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牟禮山観音禅寺の日常(64回目)滋賀県篠原駅

本日、太子会(聖徳太子忌)

投稿日:2021年02月22日(月)
みなさん、おはようございます。
2月22日は、日本の仏教・歴史・文化の基礎を築かれた聖徳太子(厩戸皇子)のご命日。
そして、『日本書紀』によれば今年は聖徳太子薨去1400年遠諱の年に当たります。

聖徳太子(574-622)は日本の仏教にとっては大恩人です。それは太子が叔母に当たる推古天皇の摂政として、いよいよ日本国を一つにまとめ、統一国家を樹立しようとした時に、仏教をその理念の柱として採用したからです。

『日本書紀』によれば、太子21歳、摂政に就任した翌年、推古二年(594)の二月、天皇が皇太子及び大臣に「三宝興隆の詔」を下したとあるが、これは太子の進言によるもので、三宝、すなわち仏法僧の興隆を推古天皇即位の翌年に早くも命じたものであります。

それから十年後、推古十二年(604)四月、太子三十一歳の時、有名な「十七条憲法」を制定したそうです。この憲法は今日の憲法とは大分違って、役人向けの精神的訓話のようなものですが、中味を見ると、儒教の要素も多いのですが、仏教精神に由る条文が特徴的です。その第一条を見ると、

「和を以て貴しと為し、忤(さから)ふこと無きを宗と為よ。人、皆黨(たむら)有り。亦た達(さと)れる者少し。…(以下略)」

とあります。「和」は仏教で重んじられる精神です。仏教の僧団を「和合僧」といい、その和合を破る者は、教団の最も重い罰則の波羅夷(はらい)罪に処せられる。太子はこの仏教僧団の和合の精神を憲法の第一条に据えて、群臣百僚の心得としたのです。

 続いて第二条には、

 「篤く三宝を敬へ。三宝とは仏・法・僧なり。則ち四生の終帰にして、万国の極宗なり。何(いず)れの世、何れの人か、是の法を貴ばざらん。人は尤(はなはな)だ悪しきは鮮(すく)なし。能く教ふれば之に従ふ。其れ三宝に帰せずんば、何を以てか枉(まが)れるを直せん」とある。仏・法・僧を敬え、とあって、仏教尊崇の精神を鼓吹しています。三宝はあらゆる人々の目指す究極で、心をそれによって真っ直ぐし、和の世界が実現するのだと。

 さらに第十条を挙げてみましょう。

 「忿を絶ち瞋を棄てて、人の違ふを怒らざれ。人、皆心有り。心各執(と)る有り。彼是(ぜ)なれば則ち我は非なり。我是なれば則ち彼は非なり。我、必ず聖に非ず、共に是れ凡夫のみ。…(以下略)」

 この条文では、自分の意見と合わない人に怒ってはならない、人は皆それぞれ考えるところがあり、皆意見が違うものだ、自分が偉いとは限らない、皆凡夫なのだから、とある。極めて分かりやすい、現代でも通じる内容だ。最も感心するのは「共にこれ凡夫のみ」としている点です。古代の、これから中央集権国家を整えようとしている体制の中で最も重んじられるべきは権威と秩序です。儒教も身分と秩序の遵守を強調する。そこへ、「みな同じような凡夫なのだから」というのは、現代の平等社会ならいざ知らず、古代社会の為政者の言葉とは到底信じられない。仏教の、それも大乗仏教の、ともにみな仏を目指す菩薩の精神の発露と言えるでしょう。

 鎌倉時代の凝然(ぎょうねん)や叡尊、忍性(にんしょう)などの旧仏教の師たちはもちろんのこと、新仏教の祖師達、道元や親鸞、日蓮も、聖徳太子を日本国の仏教の恩人と讃仰して止まみませんでした。

私たちにとっても太子は忘れてはならない方であります。
牟禮山観音禅寺の像
「聖徳太子講経像」滋賀県竜王町観音禅寺蔵
牟禮山観音禅寺の芸術
「聖徳太子弓取像」
狩野主信(江戸前期)作
滋賀県竜王町観音禅寺蔵
牟禮山観音禅寺の御朱印
太子会限定ご朱印

すてき

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