やまみやせんげんじんじゃ
山宮浅間神社のお参りの記録一覧
原初の祈りを残す場所です。地元の方々の努力と献身あって、参道や拝殿が整えられておりますが、その奥にある富士山遥拝所のあり方はまさに日本の原風景そのもの、アニミズムを感じます。そこでどのような祭祀が行われていたのか、わたしたちは想像することしかできないけれど、人が神を尊び、そんな人を神も尊んできのだという歴史がしかと感じられる、とても優しい場所です。
遥拝所は富士山から流れ出た溶岩石で囲われており、そこもまた愛おしい。
神社の立ち位置的には、富士山本宮浅間大社の元宮ということで、かつては両者の間を御神体が移動する神幸祭が行われていたといいます(詳しくは富士宮市ホームページをご参照)。御神体が宿った鉾を乗せていたという石が両神社にございますので、参拝の際はぜひご覧ください。
最後に、当日たまたま居合わせたガイドさんからお聞きした興味深いお話をご紹介させていただきます。
かつて、この神社を愛する地元の方々が本殿を作ろうと資金を出し合い、いざ建設だと張り切ったところ、台風の被害に遭って叶わなくなったといいます。それでもあきらめず再び建設しようとしたところ、また暴風雨に遭い、それが何度も続いたのち、今度は畑や田んぼにまで被害がでたことから、とうとう本殿の建設を取りやめたのだとか。以来今日に至るまで山宮浅間神社に本殿はなく、遥拝所から直接富士山を拝める形となっております。
真偽の確かめようのない言い伝えではありますが、個人的にはなんとも興味深い話で、神々の意思を感じさせる出来事だなあと胸を打たれました。
澄み渡る空の心地よく、優しい風が吹く場所です。
ぜひ訪れてみてください。
【山宮浅間神社(やまみやせんげんじんじゃ)】
~富士山世界遺産構成資産(神社:3/8)~
山宮浅間神社は、富士山本宮浅間大社の元宮で通称山宮と呼ばれている。第12代景行(けいこう)天皇(在位:71-130)の御代、皇子の日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征の折、駿河国で賊の攻撃に遭われた際、陣中で富士の神(浅間大神)を祈念され無事、災難を免れたという。日本武尊は深く富士の神の恩恵を感謝され神霊をこの山宮に祀られたと伝えられている。
境内は社殿がなく、富士山そのものを神と拝むための遥拝所があり、古代からの富士山祭祀(さいし)の形が今も残っている。
ー祭神ー
①木花之佐久夜毘売命(このはなのさくやひめのみこと)(別称:浅間大神(あさまのおおかみ))…大山津見神(大山祇神)の御息女で大変美しく、天照大御神の孫神の邇邇芸命(瓊々杵尊)の皇后となる。神徳:縁結び・安産子育。
【遥拝所】
【世界遺産】
3/25 山宮浅間神社。
【鳥居】
【青面金剛と観音像】
【道祖神】
【鳥居】
【石碑】
【参道】
【手水舎】
【籠屋】
【参道(鉾立石)】
かつて、浅間大社の春秋の大祭前日に、浅間大社の祭神が山宮を訪れる「山宮御神幸(やまみやごしんこう)」が行われていた。山宮御神幸は、未の刻(午後2時)に本宮で神事が始まり、神のやどる鉾を木の行事という役職の人が左肩に載せ、途中肩を替えることなく山宮へ向かう。山宮まで何回か休むので、鉾は御休石(おやすみいし)の上に榊(さかき)を敷き、その上に安置した。御休石は、鉾立石(ほこたていし)と呼ばれ、道筋に幾つかあったといわれるが、現在では、浅間大社楼門前に一つ、山宮浅間神社参道に二つ残るだけである。
【遥拝所へ上がる階段】
【遥拝所】
山宮浅間神社には、本殿があるはずの所に、石が並べてあるだけで建物がない。過去には、「神社に神様を祀る建物がないのはおかしい。」と、何度も本殿を建てようとしたが、その度に大風に吹き倒されてしまい、村人は、「これはきっと神の祟りだ。」と思うようになった。それ以後、「山宮浅間神社に本殿を造ろうすると風の神の祟りがあるので、本殿を造ってはいけない。」といわれるようになったという。
【遥拝所から帰りの景色】
【山宮浅間神社】
書き置きの御朱印(籠屋)
実家に帰っていたのですが、今朝起きたら雲がなく、空気が澄んでいたので、近くの山宮浅間神社に。
朝7時台でしたが、参拝されている方もいました。
