つなしきてんじんじゃ
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楽しみ方綱敷天神社のお参りの記録一覧(2ページ目)

JR大阪駅から徒歩15分ほどのところに鎮座。
大阪の真ん中にありながらどこか下町の風情があり、境内にいると騒音も感じないほど静かでした。
ちょうど境内では地元の方が空手?の稽古をはじめようとしているところでした。
なのでお邪魔をしないようにささっと参拝、そして写真を撮って失礼させていただきました。
昔、この地はほぼ海だったようで、川も多く低地だったため治水に悩まされていたとか。
ただ梅や松林があり、風光明媚で皇族などがよく訪れたそうです。
弘仁13年(822年)、第52代天皇の嵯峨天皇もこの地を御行幸され、仮殿を設けて一泊されました。
承和9年(842年)に嵯峨天皇御崩御され、その翌年、嵯峨天皇の皇子である源融公が嵯峨天皇御追悼のため太融寺に七堂伽藍を建立。
そして当地に嵯峨天皇の御名「神野」をとって神野大神宮を創建されました。
その後昌泰4年(901年)、菅原道眞公の九州大宰府までの左遷の際にこの地の紅梅に目を留められて、船の艫綱を円座状にして即席の座としその上に座られて梅を鑑賞されました。
それが「綱敷」の由来となっているようです。
御朱印は阪急電鉄「大阪駅」の北側・茶屋町にある綱敷天神社御旅社にていただけるようです。
詳しくは綱敷天神社HPにてご確認ください。


拝殿

拝殿前にある立派な燈籠


神牛

手水舎

喜多埜稲荷神社



境内東側の入り口

東側の入り口付近にある由緒書き
文字が小さいっ!

参拝を終えて大阪駅方向へ
HEP FIVEの観覧車と、ダイキンエアコンのぴちょんくん

阪急東中通商店街の中にある住宅街に建つ天満宮で、元々は第45代嵯峨天皇さまがこの地まで行幸していたときの頓宮になっていた場所で、皇子の源融公がその縁で嵯峨天皇さまを祀って創建した神野太神宮が起源となります。

《鳥居と社号碑》

《由緒書き》
嵯峨天皇さまの諱が「神野」であったため社名に使われました。また、皇子皇女が多かったため、財政維持のため一部皇族の臣籍降下が始まったのもこの方からです。

《白龍社》
白龍大神さまと猿田彦大神さまを祀ります。

《手水舎》
コロナ禍で使えなくなっています。

《喜多埜稲荷神社》
創建は旧記が焼失したため不詳ですが、修験道の行者さんによって御火焚祭が行われているので篤い信仰があったようです。

《拝殿》🙏
👁チェックポイント‼️
この神社の近くの太融寺に参拝していた道真さんの前に見事に咲き誇る紅梅の木があったそうです。目を奪われた道真さんは近くにあった艫綱を即席の円座にして花見をしたそうで、これが社名の由来となっています。

《社務所》
普段は無人で、茶屋町の御旅社に神主さんはおられます。

《干支絵馬》
しかし絵馬やおみくじは社頭に並んでいるので受けることができます。

《黄櫨染御袍の絵馬》
天皇陛下が大嘗祭のときのみお召しになる装束で、最近大嘗祭がありましたから記憶に新しい方も多いのではないでしょうか。
ちなみに重儀の際にこの御袍を着るようになったのは嵯峨天皇さまからだと言われています。

《送軍紀念碑》
日清戦争に従軍した氏子さんたちの無事を祈って作られました。のちに太平洋戦争後に軍国時代の遺跡として廃棄される予定でしたが、崇敬者たちによって地中に埋められて隠され難を逃れたんだそうです。
梅田キタの氏神様「綱敷天神社」
阪急東通り商店街を抜けてすぐ。
神社前は無料案内所がやたらに多い。
駐車場、、、多分ない。
鳥居をくぐり神門を抜けて、正面が拝殿。
左側に末社の喜多埜稲荷神社。2月中旬で梅がいい感じに咲いてた。
そこそこに広い境内で、平日真っ昼間で他にも地元っぽい参拝者がちらほら。
菅原道真がここで梅を見たエピソードが、後にこの辺の「梅田」という地名の由来になったり、末社の「喜多埜」を取って梅田の繁華街らへんを「キタ」という語源になったとか、何かと大阪の中心地の由来になっている。
現代だと位置的にちょっとずれてしまって、知ってる人すくなそうだな〜って感じになってるのでちょっと残念。




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