、釘も使用されていません。高さはビルの4階くらいになります。元来は本尊に芸を奉納する場所でした。現在も、重要な行事はここで行われています。
こんなに人の少ない清水の舞台ははじめてです
寺名の由来となった滝です。ここに流れ落ちる清水は、「黄金水」「延命水」と呼ばれました。今でも、恩恵にあずかるために多くの人が訪れます。
京都国立博物館で行われている「鑑真和上の戒律のあゆみ」特別展に行くからと(いつもの助平根性で)京都市内の寺院巡りをしました。
GW中はコロナ禍で京都国立博物館が閉館しており、特別展が5/16迄のため必然的に本日行く事となりました。国宝・鑑真和上像が間近でゆっくり観れたのは本当に良かった。唐招提寺では年に1回、3日間しか公開されないですから。
さて、1寺目は誰もが知っている京都市東山区に在る音羽山 清水寺です。北法相宗の大本山で、本尊は十一面千手観音。
「清水の舞台」の修繕工事も終わり、綺麗になりました。
今回は廻る寺院が多いため早目に到着したのは良かったのですが、納経所が8時からだったため待つ事に。入門は6時から、納経所は8時からですので御朱印が必要な方はご注意を。
尚、駐車場はありませんので、最寄りのコインパーキング等に停める必要があります。
御朱印(軸装納経帳)
清水坂(誰も歩いていません)
仁王門(逆光のため裏側から)
鐘楼
三重塔
清水の舞台
本堂
音羽の滝
オマケ∶京都国博特別展のパンフレット
京都府京都市東山区にある北法相宗の大本山の寺院。山号は音羽山。本尊は十一面千手観音菩薩。西国三十三所16番札所。1965年にそれまで属した奈良・興福寺(法相宗)から独立、北法相宗を名乗る。
京都でも平安京遷都以前からの歴史を持つ数少ない寺院の一つ。また、石山寺(滋賀県大津市)、長谷寺(奈良県桜井市)などと並び日本有数の観音霊場。鹿苑寺(金閣寺)や嵐山と並び、京都でも有数の観光地。ユネスコの世界遺産に「古都京都の文化財」の構成資産の1つとして登録されている。
寺伝によると、創建は奈良時代の778年で、大和国・興福寺の僧・賢心(のち延鎮と改名)が夢のお告げで当地を訪れ、200歳の老僧・行叡居士(ぎょうえいこじ)に庵を託され、千手観音を刻んで安置したのが始まり。2年後の780年に坂上田村麻呂が延鎮に説かれ観音に帰依し、自邸を本堂として寄進、東国蝦夷平定後、本堂を大きく改築し、観音の脇侍として毘沙門天と地蔵菩薩を祀ったとされる。この縁起より、清水寺は行叡を元祖、延鎮を開山、坂上田村麻呂を本願としている。
平安期、805年に坂上田村麻呂が太政官符により寺地を賜り、810年嵯峨天皇の勅許を得て後任寺院となり「北観音寺」の寺号を受けた。この時期、文学作品にもたびたび現れ、『枕草子』や『源氏物語』、『今昔物語集』にも記載がある。
江戸期に至るまで、1165年の延暦寺の僧兵乱入や1469年の応仁の乱の兵火などによりたびたび焼失と再建を繰り返すが、江戸期に入り幕府から寺領を受け、1629年の火災の後、徳川家光により多くの伽藍が再建されている。
明治期に神仏分離令により、境内の地主神社が分離独立。1914年に興福寺住職・法相宗管長の大西良慶が清水寺貫主に就任、1965年に法相宗から独立し北法相宗を開宗した。
当寺は、JR京都駅からバスで東北東へ3km、五条坂バス停または清水道バス停から東へ1kmほどの音羽山の中腹にある。多くの伽藍がコンパクトに並び、本堂や奥之院の見晴し台からは京都市街地や山々が眺望できるなど、観光地としてのキラー要素が満載。何度行っても意外と飽きない。
参拝時は週末の午前中早めの時間、天気予報は大雨だったため参拝者は非常に少なかったが、実際の天気は小雨でじきに上がったため、桜満開の境内の参拝を満喫することができた。
参道を登り切った時に見える景色。左は<仁王門>、右は<西門>とその後ろの<三重塔>。
上写真の撮影位置から左を向くと<馬駐(うまとどめ)>。室町後期の再建。切妻造、瓦葺。国指定の重要文化財。