気温は車の温度計で−3°
寒かったですが、前回は肉眼で見てあった富士山が、撮影しても映らず…という不思議な現象が起きていましたが、今回は撮影できました☆
御朱印は、案内所が開く前の為、書き置き。
以前は日付が入っていましたが、今回は未記入でした。
小学生の頃、一番古い浅間神社と聞いたような記憶があります。
本殿が富士山の神社、実家に帰って早起きしたらまた伺います。
少しzoomしたら撮影できていた富士山①
少しzoomしたら撮影できていた富士山②
普通に撮影すると、前回同様…
御朱印
浅間神社めぐりバスツアー4社目
鳥居をくぐり、灯篭が続く参道を歩いているときから、なにやら特別な空気を感じました。
籠屋を通り、さらに歩くと、鉾立石なるものが。
御幸行の途中休憩するとき、鉾を立てて置く石だそうです。
もともとはもっとあったそうですが、ここに2個と、浅間大社に1個残ってるだけだそうです。
で、遥拝所に、
ほんとに御社はなく、富士山が木の間から見ることができます。
本来はこういう形だったのだなあ、と。
過去なんどか拝殿を建てようとされたそうですが、その度に嵐がきたりしたそうで、
神様が要らないとおっしゃっているということで、今の形がそのまま残っているそうです。
自分だけだったらなかなかこういうところにはこれないので、コースにいれていただいてありがたいです。
御朱印は籠屋に書置きが置いてあり、それをいただきました。
(初穂料は入れる箱がありました)
日付は自分で書き入れるようになっていました(まだ入れてない・・・)
山宮浅間神社は、『信仰の対象』としての富士山の顕著な普遍的価値を証明する上で不可欠の構成資産である。
富士山本宮浅間大社の社伝によれば、山宮浅間神社は富士山本宮浅間大社の前身であるとされている。
山宮浅間神社では、本殿に相当する建築が参道の終端付近に存在せず、富士山の方向に展望の軸を合わせた位置に祭壇又は石列の区画から成る遥拝所を設けるなど、独特の境内の地割が見られる。
このような地割は、富士山に対する遥拝を主軸とする古式の祭祀の在り方を示しているものと推定されている。
また、遥拝所の位置は、約2,000年前の溶岩流の末端部に当たり、植生の回復が遅かったものと考えられる。
そこは、社叢に覆われた参道より約10mも高く溶岩流が露出する地形となっており、富士山に対する眺望も良好であったことから、遥拝を祭祀の主軸とする山宮浅間神社の適地とみなされたものと考えられている。
社伝によると、山宮浅間神社が現在の地に設けられたのは古く日本神話の時代であったとするが、その正確な年代は不詳である。
境内における発掘調査の成果によると、神事に使用されたものと推定される12~15世紀の土器が複数片出土しているほか、歴史資料によると1551年には神社の存在したことが確認できる。
また、1577年の『冨士大宮御神事帳』にも山宮浅間神社に関する記述が見られ、遅くとも16世紀後半までには、富士山本宮浅間大社と山宮浅間神社との間において、「山宮御神幸」と呼ぶ浅間大神の渡御に係る儀式が始められていたものと考えられている。
この儀式は、毎年4月及び11月に、浅間大神の宿った鉾を持つ富士山本宮浅間大社の神職らが、富士山本宮浅間大社と山宮浅間神社との間を往復する神事であった。
富士山本宮浅間大社及び山宮浅間神社の境内には、そのような神事に際して浅間大神を休めるために鉾を立てた「鉾立石」と呼ばれる基礎の石が計3基残されている。
また、神職らの着席位置を示す遥拝所の石列、境内唯一の建築物である籠屋も、かつての神事において重要な役割を果たした施設である。
この神事は1874年まで継続的に行われていたが、現在では行われていない。
前回は参拝できなかった山宮浅間神社です。⛩富士山🗻そのものが御神体で正面にみる富士山は神秘的な空気を感じました🗻🙏🏻
手前の社務所で参拝。
階段を上がったところに遥拝所があります。
奥には入れませんでした。厳粛な雰囲気があります。
書き置きを頂きました。
目標にしていた1000投稿にようやく到達しました😊節目は浅間神社の中でも特別な山宮浅間神社を選びました🗻⛩
