ほうごんじ|真言宗豊山派|巌金山
宝厳寺滋賀県 マキノ駅
9:00~16:30
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楽しみ方御朱印は、各純白帳の分の朱印(100円の初穂料)
大弁財天御朱印
千手千眼観世音菩薩の御朱印
御詠歌の御朱印 の三つがあり〼

西国三十三霊場巡りで竹生島に訪れました。高校生の時に遊びで来て以来です。
船に乗ってお参りというのは初めてで とても楽しみにしていました。
もちろん船には出航予定があるのですが 少し早く着いて のんびり待ちました。
船に乗っている時間は20分ぐらいだったと思うのですが あっという間でした。
竹生島は信仰の島として有名ですが 小さな島には 本当にお寺と神社しかありません。
境内は見事に立体的で 三段に分かれています。
観音堂は一番下。本堂は二段目。三重塔が三段目です。
宝物殿もありましたがもちろん撮影禁止です。
本堂もとても立派な建物ですが 個人的には観音堂と唐門が好きになりました。
唐門は国宝にも指定されていて 観音堂は重要文化財に指定されていました。
崖ぎりぎりに建っているため 写真で全景を収めることができませんでした。
とても広いとは言えない境内ですが 階段が楽ではないのでまあまあ時間がかかりました。
しかし昔の人はすごいです。こんな小島に こんなにも立派な寺院を建立したのですから。
山寺でもそうですが 現代でも重機を使ったとしても相当な月数を要する建築を どうやったのかタイムマシンでその様子を見てみたいものです。
暑い暑いと言いながらですが とてもすがすがしい気持ちになりました。
またお参りしたと思います。
山号は巌金山 宗旨宗派は真言宗豊山派 ご本尊は大弁才天 創建年は伝・神亀元年(724年) 開山は伝・行基 開基は伝・聖武天皇(勅願)です。
由緒については
宝厳寺は奈良時代 僧・行基が開創したとされている。
行基は出身地の河内国(現・大阪府東部)を中心に多くの寺を建て 架橋 治水灌漑などの社会事業にも尽くし 民衆の絶大な支持を得ていたとされる僧であり 近畿一円に行基開創を伝える寺院は多い。
宝厳寺の寺伝によれば 神亀元年(724年) 聖武天皇の勅願によって行基が浅井姫命を祭神とする都久夫須麻神社がある竹生島を訪れ 大弁才天を祀ったのが起源とされている。
しかし 承平元年(931年)成立の『竹生島縁起』には 行基の来島は天平10年(738年)で 小堂を建てて四天王を祀ったのが始まりという。
同縁起によれば 天平勝宝5年(753年) 近江国浅井郡大領の浅井直馬養(あざいのあたいうまかい)という人物が 千手観音を造立して安置したとある。
当初は寺名を本業寺(ほんごうじ)といい 東大寺の支配下にあったが 平安時代前期 10世紀頃から近江国の他の多くの寺院同様 比叡山延暦寺の傘下に入り 天台寺院となった。
以降 島は天台宗の僧の修行の場となった。
とありました。
おや?真言宗では?
空海がやってきて改宗されるパターンかと思うのですが。
船乗り場
島に到着
こんな船で
石柱
まずは大きな鳥居
二の鳥居に宝厳寺の石柱
瑞祥水の手水
井戸
やはり 龍
観音堂へ続く道
読めない 菩薩様
唐門
彩色がきれいです
観音堂内陣
観音堂内陣 写せるぎりぎり
修業大師像
本堂に続く石段に石柱
まあまあ上ります
鐘楼
手水
ここも 龍
天狗堂
本堂
不動明王
本堂
内陣
内陣
内陣
弁財天社
三龍善神 とありました
さらに上へ
三重塔
雨宝堂
西国三十三所観世音奉安殿
内陣
内陣
楽寿観世音菩薩
ぼけ封じをお願いしました
唐門を見下ろして
本坊
竹生島神社へ続く回廊
唐門から見て
琵琶湖の北端近くに浮かぶ竹生島に位置する。
竹生島は周囲2キロメートル、面積0.14平方キロメートルほどの小島で。
島の周囲は南東部にある船着き場を除いてほとんどが急な断崖になっている。
島には宝厳寺と都久夫須麻神社の他にはみやげ物店が数軒あるだけで、
文字通り信仰の島である。現在は宝厳寺と都久夫須麻神社
という「寺」と「神社」に分かれているが、このように区別されるようになったのは、
明治時代初期の神仏分離令以降の事であり、竹生島では平安時代から近世まで
神仏習合の信仰が行われていた。
延喜式神名帳には、近江国浅井郡の社として都久夫須麻神社の名があり、
祭神は浅井姫命(あざいひめのみこと)とされていた。
