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かんだじんじゃ(かんだみょうじん)

神田神社(神田明神)のお参りの記録一覧(7ページ目)
東京都 末広町駅

malice
2022年10月04日(火)
477投稿

妻恋神社様からさらに下って神田明神様へ😊
こちらは1年ぶりにお参りに来ました。

前回、来たときに素敵な猫の柄の手ぬぐいが沢山あって悩んだ挙げ句買わずに帰宅。
今回はゲットして帰ろうと思っていたら猫柄がありませんでした😢

神田神社(神田明神)(東京都)

☆隨神門☆

昭和50年に昭和天皇御即位50年の記念事業として新たに再建。総檜・入母屋造。二層建て・屋根は銅板瓦棒葺。各所に配した文様は伝統的なテーマをもとにしつつ、オリジナルなデザインを使用。外回りには四神(朱雀・白虎・青龍・玄武)、内側には「因幡の白兎」など、だいこく様の神話をモチーフにした彫刻を飾っている。また二層目に金箔をほどこした「繋馬」の彫刻が飾られているが、この繋馬は平将門公に由来する。その後、平成10年の『平成の御造替事業』によって、鮮やかに塗替えられた。外側正面に隨神像を配し、右は豊磐間戸神、左は櫛磐間戸神を安置。この像は熊本城域内の樹齢500年の楠で、加藤清正公お手植えと伝えられているものを使用している。一木造。長崎平和祈念像制作者として有名な北村西望氏の監修による。松下幸之助氏奉納。内側には、神馬一対を配している。氏子総代·遠藤達藏氏により奉献。

神田神社(神田明神)(東京都)

☆手水舎☆

神田神社(神田明神)の像

☆大黒様尊像☆

昭和51年完成。高さ6,6メートル重さ約30トンで石造りとしては日本一のだいこく像として建立された。
隨神門を入り左側にいらっしゃいます😊

神田神社(神田明神)の狛犬

☆狛犬様☆

昭和8年5月、氏子有志により奉献された。
狛犬は、神社の守護役あるいは神さまの使いとして、邪気を払う役割を持つ存在。向って左側の一角獣を「狛犬」、右側を「獅子」と言いますが、両方あわせて「狛犬」というのが一般的である。
当社の狛犬は、正面を向いているという非常に珍しいもので、造形については、動物彫刻を得意とした池田勇八が原型を作成しているので、よりリアルで精悍な表情をしています。

神田神社(神田明神)の本殿

☆御社殿(国登録有形文化財)☆

昭和9年に竣功。権現造。当時としては画期的な鉄骨鉄筋コンクリート·総朱漆塗の社殿。本殿·幣殿·拝殿さらに神饌所·宝庫が重なり合うように造られており、昭和初期の神社建築では新しい形式をもつ。

伊東忠太·大江新太郎·佐藤功一といった近代神社建築·都市建築を代表する建築家により設計された。小屋組を鉄骨にして荷重を軽減し、柱間を少し狭めるなどして木造建築の姿に近づけ、鉄骨鉄筋コンクリート造ということを感じさせない工夫が施されている。

拝殿の手前を土間にし、その先を畳敷きの床にすることによって、参拝者が靴を履いたまま立って拝礼できるとともに、神職が床において祭式を行うこともできるという、現代社会に対応した構造が、昭和初期の段階で採り入れられている。 昭和20年の東京大空襲にも耐え抜いた。

平成元年に、参拝者の増加に伴い、本殿右脇にエアコン完備の「奥御殿」を造営。さらに、平成の御造替事業(平成6年〜11年)により、全面的に塗替·修復が行われ美しくよみがえった。

江戸開府四〇〇年記念の年·平成15年9月、国登録有形文化財に登録。

現社殿の前は、天明2年に江戸幕府によって造営された。木造で権現造·総朱漆塗。江戸時代後期の神社建築を代表する社殿であったと言われている。社殿内には江戸幕府造営を象徴する徳川将軍家の葵の御紋が見える。

神田神社(神田明神)(東京都)

☆獅子山(千代田区指定有形民俗文化財)☆

獅子山に乗る石獅子は武州下野の名工石切藤兵衛(別名・油売藤兵衛)が生涯でわずか3つしか造らなかったものの中の1つと伝えられ、3つの獅子は「坂東三獅子」として有名であった。能の出し物『石橋(しゃっきょう)』にちなみ、親獅子が子獅子を谷底に突き落とし、はいあがってきた子をはじめて我が子とするという内容を造形化したもの。今日では、かわいい我が子に厳しい試練を与えるたとえとして知られている。

石獅子 夫婦2頭
千代田区指定有形民俗文化財(平成3年4月1日指定)
本石獅子は、区内に残る数少ない江戸期の石造物の一つであり、当時の庶民の信仰を知る上で貴重な資料である。
斎藤月岑·編『武江年表』には「文久2年(1862年)11月両替屋仲間より神田社前へ、岩石を積み、石にて刻みし獅子の子落としの作り物を納む」とあり、江戸時代でも幕末期に製作されたと考えられる。
かつては神社境内参道の両脇に岩組の石獅子として据えられていたが、関東大震災により崩壊し子獅子を紛失、親獅子2頭を保存していたが、今上天皇陛下ご即位を奉祝し子獅子を新調し新たに「獅子山」として建立されました。

