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けいそくじ|真言宗豊山派仏手山

鶏足寺
公式栃木県 小俣駅

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本尊釈迦如来、鶏足寺不動尊と足利三十三観音の3種類の御朱印をご用意しております。 今なら御朱印参拝…

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足利三十三観音霊場第1番札所

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2026年05月12日(火)692投稿

栃木県 足利市 小俣町に境内を構える、鶏足寺、正式名称は 仏手山 金剛王院 鶏足寺、当方は 道の駅 全国制覇者で、全国の寺社、霊場を巡礼しております、2024に 足利三十三観音霊場巡礼にて参拝致しました、歴史在る建築物が多い足利市の中でも、古刹寺院の風格満点の 鶏足寺、手入れの行き届いた境内、相応しい寺院対応で有難い寺院様でした、どの様な寺院か引用を用いて調べて見ました、山号は 仏手山、院号は 金剛王院、寺号は 鶏足寺、宗旨 宗派は 新義 真言宗 真言宗 豊山派、寺格は別格本山、ご本尊は釈迦如来、足利三十三観音霊場 第一番札所、札所ご本尊は 聖観世音菩薩、足利坂東三十三観音霊場 第七番札所、札所ご本尊は十一面観世音菩薩、昔々、山が突然地鳴りを起こして揺れ動き、異様な音を出し始めました。他の山は静まり返っているのに、この山だけがなり続けていました。七日目には、急に大きく揺れて、そこから石仏が生まれました。この辺りの人は「鳴山」と呼んで、これを崇めておりました。
それから数百年後、平安時代初期の大同四年(909年)、奈良東大寺の定恵上人(じょうえしょうにん)が、この石仏を山の麓に移し、釈迦如来をお祀りして「世尊寺一乗坊」というお寺を建てました。
それから四十年後の仁寿元年(851年)、比叡山の円仁上人(えんにんしょうにん:慈覚大師)によって、この寺の山号は「仏手山」、院号は「金剛王院」と定められ、さらに境域を広げて、釈迦堂を始め八つの寺坊や山王社・蓮池などがつくられてお寺の構えが整いました。
それから九十年後の天慶二年(939年)、平将門(たいらのまさかど)が乱を起こして下総国相馬郡に在り、平親王と自称して朝廷に背きました。
朱雀天皇の命により、下野の押領使藤原秀郷(ふじわらのひでさと)は、三千騎を率いてその討伐に向かいました。将門の軍勢は強く、そのため秀郷は苦戦に陥りました。
この時、世尊寺常裕法印(じょうゆうほういん)は、秀郷の乞いを受け、勅願によって将門調伏の法を修する事になりました。
五大尊(不動明王・降三世明王・軍荼利夜叉明王・大威徳明王・金剛夜叉明王の総称)を祀り、その前に護摩壇を築き、中央不動明王壇には、土でつくった将門の首を供え、百人の僧を従えて十七日間、法印は日に夜についで修法を続けました。
満願の日の事、さすがに疲れ果てた法印は、いつの間にかうとうとししました。すると、三本足の鶏が、血にまみれた将門の首を踏まえて、高らかにときの声をあげる夢を見ました。はっとわれにかえった法印が壇上を見ると、土首の三カ所に三角に鶏の足跡がついています。法印は「調伏は成功した」と、なおも一心に修法を続けているところへ、今度は七・八歳の童子がどこからともなく現れて「今、秀郷が将門を討取った」と告げたかと思うと、たちまちその姿を消して見えなくなりました。お告げの通り、そのとき将門は討取られたのでした。
やがて秀郷は将門の首級を世尊寺に持ち帰り、戦勝のお礼参りをした後、調伏に用いた土首をそろえて、京都の朝廷に報告しました。
この霊験により、世尊寺は「鶏足寺」と改められ、勅願・宣旨をはじめ、五大明王像・両界曼荼羅などが朝廷から下賜されました。
それから三百年たった鎌倉時代中期の寛元元年(1243年)、後嵯峨天皇から宣旨がくだり、皇子誕生のご祈祷を仰せつかりました。そのとき、五大明王の絵像と大刀力王丸が下賜されました。ご祈祷の霊験により、皇子さま(後深草天皇)がお生まれになりました。
その二十年後、弘長三年(1263年)に、足利泰氏(あしかが やすうじ、智光寺殿)の発願で、父義氏(鑁阿寺開基義兼の子)菩提のため、五大尊堂の梵鐘がつくられました。
その六年後の文永六年(1269年)、下野薬師寺長老慈猛上人(じみょうしょうにん)がこの寺に迎えられ、それまでは天台・真言兼帯のお寺であった鶏足寺は、この時から真言宗となり、高野山から伝わった真言宗慈猛流(じみょうりゅう)の全国総本山として密法専修の道場となり、その盛んな頃は、山内に二十四院・四十八坊をもち。全国に三百六十余の末寺があったと伝えられています。
さらに三百年後の室町時代後期(戦国時代)の天文二十二年(1553年)、上杉謙信関東鎮定の折り兵火にかかり勅使門を除く寺の堂舎はすべて焼失しました。現在の本堂は江戸時代中期の正徳三年(1723年)の建立、護摩堂(五大堂)は享保十七年(1732年)の建立であります。やや旧観に復したが往時の十分の一程度の規模になりました。
それから現在までの約二百八十五年、この間激しい時代の移り変わりにあいながらも、開創千二百年の法燈は絶えることなく、今に、済生利人の法幢を高らかにかかげて、仏陀の福音をつたえております

