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いっしんじ|浄土宗坂松山

一心寺のお参りの記録一覧(2ページ目)
大阪府 恵美須町駅

穏暖
2022年01月23日(日)
527投稿

大阪市内の参拝。今回はおてらさん、一心寺。多くの参拝者で賑わってました。皆さん、勝手知ったる感じの方が多く地元で信仰されている感じがします。

一心寺の御朱印

こちらが御朱印です。

一心寺の像

仁王門。これまで見てきた中では一番斬新。

一心寺の本殿

大本堂で参拝。

一心寺の建物その他

納骨堂。皆さん、お線香をあげるので、煙で濛々。これが本当なんでしょうね。

一心寺の建物その他

念仏堂。

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四季
2021年12月25日(土)
469投稿

坂枩山 一心寺

~日想観修行地・上町台地~

山号  坂枩山 (坂松山ばんしょうざん)
院号  高岳院
    髙嶽院
(松平仙千代の戒名「高嶽院殿華窓林陽大童子」から)
宗派  浄土宗
御本尊 阿弥陀如来
創建年 文治元年(1185年)
開山  法然
正式名 坂松山高岳院一心寺
別称  骨仏の寺
    源空庵

札所等 
圓光大師廿五霊跡第7番
大阪新四十八願所第39番

~・~・~・~

文治元年(1185年)の春、四天王寺の別当であった慈円の要請によって、法然が四天王寺の西門の坂のほとりに四間四面の草庵を結び「荒陵の新別所」と称し、後に「源空庵」と改名して住んだといわれています。後白河法皇が四天王寺参詣の際に訪れて法然と共に日想観を修しました。当時草庵の西は海を遠く見渡せ、極楽浄土の瑠璃の地のようであったそうです。慶長元年(1596年)、三河国の僧侶であった本誉存牟上人が法然上人の旧跡であるこの地で一千日の念仏修法を行い、寿命山観称院一心寺として再興しました。彼の一心称名をもって寺ができたため、一心寺という名になったといわれています。
慶長5年(1600年)2月、徳川家康公の8男仙千代が大坂で夭折し、その葬儀を一心寺で行われました。住持である存牟が家康公と同郷の出身であり、また家康公が浄土宗の信者であったことにもよります。家康は境内の坂の孤松のすがたを讃えて、「坂松山」の山号とその寺額を贈り、仙千代の戒名から「高岳院」の院号も贈ったため、一心寺は坂松山高岳院一心寺と改名しました。

骨仏の寺としてよく知られています。天王寺公園に隣接した上町台地の崖線上に建ち、広大な境内です。
斬新な山門は、建築家でもある現長老・高口恭行氏の作品で1997年(平成9年)に完成。鉄とコンクリートで作られ、彫刻家・神戸峰男氏による阿形像・吽形像が存在感を表現わします。その他日本画家・秋野不矩による天女像)や、信徒会館である日想殿(1977年(昭和52年)完成)など現代建築による施設も見所の一つです。

大阪市天王寺区逢阪2丁目8―69

一心寺の建物その他
一心寺の像
一心寺の建物その他
一心寺の建物その他
一心寺の建物その他
一心寺の仏像
一心寺の建物その他

坂枩山

一心寺の本殿
一心寺の歴史
一心寺の建物その他
一心寺の建物その他
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一心寺のお墓
一心寺の建物その他
一心寺の御朱印

~日想観~ 一心寺御朱印
圓光大師廿五霊跡

一心寺の御朱印

圓光大師廿五霊跡

一心寺の御朱印

一心寺御朱印(二)
大阪新四十八願所第39番

一心寺の建物その他

参拝の方は多くいらっしゃいましたが、御朱印を頂きに上がった時は御朱印先生を独占状態でした。こういう機会はもうないかもと思い、色んなことを教えて頂きました。御朱印先生も『圓光大師廿五霊跡』も全て巡礼されたとのことで、詳しい縁起もお話頂きお参りできて大変嬉しく心に残りました。ありがとうございました。