浅井姫命は、浅井氏の氏神ともいわれ、湖水を支配する神ともいわれるが、
平安時代末期頃から、この神は仏教の弁才天(元来はインド起源の河神)と
同一視されるようになったようである。
近世には宝厳寺は観音と弁才天の霊場として栄える一方で、
都久夫須麻神社は宝厳寺と一体化し、寺と神社の区別はなくなっていた。
宝厳寺は奈良時代、聖武天皇の命により、僧・行基が開創したとされている。
行基は出身地の河内国(大阪府南部)を中心に多くの寺を建て、
架橋、治水灌漑などの社会事業にも尽くし、民衆の絶大な支持を
得ていたとされる僧であり、近畿一円に行基開創を伝える寺院は多い。
宝厳寺の寺伝によれば神亀元年(724年)、行基が竹生島を訪れ、
弁才天を祀ったのが起源とされているが、承平元年(931年)成立の
『竹生島縁起』には、行基の来島は天平10年(738年)で、
小堂を建てて四天王を祀ったのが始まりという。
同縁起によれば、天平勝宝5年(753年)、近江国浅井郡大領の
浅井直馬養(あざいのあたいうまかい)という人物が、千手観音を造立して
安置したとある。当初は本業寺(ほんごうじ)、のちに竹生島大神宮寺と称し[1]、
東大寺の支配下にあったが、平安時代前期、10世紀頃から近江国の他の多くの寺院同様、
比叡山延暦寺の傘下に入り、天台寺院となった。
以降、島は天台宗の僧の修行の場となった。
また、平安時代末期頃からは観音と弁才天信仰の島として栄えた。
中世以降、貞永元年(1232年)、享徳3年(1454年)、永禄元年(1558年)などに
大火があったがその都度復興している。永禄元年の大火後、
慶長7年-8年(1602-1603年)、豊臣秀頼が片桐且元に命じて伽藍を復興している。
この際復興されたのが唐門、渡廊、観音堂、
ならびに弁才天社(現・都久夫須麻神社本殿)である。
唐門は豊国廟(京都東山にあった豊臣秀吉の霊廟)
の唐門(極楽門ともいい、元は大坂城の極楽橋の唐破風造部分であった
可能性が指摘されている)を移築したものであり、
都久夫須麻神社本殿は豊国廟あるいは伏見城の日暮御殿を移築したものとされる。
明治の神仏分離の際、時の政府は弁才天社を平安時代の
『延喜式』に見える「都久夫須麻神社」という社名に変更することを強要し、
仏教寺院としての宝厳寺は廃寺の危機を迎えるが、
寺側は弁才天は仏教の仏であると主張して譲らなかった。
結局、竹生島の信仰施設は宝厳寺と都久夫須麻神社に分離する事になり、
明治7年(1874年)に「寺」と「神社」の境界が決まり、
明治16年(1883年)には寺の財産と神社の財産が区別されて今日に至っている。
現状、宝厳寺と都久夫須麻神社は別法人であるが、
宝厳寺観音堂と都久夫須麻神社本殿は渡廊で直接連絡しており、
両者はもともと不可分の関係にある事が分かる。
| 名称 | 宝厳寺 |
|---|---|
| 読み方 | ほうごんじ |
| 通称 | 竹生島大神宮寺 本業寺 |
| 参拝時間 | 9:00~16:30 |
| 参拝料 | 600円 |
| 御朱印 | あり |
| 限定御朱印 | なし |
| 御朱印帳に直書き | あり |
| 御朱印の郵送対応 | なし |
| 御朱印帳 | あり |
| 電話番号 | 0749-62-4411(連) お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
| ホームページ | https://www.chikubushima.jp |
| おみくじ | あり |
| 絵馬 | あり |
| 神仏霊場巡拝の道 | |
|---|---|
| 西国三十三所霊場 | |
| びわ湖百八霊場 第44番 | 仏さま:弁財天、千手千眼観世音菩薩 |
| 近江湖北二十七名刹霊場 第18番 | 仏さま:弁財天、千手千眼観世音菩薩 |
| ご本尊 | 大弁財天、千手観世音菩薩 |
|---|---|
| 山号 | 巌金山 |
| 宗旨・宗派 | 真言宗豊山派 |
| 創建時代 | 724年(神亀元年) |
| 開山・開基 | 行基・聖武天皇 |
| 文化財 | 唐門(国宝)
|
| ご由緒 | 琵琶湖の北端近くに浮かぶ竹生島に位置する。
|
| 体験 | 祈祷絵馬御朱印お守り国宝重要文化財武将・サムライ札所・七福神巡り伝説 |
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