鶏足寺の御朱印

足利坂東三十三観音霊場 第七番札所、札所ご本尊は十一面観世音菩薩、

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歴史

その昔、周囲の山々が突然地鳴りを起こして揺れ動き、異様な音を出しはじめました。しばしの後、他の山は静まりかえり、一つの山だけがいつまでも鳴り続けます。山が音を出し始めて七日目、山は急激に大きく揺れ、そこから一尊の石仏が生まれました。土地に暮らす人々は皆、その山を「鳴山」と呼んで、崇めておりました。
数百年後の大同四年(809年)、平安時代の初期に「鳴山」は歴史の表舞台に現れます。
奈良東大寺の定恵(じょうえ)上人が、「鳴山」より生まれたこの石仏を山の麓に移し、釈迦如来をお祀りして「世尊寺一乗坊」というお寺を建てました。
仁寿元年(851年)、比叡山の円仁上人(慈覚大師)によって、寺の山号は「仏手山」、院号は「金剛王院」と定められました。

それから数百年後。勢力を拡大していた平将門が坂東全域を巻き込んだ大規模な反乱を起こし、朝廷に反旗を翻しました。
朱雀天皇の命を受け、下野の押領使・藤原秀郷は、兵三千騎を率いてその討伐に向かいました。しかし、当時、隆盛を誇った将門の軍勢は強大で、秀郷の討伐軍は苦境に立たされます。
秀郷の乞いを受けた世尊寺の常裕法印(定宥とも)は、勅願によって将門調伏の法を修する事になりました。

五大尊を祀り、その前に護摩壇を築き、中央不動明王壇には、土でつくった将門の首を供え、百人の僧を従えて十七日間、常裕法印(定宥とも)は昼夜問わず、修法を続けました。

満願の日、さすがに疲れ果てた法印が眠気に襲われうとうとしていると、三本足のにわとりが、血にまみれた将門の首を踏まえて、高らかにときの声をあげる夢を見ました。
はっとわれにかえった法印が壇上を見ると、土首の三カ所に三角ににわとりの足跡がついています。法印は「調伏は成功した」と、なおも一心に修法を続けました。
すると今度は七・八歳の童子がどこからともなく現れて「今、秀郷が将門を討取った」と告げたかと思うと、たちまちその姿を消して見えなくなりました。
お告げの通り、そのとき将門は討取られたのでした。

