かいのくにいちのみやあさまじんじゃ
御朱印・神社お寺の検索サイト
楽しみ方甲斐國一宮 浅間神社のお参りの記録一覧
絞り込み



今年の年始に参拝して以来の一宮参拝です笛吹市一宮町に鎮座する浅間神社は、富士山に対する信仰に始まり、駿河国や甲斐国を中心として各地に奉斎された浅間神社の一つ。甲斐国の一宮として崇敬され、一宮浅間神社、甲斐国一宮浅間神社などと通称される。
浅間を「せんげん」と読む神社が多いが、当社のように「あさま」とするのが本来の読み方である。「あさま」の語源については諸説あるが、長野県の浅間山のように火山を意味するのではないかと考えられている。
社伝によれば、垂仁天皇8年(B.C.22)に神山の麓、摂社・山宮神社の地(笛吹市一宮町一ノ宮1133)に鎮斎されたという。
貞観6年(864)富士山の大噴火があり、翌貞観7年(865)12月9日現社地に遷座した。『日本三代実録』貞観7年12月9日条に、甲斐国八代郡の浅間明神の祠を感謝に列し、祝・禰宜を置いて随時祭を行わせたとあるのが当社のことであるとされる。延喜の制では名神大社に列せられた。
ただし、『三代実録』の記事については、同じく『三代実録』同月20日条の山梨郡でも浅間明神を祀らせたという記事が当社のことであるとする説もある。また、八代郡の浅間明神祠・式内名神大社に、富士河口湖町の河口浅間神社もしくは市川三郷町の一宮浅間神社を当てる説もある。
中世には甲斐国一宮として崇敬を受けた。鎌倉時代には幕府の崇敬を受け、建久5年(1194)社殿の修復があったという。天文19年(1550)4月には後奈良天皇が国土安穏万民和楽のため、御宸筆の般若心経を奉納されている(国の重要文化財)。
武田氏も深く当社を崇敬し、武田信玄は天文19年(1550)一宮郷で20貫文の社領を寄進した。さらに弘治2年(1556)信濃国筑摩郡小松郷(松本市)の10貫文、元亀3年(1572)駿河国富士郡押出村の15貫文を寄進した。また、二宮・美和神社や三宮・玉諸神社、武田八幡宮などとともに府中八幡神社への参勤を免除されていた。
天正10年(1582)武田氏に変わって甲斐を領有した徳川家康も当社を保護し、200貫文の神領が安堵された。慶長8年(1603)四奉行黒印で社領234石2斗と神主屋敷分2,079坪が許され、さらに寛永19年(1642)徳川家光より234石2斗の朱印地を安堵された。
もっと読む





浅間神社(あさま~)は、山梨県笛吹市一宮町一ノ宮にある神社。式内論社(名神大)で、甲斐国一之宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。祭神は、木花開耶姫命。通称「一宮浅間神社」。
社伝によると、垂仁天皇8年(紀元前22年)に神山の麓(現・摂社山宮神社)で創建され、大山祇神、瓊瓊杵命、木花開耶姫命の3柱を祀っていたが、平安時代の865年に木花開耶姫命のみを現在地に遷座した。927年に編纂された『延喜式神名帳』に記載のある「甲斐国 八代郡 浅間神社 名神大」の論社となっているが、当社鎮座地が旧山梨郡であり、他にも論社がある。『日本三代実録』では、864年に富士山の大噴火があり、865年に甲斐国でも浅間神を祀るべく、甲斐国八代郡に浅間神社を建て官社とし、その後山梨郡においても浅間神社を建てたと記載されており、当社がどちらかに該当するものとして論争がある。中世以降は武田氏の崇敬が篤く、関連文書も多く残っており、この頃から一般にも甲斐国一之宮として崇敬されたと考えられている。江戸時代には幕府から朱印地を下賜され保護された。明治時代に入ると、近代社格制度において国幣中社に列格した。
当社は、JR中央本線・山梨市駅の南南東5kmの平地にある。国道20号線(甲州街道)から北に300mほど入った、まばらに住宅が集まる集落にある。国道そばに大鳥居はあるが、境内周辺には一之宮を感じさせる雰囲気はない。社殿は大きく立派だが、境内は1ha程度とそんなに広くはない。境内中あらゆる場所に見どころを詰め込んである感じ。七五三などの昇殿祈祷は人気があるみたい。
今回は一日甲府旅行の1社目、甲斐國式内社、甲斐國一之宮、旧国幣中社、別表神社であることから参拝することに。参拝時は週末の早朝で、神職の方々は掃除など準備に忙しそうにしていたが、参拝者は地元民風の人が数人いたぐらいだった。
もっと読む山梨県のおすすめ🎌
最新の限定御朱印情報が届く!
御朱印メルマガを受け取ろう
利用開始をもって利用規約・プライバシーポリシーに
同意したものとみなします。

ホトカミで困ったこと、不具合のご報告はこちらから
お問い合わせ
































