浅間大神が最初に祀られた「山足の地」は、特定の地名を指すのではなく、富士山麓の適所を選んで祭祀を行った事を示すと考えられています。特定の場所に祀られるようになったのは、山宮(現在の鎮座地より北方約6キロ)にお祀りされてから後のことです。山宮は社殿が無く古木・磐境を通して富士山を直接お祀りする古代祭祀の原初形態を残す神社で、祭祀形態の変化をうかがい知ることが出来ます。
社記によれば、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国の夷(えびす=賊徒)を征伐するため駿河国(するがのくに)を通られた際、賊徒の野火(野原で四方から火をつけ攻められること)に遭われました。尊は、富士浅間大神を祈念して窮地を脱し、その賊徒を征伐されました。その後、尊は山宮において篤く浅間大神を祀られたと伝えられています。
富士山本宮浅間大社の社伝によれば、山宮浅間神社は富士山本宮浅間大社の前身であるとされている。
山宮浅間神社では、本殿に相当する建築が参道の終端付近に存在せず、富士山の方向に展望の軸を合わせた位置に祭壇又は石列の区画から成る遥拝所を設けるなど、独特の境内の地割が見られる。
このような地割は、富士山に対する遥拝を主軸とする古式の祭祀の在り方を示しているものと推定されている。
また、遥拝所の位置は、約2,000年前の溶岩流の末端部に当たり、植生の回復が遅かったものと考えられる。
そこは、社叢に覆われた参道より約10mも高く溶岩流が露出する地形となっており、富士山に対する眺望も良好であったことから、遥拝を祭祀の主軸とする山宮浅間神社の適地とみなされたものと考えられている。
社伝によると、山宮浅間神社が現在の地に設けられたのは古く日本神話の時代であったとするが、その正確な年代は不詳である。
境内における発掘調査の成果によると、神事に使用されたものと推定される12~15世紀の土器が複数片出土しているほか、歴史資料によると1551年には神社の存在したことが確認できる。
また、1577年の『冨士大宮御神事帳』にも山宮浅間神社に関する記述が見られ、遅くとも16世紀後半までには、富士山本宮浅間大社と山宮浅間神社との間において、「山宮御神幸」と呼ぶ浅間大神の渡御に係る儀式が始められていたものと考えられている。
この儀式は、毎年4月及び11月に、浅間大神の宿った鉾を持つ富士山本宮浅間大社の神職らが、富士山本宮浅間大社と山宮浅間神社との間を往復する神事であった。
富士山本宮浅間大社及び山宮浅間神社の境内には、そのような神事に際して浅間大神を休めるために鉾を立てた「鉾立石」と呼ばれる基礎の石が計3基残されている。
また、神職らの着席位置を示す遥拝所の石列、境内唯一の建築物である籠屋も、かつての神事において重要な役割を果たした施設である。
この神事は1874年まで継続的に行われていたが、現在では行われていない。
なお、「山宮御神幸」に使用された行路を「御神幸道」と呼び、その沿道には1691年に距離を表示するための一群の石碑が建立された。
現在、「御神幸道」の全体の正確な行路については明確でないが、出発点である富士山本宮浅間大社境内に残された御神幸道の首標以外に、沿道に当たる4箇所に石碑が残されている。
遥拝所は長方形の玉垣に囲まれています。
玉垣の中は石列で区分されたいくつかの遥拝所が設置されているそうです。
このような特異な形態は、富士山を神と考え、山体を直接拝む古代からの富士山祭祀の形を留めていると推定されています。
ここから富士山を直接拝んだとされているだけあり、玉垣の上には天気が良く雲が無い日は大きく富士山を仰ぐことができます。
境内に社殿がない、山宮浅間神社。何度か社殿を建てようとしたらしいのですが、その度に大風の被害に合い、建設することを断念したそうです。
本宮浅間神社の起源となった、最も古い歴史を持つ山宮浅間神社の遥拝所から仰ぐ富士山が富士山のパワーを1番感じることができる私のイチオシのスポットです😊
みなさんの投稿拝読して参拝してみたい寺社が山ほどあります、これからも無口でマイペースに愉しみたいと思います🙇♂️いつも、コメントやステキをいただき感謝です✨
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