たんざんじんじゃ
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楽しみ方談山神社のお参りの記録一覧
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境内を反時計回りにお詣りして回りました。
面白かったのは縁結びと縁切りの両方のお社やお堂が
あったことです。
御祭神は
藤原鎌足(フジワラノカマタリ)
をお祀りされています。
談山神社様は678年に藤原鎌足の長子である
定恵によって鎌足をお祀りするために十三重塔を
建立したのが始まりとされています…
ここから再び妄想モードです(*´艸`)
私は鎌足の長子は不比等だと思っていたので定恵なる
人物を知りませんでした。
で 定恵を調べてみると面白かったです。
定恵は出家前の名を中臣真人(マヒト)と言います。
母は孝徳天皇(当時は軽皇子)の妃であった
車持君与志古娘と言われています。
孝徳天皇は当時は重用していた鎌足に懐妊していた
与志古娘を下賜します。
そして与志古娘は真人を出産します。
孝徳天皇は難波宮から飛鳥へ移ることを求めた
中大兄皇子と対立します。
中大兄皇子は多数の朝臣を引き連れ飛鳥へと移り
孝徳天皇は失意の内に崩御されます。
その後 鎌足は中大兄皇子から額田王の姉である
鏡女王を下賜されます。
鏡女王も懐妊中だったとか(^-^;
産まれた子が不比等です。
中大兄皇子は自らが即位した後の大王の座を
揺るぎないものにするために孝徳天皇の皇子である
有間皇子(真人の兄)を奸計を用いて討ち取り
蘇我氏との関係の深かった古人大兄皇子も
討殺しています。
鎌足は「これは真人もヤベェ~」と考え11歳の真人を
遣唐使として派遣します。
しかし、帰国した真人は23歳の若さで没します。
真人の才を妬んだ百済人の仕業とされていますが
ここまで調べると中大兄皇子の影を感じます。
さて、ここで問題が発生します。
真人は西暦666年に23歳で没しています。
これは史実です。
定恵は死後に生きている父の為に(鎌足は669年没)
十三重塔を建立したということになります。
重ねて書きますが ここからはあくまで妄想です。
十三重塔を建て談山神社様の基礎を築いたのは
不比等ではないかと思います。
父である天智天皇(中大兄皇子)がしたことに対して
兄の名で十三重を建立することが兄への供養と
不比等が考えたとすると腑に落ちます。
もしかしたら鎌足からも話があったかもしれません。
そこは歴史のロマンということで。
別の話ですが談山神社様は「妙楽寺」であった頃は
延暦寺の末寺で同じ藤原氏の流れを汲む春日大社様や
興福寺様とは折り合いが悪く何度も焼き討ちにされています。
この辺りの話も興味を惹かれますが長くなるので
今日はこの辺りで。

この日は聖徳太子御遺跡霊場で御朱印を唯一拝受
出来ていない世尊寺様のアポがようやくとれたので
奈良へと向かいました。
最初に向かったのは談山神社様です。
受付から右へ向かって歩いて行くと柵があります。
そこから山の中に向かって5分ほど歩いた所に
末社の三天稲荷社が鎮座されています。
敢えて末社を取り上げるのは興味深いからです。
談山神社様は中臣鎌子(藤原鎌足)をお祀りされて
います。
大化の改新以降、没する間際に藤原姓を賜った藤原家
の始祖と言える人物です。
三天稲荷社の御祭神は
宇賀魂命
菅原道真
市杵島姫命
の三柱です。
驚くことに菅原道真がお祀りされています。
現在は「学問の神」として崇められる天神様ですが
道真は藤原時平の謀略で太宰府に追いやられ憤死し
その後は「これでもか!!」というくらい藤原氏を祟った
日本三大怨霊の一人です。
なぜ藤原家の始祖をお祀りされている談山神社様に?
元は鎌足の遺骨の上に建つ十三重塔の裏手に
鎮座されていました。
ここから祟りを怖れて談山神社様の中心でお祀り
されていたのではないかと推察されます。
明治の廃仏毀釈の際に現在地へ遷座されたのは
日本中で道真が天神様としてお祀りされたことで
怨霊から「学問の神」のイメージが強くなり
「もうお祀りしなくても大丈夫じゃね?」
と考えたのかもしれません。
とは言え藤原氏にとっては やはり怖い存在なので
境内の一番隅っこに遷し今現在も道真の祟りを鎮めるためにお祀りし続けているのでは?