やがて秀郷は将門の首級を世尊寺に持ち帰り、戦勝のお礼参りをした後、調伏に用いた土首をそろえて、京都の朝廷に報告しました。
この霊験により、世尊寺は「鶏足寺」と改められ、勅願・宣旨をはじめ、五大明王像・両界まんだらなどが朝廷から下賜されました。

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鶏足寺の情報

住所栃木県足利市小俣町2748-1
行き方

JR両毛線小俣駅から徒歩30分
東武伊勢崎線足利市駅から自動車で25分
北関東道太田桐生ICから15分

鶏足寺の基本情報

名称鶏足寺
読み方けいそくじ
参拝時間

午前7時~午後5時

参拝にかかる時間

約15分

参拝料

なし

トイレ霊苑駐車場内 寺務所内
御朱印あり

本尊釈迦如来、鶏足寺不動尊と足利三十三観音の3種類の御朱印をご用意しております。
今なら御朱印参拝の方にお供物として鶏足寺古印煎餅(足利香雲堂本店様謹製)を差し上げます。

限定御朱印なし
電話番号0284620276

お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。

メールアドレスinfo@keisokuji.jp
ホームページhttps://keisokuji.jp
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巡礼の詳細情報

詳細情報

ご本尊釈迦如来 不動明王(五大明王尊)聖観音菩薩
山号仏手山
院号金剛王院
宗旨・宗派真言宗豊山派
創建時代809年(大同四年)
開山・開基定恵上人
文化財

太刀 銘力王 国重文
鶏足寺印(銅印)国重文
梵鐘 国重文
ほか

ご由緒

その昔、周囲の山々が突然地鳴りを起こして揺れ動き、異様な音を出しはじめました。しばしの後、他の山は静まりかえり、一つの山だけがいつまでも鳴り続けます。山が音を出し始めて七日目、山は急激に大きく揺れ、そこから一尊の石仏が生まれました。土地に暮らす人々は皆、その山を「鳴山」と呼んで、崇めておりました。
数百年後の大同四年(809年)、平安時代の初期に「鳴山」は歴史の表舞台に現れます。
奈良東大寺の定恵(じょうえ)上人が、「鳴山」より生まれたこの石仏を山の麓に移し、釈迦如来をお祀りして「世尊寺一乗坊」というお寺を建てました。
仁寿元年(851年)、比叡山の円仁上人(慈覚大師)によって、寺の山号は「仏手山」、院号は「金剛王院」と定められました。

それから数百年後。勢力を拡大していた平将門が坂東全域を巻き込んだ大規模な反乱を起こし、朝廷に反旗を翻しました。
朱雀天皇の命を受け、下野の押領使・藤原秀郷は、兵三千騎を率いてその討伐に向かいました。しかし、当時、隆盛を誇った将門の軍勢は強大で、秀郷の討伐軍は苦境に立たされます。
秀郷の乞いを受けた世尊寺の常裕法印(定宥とも)は、勅願によって将門調伏の法を修する事になりました。

五大尊を祀り、その前に護摩壇を築き、中央不動明王壇には、土でつくった将門の首を供え、百人の僧を従えて十七日間、常裕法印(定宥とも)は昼夜問わず、修法を続けました。

満願の日、さすがに疲れ果てた法印が眠気に襲われうとうとしていると、三本足のにわとりが、血にまみれた将門の首を踏まえて、高らかにときの声をあげる夢を見ました。
はっとわれにかえった法印が壇上を見ると、土首の三カ所に三角ににわとりの足跡がついています。法印は「調伏は成功した」と、なおも一心に修法を続けました。
すると今度は七・八歳の童子がどこからともなく現れて「今、秀郷が将門を討取った」と告げたかと思うと、たちまちその姿を消して見えなくなりました。
お告げの通り、そのとき将門は討取られたのでした。

やがて秀郷は将門の首級を世尊寺に持ち帰り、戦勝のお礼参りをした後、調伏に用いた土首をそろえて、京都の朝廷に報告しました。
この霊験により、世尊寺は「鶏足寺」と改められ、勅願・宣旨をはじめ、五大明王像・両界まんだらなどが朝廷から下賜されました。

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