かいのくにいちのみやあさまじんじゃ
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楽しみ方甲斐國一宮 浅間神社のお参りの記録一覧(4ページ目)

ひさびさに快晴だったので、思い立ってバス🚌で山梨へ行って来ました❣️
甲斐國一ノ宮浅間神社⛩大きな一ノ鳥居から快晴の空と山々が望めて素晴らしかったです(。・ω・。)

直書き御朱印拝受しました♪

一ノ鳥居
素晴らしい眺め❣️

鳥居⛩

隋神門

手水舎

拝殿


本殿

神楽殿

護国社

七社

祓門

十二支石像


稲荷神社

真貞社

神明社


塩山勝沼方面4ヶ所目最後に訪れたのが、
朝間神社です!
前回の厄年の時に、ご祈祷してもらった以来
久しぶりに来ました!
でもご祈祷だけだったので、ゆっくり見たのは
はじめてでした!
結構広く、見るところがありました!
次はもも祭りが夏にあるので、その時に限定御朱印でるので、その時に行く予定です

山宮神社の御朱印もいただきました‼️

書いていただきました‼️

入り口です。

十二支がいます❗私は猪年なので、
写真撮りました🎵


本堂です。

ここも入り口です❗

駐車場からの入り口です。

季節限定の御朱印です。

全国一の宮巡りの一つとしてお参り 中央道御坂一の宮インターから行きやすい場所でした。一の鳥居前からの眺めは開けていて気持ちよかったです。


季節限定 書き置きにて



手水舎も涼しげ 上には風鈴も


十二支お参り道


参拝後に社務所にて御朱印の対応が素敵でした。
また、通常の御朱印は2種類とも直書きをしていただきました。
また、書き置きもあります。
期間限定の桃まつりの御朱印も書き置きですがありました

社号標

社号標と鳥居と随神門

随神門

拝殿

通常版(直書き)

通常版(直書き)

書き置き(期間限定)

甲斐国一宮浅間神社は山梨県笛吹市一宮町一宮に鎮座している神社です。甲斐国一宮浅間神社の創建は垂仁天皇8年(紀元前90)に現在の山宮神社の境内付近に木花開耶姫命・大山祇命・瓊々杵命の3神が勧請されたのが始まりと伝えられています。社伝によると貞観6年(863)の富士山が大噴火し周辺が大きな被害を受けた為、、貞観7年(864)に噴火を鎮める為に木花開耶姫命の分霊を現在地に遷座し祀られるようになっています。
一方、三代実録によると噴火を鎮める為に、貞観7年(864)に伴直真貞を祝、伴秋吉を禰宜として遣わし、八代郡家以南に浅間明神(花開耶姫命の分霊)の祠が建立されました。しかし、中々噴火が収まらなかった為、同年に壮麗な社殿が造営されると治まった事から官社に列する事になり、さらに同年に山梨郡にも浅間明神の社殿が造営されています。
その為、延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳で名神大社として記載され後に甲斐国の一宮として格付けされている神社は山梨郡に境内を構えている当社の他、八代郡に鎮座している一宮浅間神社(山梨県西八代郡市川三郷町)、都留郡(旧八代郡の一部)に鎮座している河口浅間神社(山梨県南都留郡富士河口湖町)がそれぞれ自称しています。
ことの真偽は不詳ですが、当地は甲斐国府が近かった事から国の祭事などを司るようになると、歴代の為政者や領主に崇敬されるようになったと思われます。甲斐国府の正確な位置ははっきりしませんが、当社の周辺には甲斐国分寺跡や甲斐国分尼寺跡、甲斐奈神社(甲斐国総社)など当時の中心施設の史跡が点在し、地名「国衙」付近にあったという説があります。











今年の年始に参拝して以来の一宮参拝です笛吹市一宮町に鎮座する浅間神社は、富士山に対する信仰に始まり、駿河国や甲斐国を中心として各地に奉斎された浅間神社の一つ。甲斐国の一宮として崇敬され、一宮浅間神社、甲斐国一宮浅間神社などと通称される。
浅間を「せんげん」と読む神社が多いが、当社のように「あさま」とするのが本来の読み方である。「あさま」の語源については諸説あるが、長野県の浅間山のように火山を意味するのではないかと考えられている。
社伝によれば、垂仁天皇8年(B.C.22)に神山の麓、摂社・山宮神社の地(笛吹市一宮町一ノ宮1133)に鎮斎されたという。
貞観6年(864)富士山の大噴火があり、翌貞観7年(865)12月9日現社地に遷座した。『日本三代実録』貞観7年12月9日条に、甲斐国八代郡の浅間明神の祠を感謝に列し、祝・禰宜を置いて随時祭を行わせたとあるのが当社のことであるとされる。延喜の制では名神大社に列せられた。
ただし、『三代実録』の記事については、同じく『三代実録』同月20日条の山梨郡でも浅間明神を祀らせたという記事が当社のことであるとする説もある。また、八代郡の浅間明神祠・式内名神大社に、富士河口湖町の河口浅間神社もしくは市川三郷町の一宮浅間神社を当てる説もある。
中世には甲斐国一宮として崇敬を受けた。鎌倉時代には幕府の崇敬を受け、建久5年(1194)社殿の修復があったという。天文19年(1550)4月には後奈良天皇が国土安穏万民和楽のため、御宸筆の般若心経を奉納されている(国の重要文化財)。
武田氏も深く当社を崇敬し、武田信玄は天文19年(1550)一宮郷で20貫文の社領を寄進した。さらに弘治2年(1556)信濃国筑摩郡小松郷(松本市)の10貫文、元亀3年(1572)駿河国富士郡押出村の15貫文を寄進した。また、二宮・美和神社や三宮・玉諸神社、武田八幡宮などとともに府中八幡神社への参勤を免除されていた。
天正10年(1582)武田氏に変わって甲斐を領有した徳川家康も当社を保護し、200貫文の神領が安堵された。慶長8年(1603)四奉行黒印で社領234石2斗と神主屋敷分2,079坪が許され、さらに寛永19年(1642)徳川家光より234石2斗の朱印地を安堵された。









































甲州街道沿いに巨大な鳥居。
辺りは一面ぶどう農園。


きれいな手水


十二支参り。今年と自分の干支。

時々見かけるおみくじ。これで一年安鯛。

山梨県のおすすめ❄️
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