<仁王門>を見上げる。室町時代の再建。三間一戸楼門、入母屋造、檜皮葺。国指定の重要文化財。正面左右の金剛力士像は鎌倉末期のもの。
手前の<西門>は江戸初期の1631年再建。切妻造、檜皮葺、八脚門。西山に沈む夕日を見ながら西方極楽浄土を観想する日想観の聖所。
仁王門の背後にある<鐘楼>。1607年再建。
仁王門から参道を進んだ正面にある<随求堂(ずいぐどう)>。もとは塔頭・慈心院の本堂を1718年に移築したもの。
随求堂手前で右を向くと<三重塔>。1632年再建。高さ31m。国指定の重要文化財。
三重塔の先に建つ<経堂(講堂)>。1633年再建。入母屋造、瓦葺の五間堂。国指定の重要文化財。内部には釈迦三尊像を祀る。
経堂の先に建つ<開山堂(田村堂)>。1633年再建。入母屋造、瓦葺の三間堂。国指定の重要文化財。内部には坂上田村麻呂・高子夫妻像、行叡・延鎮像を祀る。
田村堂の先に建つ<轟門(とどろきもん)>。1639年再建。国指定の重要文化財。<普門閣>の扁額が架かる、有料拝観の入口。開山堂の対面に料金所がある。
轟門手前の<水屋>。
轟門をくぐると本堂へと続く<回廊>。突き当りを右に進むと<清水の舞台>。
回廊左手に建つ<朝倉堂>。1633年再建。入母屋造、瓦葺の五間堂。国指定の重要文化財。清水観音を篤く信仰した越前国守護大名・朝倉貞景の寄進。内部には秘仏の千手観音、毘沙門天、地蔵菩薩の三尊、西国三十三所の観音像を祀る。
<清水の舞台>が見えた瞬間。こちら国宝<本堂>は1633年に徳川家光の寄進により再建。屋根は寄棟造、檜皮葺で正面左右に入母屋造の翼廊が突き出している。建物には舞台と呼ばれるせり出しがあり、釘なしで組み合わされた139本のケヤキの巨大柱が支えており、この構造を<懸造(かけづくり)>という。
<清水の舞台>から南を望む。ところどころにある桜の木が満開で春の景色。
<清水の舞台>を過ぎて左方向に進むと、本堂の裏手に<地主神社>。
<地主神社>の階段から順路の先を望む。写真右側手前が<授与所>、右側奥が<釈迦堂>、中央が<阿弥陀堂>、右側が<奥の院>。
まず<授与所>。御本尊の御朱印はこちら。(御朱印1/3カ所目)
授与所の奥にある<西向地蔵堂>。
西向地蔵堂の右隣にある<釈迦堂>。1631年再建。寄棟造、檜皮葺の三間堂。国指定の重要文化財。
釈迦堂の右隣にある<阿弥陀堂>。1631年再建。入母屋造、瓦葺の三間堂。国指定の重要文化財。阿弥陀様の御朱印はこちら。(御朱印2/3カ所目)
阿弥陀堂の右隣にある<奥の院>。1633年再建。寄棟造、檜皮葺の五間堂。国指定の重要文化財。本堂を望む見晴し台がある。
奥の院の裏手にある<濡れ手観世音>。蓮華水盤から柄杓に水を汲み、観音様の肩から掛けて諸願成就を祈願する。観光客はほとんど見に来ていなかった。
奥の院から見た本堂。満開の桜とともに。
本堂と京都市街地。
本堂全景。足場からの<懸造り>の構造がよく見える。
さらに南に進むと、三重塔から本堂までの伽藍が繋がって見える。
坂を下り、谷に下りると<音羽の滝>がある。
音羽の滝の前に建つ<滝の堂>。不動明王の御朱印はこちら。(御朱印3/3カ所目)
音羽の滝から本堂を見上げる。
有料エリアを出て、谷の反対側、成就院の近くに向かうと<中興堂>がある。1997年建立。中興開山・大西良慶和上の御霊屋。
中興堂の左隣の<春日社>。室町後期の再建。鎮守堂。国指定の重要文化財。
春日社の前から見た<三重塔>。満開の桜との美の競演。
清水寺 参拝日 令和3年3月28日
洛陽三十三所観音霊場第十二番の御朱印と法然上人二十五霊場第十三番の御朱印を頂きました
本堂
百体地蔵堂
釈迦堂
子安東
洛陽三十三所観音霊場納経帖のページ
洛陽三十三所観音霊場第十二番の御朱印
法然上人二十五霊場納経のページ
法然上人二十五霊場第十三番の御朱印
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