むれじんじゃ
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御朱印 | - | ||
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駐車場 | なし |
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摂津国島下郡の式内社です。「牟礼」の地名は全国各地に存在しており、牟礼=群れ、村の転化だったりと色々な説があります。当社はこの地に住んでいた牟礼豪族が祖神さまを祀って創建された神社とされています。
《鳥居と社号碑》
《手水舎》
水は枯れています。
《拝殿》
大阪や奈良の無人社はこの形式の建物が多いです。
《扁額》
👁チェックポイント‼️
この神社の御祭神は写真のように素戔嗚尊さまと天児屋命さまとなっていますが、元々は牟礼豪族の祖神である大中津日子命だったとされています。
御祭神が変わったのは、信長公が神社焼き討ちを始め、崇敬する天照大神、春日大神、牛頭天王さまのお社は燃やさなかったため、御祭神を隠して焼き討ちを避けようとしたからだそうです。
《本殿》🙏
《本殿説明》
現在のこの煌びやかな本殿は生國魂神社の末社である北向八幡宮の旧本殿だそうです。
《拝殿内部》
横に寝かされた案や灯籠があります。
《神輿》
同じく拝殿に安置されてました。
《社務所》
普段は無人のようです。
《遥拝所》
どこに向けての遥拝所なのでしょうか?
《安威川》
遥拝所の先の土手を上がると安威川にぶつかります。神社の由緒では、安威川に飲み込まれてしまう為現在地に遷座したとされています。元鎮座地への遥拝所でしょうか?
《境内》
茨木神社が元々の天石門別神社だったときに信長公の焼き討ちを逃れるために牛頭天王さまを祀り、そのまま茨木神社になったという経緯でしたが、他の神社にも同じようなことが行われてるのは知りませんでした。勉強になりました。
むれじんじゃ。
式内社。
祭神は建速素盞鳴尊・天児屋根命。
織田信長が当時行っていた社寺焼き払いを免れるため、信長が信仰する牛頭天王と春日神を祭神として偽ったのが現在まで続いているそうな。
生國魂神社の末社・北向八幡宮を1940年に譲り受け、社殿となったそう。
戦争で生國魂神社は被害を受けたが、茨木に移動したこの社は無事だったので(茨木に空襲はなかった)現存する生國魂神社の社殿では貴重なものなんだそうな。
実際天王寺から茨木までかなり距離があったが、その移動方法とかが社殿横に説明文として貼られているので興味がある人は訪れてください。
本殿の写真は最近撮りましたが、まだまだ時間がかかりそう...
拝殿
説明文
参道
遥拝所(何に対する遥拝かは不明)
名称 | 牟禮神社 |
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読み方 | むれじんじゃ |
参拝時間 | 参拝自由 |
参拝にかかる時間 | 約5分 |
参拝料 | なし |
トイレ | 社務所横にあり |
詳細情報
ご祭神 | 建速素盞鳴尊 (たてはやすさのおのみこと) 天児屋根命 (あめのこやねのみこと) |
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本殿 | 一間社流造 |
体験 | 祭り武将・サムライ伝説 |
Wikipediaからの引用
概要 | 牟禮神社(むれじんじゃ、簡体字:牟礼神社)は、大阪府茨木市にある神社。式内社で、旧社格は村社。 |
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歴史 | 歴史[編集] 平安時代中期の『延喜式神名帳』には「摂津国島下郡 牟礼神社」と記載され、式内社に列している。 『古事記』垂仁天皇の段に「御子大中津日子命者牟礼之別祖也」とあり、元は牟礼豪族の祖・大中津日子命(おおなかつひこのみこと)を祀っていたという説がある[1]。しかしながら織田信長の社寺焼き払いを免れるため、祭神を信長の敬う牛頭天王と春日神であると偽ったのがそのままとなったという。 宝永元年(1704年)、牟礼集落より中村集落に返された。 明治5年(1872年)、近代社格制度において村社に列した。 昭和14年(1939年)、安威川の改修で現在地に移転。昭和15年(1940年)、慶長11...Wikipediaで続きを読む |
引用元情報 | 「牟禮神社」『ウィキペディア日本語版』。 この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E7%89%9F%E7%A6%AE%E7%A5%9E%E7%A4%BE&oldid=70577522 |
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