えのしまじんじゃ
江島神社神奈川県 片瀬江ノ島駅
8:30〜17:00
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楽しみ方御朱印(11種類)
江島神社では、「江島神社三宮総称」、「日本三大弁財天」、「辺津宮」、「中津宮」、「奥津宮」、「江島大明神」、「龍宮」、「八方睨みの亀」、「八臂弁財天」、「蘇民将来」、「弁財天」の11種類の御朱印をいただけます。
江島神社三宮総称御朱印
真ん中に江島神社と書かれ、上部に神紋(向かい波三つ鱗)、真ん中に江島神社の社印が押されています。
江の島にある三宮(辺津宮、中津宮、奥津宮)を総称して江島神社と呼びます。

所在地:神奈川県藤沢市江の島2丁目3番8号
主祭神:田寸津比賣命、市寸島比賣命、多紀理比賣命
社 格:旧県社・別表神社
創 建:552年(欽明天皇13年)
由 緒
江の島湧出については諸説ありますが、『江島縁起』では、欽明天皇十三年(552年)四月十二日の夜から二十三日の朝まで大地が震動し、天女が十五童子を従えて現れ、江の島を造ったと表現しています。このことを社伝では、「欽明天皇の御宇 神宣 により詔して 宮を島南の竜穴に建てられ 一歳二度の祭祀この時に始まる」と記しており、欽明天皇の勅命で、島の洞窟(御窟・現在の岩屋)に神様を祀ったのが、江島神社のはじまりであると伝えています。欽明天皇は、聖徳太子よりも少し前の時代の天皇で、この頃、日本では仏教が公伝され、日本固有の神道と外来の仏教が共に大事にされていました。

神奈川県藤沢市江の島に鎮座する神社で、日本三大弁天のひとつに数えられる。
欽明天皇13年(552)、神宣に基づき欽明天皇の勅命により、江の島の南の洞窟に宮を建てたのが始まりとされる。
神仏習合により「金亀山与願寺」と称する寺となった。
『吾妻鏡』によれば、寿永元年(1182)、源頼朝の命により文覚が島の岩屋に弁財天を勧請したとあり、これをもって創建とすることもある。
当社には岩本坊・上ノ坊・下ノ坊の3つの別当があり、それぞれ岩屋本宮(現在の奥津宮)・上之宮(現在の中津宮)・下之宮(現在の辺津宮)を管理していた。その中で岩本坊は総別当とされ、江島寺とも称した。
慶安2年(1649)に京都・仁和寺の末寺となってからは岩本坊のみ院号の使用が認められて「岩本院」と称するようになった。
三坊は競って当社の縁起を説いて回り参詣者を集めたが、そのうちに利権争いが起こり、寛永17年(1640)に岩本院は幕府からの朱印状を得て上ノ坊を吸収した。後に下ノ坊も支配するようになり、岩本院が全島の権益を握ることとなった。
明治元年(1868)の廃仏毀釈により、三重塔の他、多くの仏教施設や仏像などが破壊された。
明治6年(1872)には仏式を廃して神社となり、「江島神社」へ改称した。同時に僧侶は全員僧籍を離れて神職となり、岩本院は参詣者の宿泊施設としても利用されていたことから、旅館となり「岩本楼」へ改称した。
受付時間
8:30〜17:00
受付場所
本殿(辺津宮)の横(右側)にある社務所
申し込み方法
青銅の鳥居(せいどうのとりい)
朱の鳥居(しゅのとりい)
青銅鳥居から歩いて約2~3分。昭和十一年(1936年)山田流筝曲の家元・林敏子が再建・寄進したもの。
瑞心門(ずいしんもん)
朱の鳥居の正面、石段を上ったところにある龍宮城を模した楼門。
由緒
ご祭神
この三女神を江島大神と称しています。古くは江島明神(えのしまみょうじん)と呼ばれていましたが、仏教との習合したことによって弁財天女となり、江島弁財天として信仰されるようになりました。
海の神、水の神の他に、幸福や財宝を招き、芸道上達の功徳を持つ神とされています。
| 名称 | 江島神社 |
|---|---|
| 読み方 | えのしまじんじゃ |
| 通称 | 江島弁天 |
| 参拝時間 | 8:30〜17:00 |
| 参拝料 | 奉安殿入場料:一般200円 |
| トイレ | 江の島各所に19ヶ所の公衆トイレ |
| 御朱印 | あり 真ん中に江島神社と書かれ、真ん中に社紋と社印が押されて御朱印です。