神田神社(神田明神)(東京都)

☆末社·魚河岸水神社☆
御祭神-水神、弥都波能売命(みつはのめのみこと)
日本橋に魚市場があったころに徳川家の武運長久と大漁安全を祈願するため市場の守護神·大市場交易神として神田明神境内に祀られたが、明治6年(1873年)9月に当時の魚市場内(日本橋長浜町2丁目4番地、現在の日本橋室町1丁目、本町1丁目周辺)に鎮座していた常磐稲荷神社の合殿に祀られた。明治24年(1891年)に社名を魚河岸水神社と改め、更に明治34年(1901年)9月、再び神田明神境内に遷座し末社として祀られ、盛大に水神祭が執り行われた。
市場が日本橋より築地に移り築地魚市場(東京都中央卸売市場築地市場)に移転した後、市場内に当社の遙拝所が建立され、現在も築地魚河岸会の方々を中心に神事が執り行われています。

神田神社(神田明神)(東京都)

☆小舟町八雲神社の狛犬様☆

神田神社(神田明神)(東京都)

☆小舟町八雲神社(千代田区指定有形民俗文化財)☆

御祭神 - 建速須佐之男命
小舟町八雲神社鉄製天水桶 一対
千代田区指定有形民俗文化財(平成17年4月1日指定)
この天水桶は、地上の高さ1,4メートルほどになる一対のもの。なお、四角形の基壇と台座は石製。
銘文によれば、天水桶の奉納者は、江戸の魚問屋中に属する商人·遠州屋新兵衛他十名で、塩干肴や乾物などの流通を担った商人のことで、日本橋にあった魚市場の界隈に軒を並べて商いをしていた。
鋳造したのは、江戸深川上大島町(江東区大島)の鋳物師·大田近江大掾藤原正次(釜屋六右衛門、通称、釜八)。釜屋六右衛門家は、11代続いた御用鋳物師の家系で、初代六右衛門は近江国栗太郡辻村(滋賀県栗東市辻)から寛永17年(1640年)に出府している。当初は芝に居を構えていたが、万治元年(1658年)に大島村に転居した。梵鐘、天水桶、茶釜、鍋、釜などを製造していたが、明治維新後に廃業。
鳥居を入って左側の天水桶は、安政4年(1857年)に再建されたもので、右側の銘文をもとに鋳造したもの。

神田神社(神田明神)(東京都)

☆大伝馬町八雲神社(千代田区指定有形民俗文化財)☆

御祭神 - 建速須佐之男命
大伝馬町八雲神社鉄製天水桶 一対
千代田区指定有形民俗文化財(平成16年4月1日指定)
この天水桶は、地上からの高さが1,4メートルほどになる一対のものである。寸法は高さ76,7cm、口縁部の周囲287,3cm、口縁部の内径82,5cm。八角形の基壇と四角形の台座は石製で、天水桶は鋳鉄製である。天水桶の口縁には「巴」が連続する文様が見られ、また台座は蓮弁を模した形にするなど、装飾も施されています。
銘文によれば、この天水桶は、江戸深川上大島町(江東区大島)在住の御鋳物師(いもじ)である大田近江掾藤原正次(釜屋六右衛門、通称、釜六)が作成したもので、江戸の問屋仲間の一つ太物問屋仲間が天保10年(1839)6月に奉納したものです。太物問屋とは、反物などの流通を一手に扱う商人のことで、江戸でも日本橋界隈を中心に軒を並べていました。
大伝馬町八雲神社の運営費用は、最初は、宮元である大伝馬町が伝馬入用から賄っていましたが、後に太物問屋仲間が賄うようになります。そのため天水桶には大伝馬町の名と共に太物問屋仲間の名前が刻まれている。

神田神社(神田明神)(東京都)

左 ☆角田竹冷の句碑☆

角田竹冷大正9年(1920年)頃に建立された碑で、

白うをや はばかりながら 江戸の水

という俳人·角田竹冷の俳句が刻まれている。

意味は、
白魚もとれる神田川の水は、恐れおおくも、その昔将軍さまのお茶の水にも召されたという江戸一番の名水である。

角田竹冷(1858年〜1919年)は、本名を真平といい、代言人(今の弁護士)をつとめるかたわら、俳人としても名の知れた人物。尾崎紅葉らとともに秋声会を結成し正岡子規の日本派と並んで俳句革新運動を展開。また、旧神田区(千代田区の一部)の初代区会議長・衆議院議員を務めるなど政治家としてもその手腕を発揮した。

☆力石(大盤石)☆

力石とは、若者たちが「力くらべ」に使った2〜30貫くらいの石のことで全国各地の神社仏閣などにあった。神田明神の力石は直径80cm・短径67cm で、文政5年(1822年)12月に神田仲町2丁目の柴田四郎右衛門が持ち上げたものである。江戸東京の若者たちの生活・娯楽を垣間見れる資料。平成3年4月1日、文化財に指定。

