ぞうじょうじ|浄土宗| 三縁山
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今回は、当日向かう電車の中で、五木寛之先生の百寺巡礼「増上寺」の項を読んでいたので、予備知識はバッチリであった。
五木寛之先生は、増上寺についての歴史を87世法主の寺内大吉先生(直木賞作家でもある)に直接お伺いして執筆された。
三縁山広度院増上寺が正式な名称だ。三縁山の山号は、「親縁・近縁・増上縁を明かす」という唐の僧、善導の教えに基づいているという。善導は、浄土宗を大成した人物として知られ、その教えは日本における浄土宗の開祖・法然に大きな影響を与えた。もちろん、増上寺は浄土宗のお寺である。
江戸時代、この門は一般の参詣者に開放されていて、人々はここに登って東海道を見下ろし、更には品川沖やお台場までも眺めて楽しんだという。あの黒船来航の時も、初めて目にする巨大な船をここから観察していたらしい。
酉誉聖聰(ゆうよしょうそう)上人によって、江戸貝塚(現在の千代田区平河町付近)の地に、浄土宗正統根本念仏道場として創建された。聖聰は、地元の有力者の支援を受けて、関東に念仏を広めていったのである。
こうして関東一円の民衆の間に、浄土宗は浸透していった。そして、その中心に増上寺はあった。そうすると、家康が江戸に入ると同時に増上寺を菩提寺としたのは、念仏を信じる人びとの共感を得る為であったと考えられそうだ。
これから江戸を本拠地にして関東を支配しようとしていた家康は、増上寺の影響力をおおいに活用できるはずだ、と踏んだのではあるまいか。
家康の江戸城入りが、民衆にすぐに受けいらられたとは言い難い。それどころか、新しく支配者になった徳川家康に対する反感が募っていた節もあったらしい。
だから、家康は最初に江戸に入った時、荒れ果てた江戸城の改修よりも、まず町づくりに力を入れたとされる。しかも、その町づくりは反徳川色の強い江戸の内部には手をつけず、海面を埋め立て、新しい町を作り出すことでなされた。
現在の霞が関、丸の内、新橋、日本橋などの原型は、この時に作られたという。つまり、まず家康は、江戸城に出入りする武士と、その生活を支える最小限の商工業者が住む町を、土地を埋め立てることで一から作りだしたのだ。
更に、家康は町民感情をなだめるために、古い寺社を保存した。また、そればかりでなく、増上寺のみならず、当時の多くの寺は、庶民の日常生活と密接に結びついていたからだ。
家康は、庶民の信仰を統一しようとしたり、コントロールしようとはしなかった。キリスト教徒こそ厳しく弾圧したが、その他の信仰については誰がどんな宗教を信じようと自由であるとした。いわば、多神教、多仏教的な方針が守られたのである。
法然が熱烈に説いたのは「念仏」として、その目に見えない大きな生命力を実感する事、この世の闇を照らす光に触れることだったのではないか。(五木寛之先生の考え)
京都から新しい都、東京に移った明治天皇は、真っ先に増上寺を勅願時とした。
徳川家の菩提寺だった寺だというのに不思議な気がするが、ひょっとすると明治天皇も、江戸に入った時の徳川家康と同じように、人心掌握の為に増上寺を味方につけたかったのかもしれない。
けれども、その増上寺でも明治の神仏分離令の動きから逃れることは出来なかったようだ。廃仏毀釈の結果、僧侶たちが神主のような袴をはくようになった。それまで僧侶は墨染の衣をまとうものとされていたが、明治以降は白い着物を強いられたのである。
浄土への往生を約束し、民衆の信仰を集め続けた寺も、時代の波に大きく翻弄されたのだ。
ここまでは、五木寛之先生の素晴らしい文章を引用させていただいた。
とにかく、素晴らしいお寺であった。
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