|
| 限定御朱印 | あり |
| 御朱印帳に直書き | あり |
| 御朱印の郵送対応 | なし |
| 御朱印帳 | あり |
| 電話番号 | 0466-22-4020 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
| ホームページ | http://enoshimajinja.or.jp |
| おみくじ | あり |
| お守り | あり |
| 絵馬 | あり |
| SNS |
| 鎌倉江の島七福神 第8番 | 仏さま:江島弁財天 御真言: おん そらそばていえい そわか |
|---|---|
| 藤沢七福神 第8番 | 仏さま:弁財天 |
| ご祭神 | 《主》田寸津比売命,市寸島比売命,多紀理比売命 |
|---|---|
| 創建時代 | 欽明天皇13年 |
| 創始者 | 欽明天皇 |
| 文化財 | 八臂弁財天御尊像(国指定重要文化財)
|
| ご由緒 | 江の島のはじまり 江の島湧出については諸説ありますが、『江島縁起』では、欽明天皇十三年(552年)四月十二日の夜から二十三日の朝まで大地が震動し、天女が十五童子を従えて現れ、江の島を造ったと表現しています。このことを社伝では、「欽明天皇の御宇ぎょう 神宣 しんせんにより詔して 宮を島南の竜穴に建てられ 一歳二度の祭祀この時に始まる」と記しており、欽明天皇の勅命で、島の洞窟(御窟・現在の岩屋)に神様を祀ったのが、江島神社のはじまりであると伝えています。欽明天皇は、聖徳太子よりも少し前の時代の天皇で、この頃、日本では仏教が公伝され、日本固有の神道と外来の仏教が共に大事にされていました。 名僧たちがご神徳を仰ぎに訪れた島 その後、文武天皇四年(700年)に、役小角という修験者が、江の島の御窟に参籠して神感を受け、修験の霊場を開きました。これに続き、泰澄、道智、弘法、安然、日蓮などの名僧が、御窟で次々に行を練り、高いご神徳を仰いだと伝えられています。そして、弘仁五年(814年)に空海が岩屋本宮を、仁寿三年(853年)に慈覚大師が上之宮(中津宮)を創建。時を経て、建永元年(1206年)に慈覚上人良真が源實朝に願って下之宮(辺津宮)を創建しました。 ※奥津宮は、岩屋本宮に海水が入りこんでしまう四月~十月までの期間、岩屋本宮のご本尊が遷座されたところで、江戸時代までは本宮御旅所(ほんぐうおたびしょ)と言われていました。創建年代は不詳ですが、風土記などの資料から1600年代の創建と考えられています。 “戦いの神”から”芸能・音楽・知恵の神”へ 鎌倉時代には、岩屋に参籠して戦勝祈願を行った源頼朝が八臂弁財天と鳥居を奉納。また後宇多天皇は、蒙古軍を撃ち退けた御礼として、江島大明神の勅額を奉納されました。このことから”戦いの神”としての弁財天信仰が広がり、東国武士たちが多く江の島を訪れるようになりました。江戸時代になってからは泰平の世となり、江島神社は”戦いの神”から”芸能・音楽・知恵の神”として、また”福徳財宝の神”として信仰されるようになりました。慶長五年(1600年)には徳川家康も参詣、代々の将軍たちも、病気の治癒、安産、旅行の安全などを祈願したと伝えられています。 時代を経ても変わらないご神威 それから後、慶安二年(1649年)に仏教との習合により、江島神社は金亀山与願寺きんきざんよがんじ と号しますが、江島大神としてのご神威はいささか曇り給うことなく、ご神徳はいよいよ広大に仰がれました。明治初年の神仏分離によって、仏式を全廃して純神道に復し、改めて「江島神社」と号し、これまでの本宮と御旅所は奥津宮、上之宮は中津宮、下之宮は辺津宮と改称し、海の神、水の神、幸福・財宝を招き、芸道上達の功徳を持つ神として仰がれています。 |
| 体験 | 祈祷おみくじお祓いお宮参り絵馬七五三仏像食事・カフェ御朱印お守り重要文化財武将・サムライ有名人のお墓札所・七福神巡り伝説 |
| 供養 | 一般墓 |
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