一心寺の建物その他
一心寺の建物その他
一心寺の山門
一心寺の山門

南門後ろにハルカス

一心寺の周辺

南門西に通天閣 大坂らしいです

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惣一郎
2021年07月12日(月)
1269投稿

一心寺(いっしんじ)は、大阪府大阪市天王寺区にある浄土宗の寺院。山号は坂松山(ばんしょうざん)、院号は高岳院。本尊は阿弥陀如来。骨仏の寺として知られる。

平安時代末期の1185年、四天王寺の別当であった慈円の要請により、法然が四天王寺の西門の坂のほとりに四間四面の草庵を結び「荒陵の新別所」「源空庵」と称して居住した。後白河法皇が四天王寺参拝の際に草庵を訪れ、法然とともに「日想観」を修した。一時廃れたが、安土桃山時代の1596年、本誉存牟上人が当地で一千日の念仏修法を行い、寿命山観称院一心寺として再興した。1600年に徳川家康の八男・仙千代が大阪で夭折し、葬儀を当寺で行ったが、家康が境内の松を讃え「坂松山」の寺額を贈り、仙千代の戒名から「高岳院」の院号を贈ったため、坂松山高岳院一心寺と改名した。1614年の大坂冬の陣では、家康の陣が茶臼山に隣接した当寺に置かれた。
江戸時代、当寺は寺社奉行直轄の檀家を持たない特別な寺院となったが衰微していたところ、天保年間(1831年~1845年)に真阿上人が庶民向けに宗派を問わず年中無休で無縁の霊を供養する施餓鬼会を始めるなどして再興した。これで評判となったが納骨が集中し、やがて限界を超えたため、1887年に納骨された遺骨を粉砕して粉にし、鋳型で固めて阿弥陀如来像を制作した。これが骨仏の始まりとなった。1945年の米軍による大阪大空襲でほとんどの伽藍や骨仏を焼失したが、戦後、伽藍は再建され、骨仏も1947年以降、10年ごとに制作されることになった。

当寺は、JR大阪環状線・天王寺駅の北西700mほどの位置にある。高台にある四天王寺の西側にあって、西に向かって徐々に下がって行く坂道の途中にある(地名は<逢坂>)。同一ブロックには動物園、美術館、庭園、古墳、学校などが混在しているが、もとは寺の境内なのかしら?伽藍はコンパクトにまとまっている。観光で行く寺院ではなく、実需があって参拝する寺院という印象。プログレッシブな構造物(仁王門・念仏堂・日想殿)と、古くからの伝統的伽藍(本堂・納骨堂)が混在した、人が絶えず、独特の雰囲気がある寺院。
今回は、大阪府で人気がある有名寺院として参拝することに。参拝時は平日の午後であったが、境内には多くの人がいた。

一心寺の建物その他

寺院入口。<お骨佛の寺>と書かれた塔と、後ろの鉄骨屋根は<仁王門>。

一心寺の像

斬新なデザインの<仁王門>と<仁王像>。

一心寺の手水

本堂手前右側にある<手水>。

一心寺の本殿

<本堂>全景。

一心寺の本殿

<本堂>正面。

一心寺の建物その他

本堂の左側(境内南西部)に向かう。

一心寺の建物その他

こちらが<お骨佛堂>。

一心寺の建物その他

<お骨佛堂>正面。

一心寺の建物その他

お骨佛堂の左側にある<納骨堂>。

一心寺の建物その他

境内南東部にある<開山堂>。

一心寺のお墓

開山堂の左(北)方向にある<酒封じ 本多出雲守墓>。

一心寺の建物その他

境内北東端にある<鐘楼>。

一心寺の塔

仁王門をくぐってすぐ右手にある<念佛堂>。

一心寺の建物その他

念佛堂の横の緑地にある<おばけとうろう>。かなり大きい。

一心寺の建物その他

境内北西部にある<信徒会館「日想殿」>

一心寺の建物その他

本堂と日想殿の間を抜けると、本堂脇の半地下に<納経所>。御朱印はこちら。

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