神田神社(神田明神)(東京都)

☆江戸神社☆

大宝2年(702年)に江戸の地·現在の皇居内に創建、江戸最古の地主神として今もなお崇敬されている。慶長8年(1603年)に神田明神が仮遷座した時に神田駿河台の地に移り、その後、元和2年(1616年)に神田明神が現社地に遷座するとともに江戸神社も現社地に移った。江戸重長公や太田道灌公ら関東の武将たち信仰され、江戸時代になると南伝馬町を中心とした人々により信仰されたところから「南伝馬町持天王」「天王一の宮」などと称された。
慶長10年6月7日に初めて神輿渡御が行われ、以後「天王祭」として、神田明神より南伝馬町の御旅所まで神輿が渡御し、途中、江戸城大手橋に神輿を据えて神事も行われた。
明治元年(1868年)に神社名を「須賀神社」に改めた。同18年2月の火災により社殿を焼失、神田明神に仮遷座した。その時に社名を今の名称である「江戸神社」に三度改めた。
平成元年5月、今上天皇陛下ご即位を記念し江戸神社奉賛会の人々により、神田市場移転により市場内に鎮座していた江戸神社の神霊を神田明神へ仮遷座し、翌12月に神輿庫を改修して、千貫神輿(昭和33年、鹿野喜平·作)を奉安し社殿として正式に鎮座し現在に至っている。今も江戸神社奉賛会の人々により崇敬されている。
2年に一度の神田祭の時に、江戸神社千貫神輿が宮入している。

神田神社(神田明神)(東京都)

☆三宿稲荷神社·金刀比羅大神☆

三宿神社ご祭神 - 宇迦之御魂神 
金刀比羅神社ご祭神 - 大物主神、金山彦命、天御中主命

末社 三宿稲荷神社
創建年は不詳。江戸時代より神田三河町二丁目(他に皆川町、蝋燭町、旭町の一部が合併され、昭和10年に司町一丁目と改称。さらに昭和41年より内神田1,2丁目の一部に編入される)の守護神として信仰されていた。その後、当社12代神主·芝崎美作守の邸内に祀られていた内山稲荷と合祀され、当社の末社として奉斎された。現在の社殿は、昭和41年10月7日に再建され、金刀羅大神と共に御鎮座された。

末社 金刀比羅神社
天明3年(1783年)に、武蔵国豊島郡薬研堀(現在の東日本橋二丁目両国町会)に創建された。江戸時代には、神祇泊白川家の配下となり、祭祀が斎行されていたが、明治6年(1873年)7月に村社に定められた。かついては隅田川の船人たちの守護神として信仰され、その後、町の発展と共に商家、特に飲食業や遊芸を職とする人々の厚い信仰を集めた。
昭和41年10月7日、両国より神田明神境内に遷座し、三宿稲荷神社とともに御鎮座された。

神田神社(神田明神)(東京都)

☆末廣稲荷神社☆

御祭神 - 宇迦之御魂神
宇迦之御魂神、級長戸辺之命、級長津彦之命を祀っていた旧社で元和2年の頃の社で極めて古く、昔から庶民信仰が強かった。
現社殿は昭和41年に再建された。

神田神社(神田明神)(東京都)

☆合祀殿の狛犬様☆
パッチリおめめです😄

神田神社(神田明神)(東京都)

☆合祀殿☆

平成24年に旧·籠祖神社社地に建立。
籠祖神社(猿田彦神、塩土老翁神)をはじめ、神田明神本殿に合祀されていた八幡神社(誉田別命)や富士神社(木花咲く耶姫命)、天神社(菅原道真命、柿本人麻呂命)、大鳥神社(日本武尊)、天祖神社(天照大御神)、諏訪神社(建御名方神)を合祀している。

神田神社(神田明神)の末社

☆祖霊社☆

神田明神を尊崇なさった氏子·崇敬者の先祖をお祀りするお社。平成16年に創建。

神田神社(神田明神)の建物その他

☆銭形平次碑☆

野村胡堂(1882年〜1963年)の名作『銭形平次捕物控』の主人公、平次親分が神田明神下台所町の長屋に恋女房お静と2人で住み明神界隈を舞台に活躍していたことから、昭和45年に日本作家クラブが発起人となり碑を建立した。胡堂の『捕物控』は昭和6年『文藝春秋オール読物』に第1作「金色の処女」が発表されて以来、27年間で383編にもおよんだ。神田明神から明神下を見守る場所に建てられ、隣には子分·がらっ八の小さな碑もあります。

神田神社(神田明神)(東京都)

☆神馬·あかりちゃんの家☆
本名はあかりちゃんではないそうです

神田神社(神田明神)(東京都)

あかりちゃん(本名わすれました💦)

神田神社(神田明神)(東京都)

アニメグッズいっぱいです😄
文化交流館(お土産屋)の地下でライブやってました。アニメスタンプも設置されてましたよ〜😄

神田神社(神田明神)の御朱印

通年御朱印

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