などとメチャ妄想が捗りました(*´艸`)
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【奈良県 桜井市】(たんざんじんじゃ)
桜井市の南部、飛鳥の東に鎮座されています。言わずと知れた「談山神社」です。
今回の「古塔参拝」の目的地です。当方「塔マニア」を自称しております。
7年ぶりの参拝となりますが、前回は「桜満開」時、今回は「緑いっぱい」時です。
文化財も多く、たくさんの写真を撮ったのですが、投稿の抜粋に迷いました。
いつも思うのですが、当方には「塔」を上手に写す技術がなく残念です。
お恥ずかしい話「談山神社」という名称が明治時代からの新しい名称であったとは知りませんでした。当初から「妙楽寺(みょうらくじ)」という寺院でしたが、明治2年の「廃仏毀釈」により廃寺となり、現在の「談山神社」になったそうです。
その名残から神社には珍しい「談峰如意輪観音菩薩坐像」がご開帳とあって素晴らしいお姿を拝観できました。
ちょうどその場に「地元ボランティア」の方のお話を聞くことができ、暫しの間、とても面白いお話を勉強させていただきました。寺社のボランティアさんの中では、最も若い年齢だそうです。おかげ様で違った見方での境内散策ができました。
K木さん、どうもありがとうございました。
それにしても「時」も「暑さ」も忘れてしまう塔です。境内には多くの素晴らしい建物が見ごたえありますが、木造十三重の塔は「別格唯一無二」です。
名残惜しく、映画の中の恋人との別れ際のように何度も振り向いてしまいました。
(「恋神社」なる境内社が我が頭の片隅にあったようです。)


奈良県寺院巡りの4寺目(4ヶ所目)は、3寺目の在る高市郡明日香村から東へ行った桜井市に在る談山神社です。寺院ではなく神社ではないかと仰有るのもご尤もですが、こちらは明治初期の神仏分離・廃仏毀釈により妙楽寺から談山神社に改名したのです。毎年6月初~7月末に唯一、遺された仏像の如意輪観音像が開帳(公開)されますので今回参拝しました。
(妙楽寺の講堂の本尊であった阿弥陀三尊像は桜井市の安倍文殊院に遷され、現在は何故か釈迦三尊像として祀られています。)
今回の奈良県巡りの最後となります。
祭神は、藤原鎌足。
中大兄皇子と中臣鎌足は、蘇我入鹿を倒すべく都から離れた多武峰に入り密談後に実行した。(乙巳の変、大化の改新) そして、中大兄皇子は天智天皇になり、中臣鎌足は藤原姓を下賜された。その後、669年に藤原鎌足が逝去。唐に留学していた藤原鎌足の長男の僧・定慧は帰国すると別の場所に埋葬されていた鎌足の遺骨を多武峰の寺に改葬し、そこに十三重塔を建立。680年に講堂が建立され妙楽寺と命名された。701年に鎌足の神像が作られ、それを安置する聖霊院(現在の本殿)が建立された。
平安、鎌倉、南北朝時代には興福寺の僧兵や金峯山寺の僧兵、北朝の兵火により何度も焼失したがその都度復興。明治初期の神仏分離、廃仏毀釈により談山神社に改名し現在に至ります。
県道155号線沿いに無料駐車場がありますので停めました。(紅葉シーズンは有料となります。談山神社への行きは下り坂なので帰りは当然上り坂です。近い所に有料コインパーキングもあります。)
鳥居の手前の参道に(土産屋の向かいに)何気なく燈籠がありますが、後醍醐天皇が寄進した燈籠で重文です。鳥居の左側に手水、右側に拝観受付がありますので拝観料を納めて、御朱印帳を預けて御朱印をお願いしました。
ーーー後日アップします。
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新年奈良ひとり旅を決行。日帰りで何箇所回れるか、弾丸ツアーです。
大和八木駅でレンタカーを借りて、奈良駅まで北上しながら気になる神社仏閣を巡ります。
最初の目的地は、談山神社。中臣鎌足が中大兄皇子と
蘇我入鹿を暗殺するために談合をした「談い山」からとった社名です。大化の改新は、なかなか闇が深そう。
本殿にまつられる御祭神は藤原鎌足公です。
大きく描かれた鎌足の右下に長男・定慧、左下に次男の不比等を描いた、藤原鎌足像も拝めます。
ここで特に見たかったのは、十三重塔。雑誌の時空旅人で特集されて、気になっていました。鎌足の死後、唐から帰国した長男の僧定慧が、父の遺骨の一部を改葬し、墓所として十三重塔を建立したそうです。近くで見ると意外と小さい。屋根がみっしり重なっています。いまの塔は1532年の再建で、木造の十三重塔としては世界で唯一とのこと。
お正月だというのに、人も少なく、ひっそりとした雰囲気の神社でした。
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