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こうげんじ|浄土真宗本願寺派太子山

向原寺
奈良県 橿原神宮前駅

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sasaki3
sasaki3
2025年10月18日(土) 22時40分54秒
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向原寺 聖徳太子御遺跡霊場

向原寺の御朱印

向原寺 聖徳太子御遺跡霊場

向原寺(奈良県)

向原寺 聖徳太子御遺跡霊場

向原寺(奈良県)

向原寺 聖徳太子御遺跡霊場

向原寺(奈良県)

向原寺 聖徳太子御遺跡霊場

向原寺(奈良県)

向原寺 聖徳太子御遺跡霊場

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soo_cyan
soo_cyan
2025年06月26日(木) 03時15分29秒
4204投稿

浄土真宗本願寺派。太子山という山号が示す通り聖徳太子ゆかりの寺院。百済の聖明王から朝廷に献上された金銅の佛像を蘇我稲目が賜わり、向原の家を浄めて寺としたのが始まりとされる。ただこの寺は廃仏派の物部尾輿によって焼き払われ、仏像は難波の堀江に捨てられたとのこと。この難波の堀江の伝承を持つ難波池が一角にある。この伝承の「難波の堀江」で仏像が捨てられ、後に拾われた場所がもう一か所あり、それが大阪市の和光寺にある「あみだ池」である。あみだ池は距離的に無理があり難波池が比定されているとのことですが果たして・・・。個人的には難波池は逆に近すぎる気がするんですがね・・・。善光寺の伝承ではこの金銅仏像は叩こうが焼こうがビクともしなかったらしいし、異教の神と考えてたのならので私だったらなるべく遠くにやってしまおうと考えると思うのですがね・・・😅まあどちらの説にしても結果この仏様は長野善光寺に祀られるという結末なので良いので🤗ただ豊浦寺跡の解説には金銅の「釈迦佛」と・・・阿弥陀佛ではないの???
境内はやや広めの真宗寺院といった感じ。まあくまなくは散策していないので礎石とかは見てないです😅本願寺派にしては珍しく御朱印もある(霊場ゆえでしょうけど)らしいのでまた機会あればお参りに来よう。

向原寺(奈良県)

伎楽伝来の地石碑

向原寺(奈良県)

三尊と奈良善光講の石標

向原寺(奈良県)

釈迦三尊かな?

向原寺(奈良県)

難波池由来

向原寺(奈良県)

難波神社(難波池神社)

向原寺(奈良県)

豊浦宮跡、豊浦寺跡

向原寺(奈良県)

佛青創立記念石碑

向原寺(奈良県)

お言葉

向原寺(奈良県)

豊浦寺跡解説

向原寺(奈良県)

豊浦寺址碑

向原寺(奈良県)

山門

向原寺(奈良県)

寺号標

向原寺(奈良県)

本堂

向原寺(奈良県)

薬師堂

向原寺(奈良県)

本堂

向原寺(奈良県)

俱会一処とある。納骨堂?にしては小さいか・・・

向原寺(奈良県)

読めない・・・😔

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歴史

甘樫丘の北西麓の豊浦にあり向原寺とも広厳寺ともいわれ、県の史跡になっている。また、このあたりは推古天皇の豊浦宮や小墾田宮のあった所とも伝えられている。「日本書紀」によると、欽明13年(552)百済の聖明王から金銅の釈迦仏や経典が献上された。礼拝の可否を問うたところ、物部、中臣の諸氏は異議をとなえ、蘇我稲目がひとりこれに賛意をとなえたため、稲目はその仏像をたまわり向原の家をもって寺として安置したとある。しかし、その後悪疫が流行し、物部氏、中臣氏らがこれをもって国神のたたりだと奏したため仏像を難波の堀江に流しすて寺は焼きはらわれたといわれる。後、敏達10年(581)再建され桜井寺となり百済から帰朝した善信尼が住み尼寺となった。その頃は、一名建興寺ともいわれた。豊浦宮で即位した推古天皇は推古11年(603)豊浦宮地と桜井寺地とを交換され、旧宮跡に桜井寺を移し豊浦寺といい、寺地に移った宮を小墾田宮と称したといわれる。豊浦寺は由緒からいえば日本最初の寺であり、舒明朝には塔婆が建立され、持統天皇のときには、飛鳥五大寺の一つに列せられた。平城遷都とともに新都に新寺が営まれたが旧寺もいぜん盛えた。しかし平安時代にはかなり寺運が傾き、頽廃の途をたどったといわれる。現在は、江戸時代に建立された向原寺(真宗本派本願寺派)があり、その後を引き継いでいるといわれる。

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向原寺の基本情報

住所

奈良県高市郡明日香村大字豊浦630

行き方

近鉄「橿原神宮前」駅東口または「飛鳥」駅より奈良交通明日香周遊バス乗車。「豊浦」下車 徒歩5分

アクセスを詳しく見る
名称

向原寺

読み方

こうげんじ

通称

廣嚴寺(広厳寺)

御朱印あり
限定御朱印なし
電話番号0744-54-2521
お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。

巡礼の詳細情報

聖徳太子霊跡

第12番

仏さま:阿弥陀如来

詳細情報

ご本尊阿弥陀如来
山号

太子山

宗旨・宗派浄土真宗本願寺派
創建時代

552年(欽明天皇13年)頃

開山・開基

蘇我稲目

文化財

門前や境内に多くの礎石がみられ、寺跡であることを裏づけている。昭和32年(1957)、昭和45年(1970)の発掘調査でも塔、金堂、講堂などが検出され、平成5年(1993)には金堂が南北15メートル、東西17メートルの規模であることが判明した。また南方では広場状に10メートル近くの石敷遺構が確認されているが、全容の解明は今後に残されている。

ご由緒

甘樫丘の北西麓の豊浦にあり向原寺とも広厳寺ともいわれ、県の史跡になっている。また、このあたりは推古天皇の豊浦宮や小墾田宮のあった所とも伝えられている。「日本書紀」によると、欽明13年(552)百済の聖明王から金銅の釈迦仏や経典が献上された。礼拝の可否を問うたところ、物部、中臣の諸氏は異議をとなえ、蘇我稲目がひとりこれに賛意をとなえたため、稲目はその仏像をたまわり向原の家をもって寺として安置したとある。しかし、その後悪疫が流行し、物部氏、中臣氏らがこれをもって国神のたたりだと奏したため仏像を難波の堀江に流しすて寺は焼きはらわれたといわれる。後、敏達10年(581)再建され桜井寺となり百済から帰朝した善信尼が住み尼寺となった。その頃は、一名建興寺ともいわれた。豊浦宮で即位した推古天皇は推古11年(603)豊浦宮地と桜井寺地とを交換され、旧宮跡に桜井寺を移し豊浦寺といい、寺地に移った宮を小墾田宮と称したといわれる。豊浦寺は由緒からいえば日本最初の寺であり、舒明朝には塔婆が建立され、持統天皇のときには、飛鳥五大寺の一つに列せられた。平城遷都とともに新都に新寺が営まれたが旧寺もいぜん盛えた。しかし平安時代にはかなり寺運が傾き、頽廃の途をたどったといわれる。現在は、江戸時代に建立された向原寺(真宗本派本願寺派)があり、その後を引き継いでいるといわれる。

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