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向原寺ではいただけません
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こうげんじ|浄土真宗本願寺派太子山

向原寺
奈良県 橿原神宮前駅

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御朱印
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巡礼

聖徳太子霊跡
聖徳太子御遺跡霊場第12番

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2023年01月30日(月)
2759投稿

聖徳太子を巡るシリーズ その12

近鉄電車「橿原神宮前駅」下車タクシーで10分。
浄土真宗寺院。ご本尊は阿弥陀如来です。

552年、百済の聖明王から献上された日本初渡来の仏像を蘇我稲目が小墾田の寺に安置し、その後向原の家浄め捨(から)ひて寺としたことが最初と云われています。

その仏像は国内で疫病が流行し、排仏派によって難波の堀江捨て、伽藍は焼失されてしまいます。

7世紀ごろに推古天皇が即位し、厩戸皇子(聖徳太子)が摂政として政務を摂った豊浦宮となりました。

その遺跡は、予約すれば見学も可能です。

向原寺(奈良県)

お寺の少し先にある小さな祠。

向原寺(奈良県)

豊浦寺。
蘇我馬子が日本初の尼寺として建てられた場所と言われています。

向原寺(奈良県)

山門です。この向かいが豊浦宮の遺跡があります。

向原寺(奈良県)

薬師堂です。

向原寺の本殿

本堂です。

向原寺(奈良県)
向原寺(奈良県)
向原寺(奈良県)
向原寺(奈良県)

御朱印を待っている間の一コマ。
MBSの「ミント」(よんちゃんニュースの前番組)も取材に来ていた様です。

向原寺の御朱印

いただいた御朱印。

聖徳太子御遺跡第12番札所です。
「仏法根源精舎」は、百済から贈られた仏像を安置したことから始まります。

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歴史

甘樫丘の北西麓の豊浦にあり向原寺とも広厳寺ともいわれ、県の史跡になっている。また、このあたりは推古天皇の豊浦宮や小墾田宮のあった所とも伝えられている。「日本書紀」によると、欽明13年(552)百済の聖明王から金銅の釈迦仏や経典が献上された。礼拝の可否を問うたところ、物部、中臣の諸氏は異議をとなえ、蘇我稲目がひとりこれに賛意をとなえたため、稲目はその仏像をたまわり向原の家をもって寺として安置したとある。しかし、その後悪疫が流行し、物部氏、中臣氏らがこれをもって国神のたたりだと奏したため仏像を難波の堀江に流しすて寺は焼きはらわれたといわれる。後、敏達10年(581)再建され桜井寺となり百済から帰朝した善信尼が住み尼寺となった。その頃は、一名建興寺ともいわれた。豊浦宮で即位した推古天皇は推古11年(603)豊浦宮地と桜井寺地とを交換され、旧宮跡に桜井寺を移し豊浦寺といい、寺地に移った宮を小墾田宮と称したといわれる。豊浦寺は由緒からいえば日本最初の寺であり、舒明朝には塔婆が建立され、持統天皇のときには、飛鳥五大寺の一つに列せられた。平城遷都とともに新都に新寺が営まれたが旧寺もいぜん盛えた。しかし平安時代にはかなり寺運が傾き、頽廃の途をたどったといわれる。現在は、江戸時代に建立された向原寺(真宗本派本願寺派)があり、その後を引き継いでいるといわれる。

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向原寺の基本情報

住所奈良県高市郡明日香村大字豊浦630
行き方

近鉄「橿原神宮前」駅東口または「飛鳥」駅より奈良交通明日香周遊バス乗車。「豊浦」下車 徒歩5分

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名称向原寺
読み方こうげんじ
御朱印あり

限定御朱印なし
電話番号0744-54-2521
お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。

詳細情報

ご本尊阿弥陀如来
山号太子山
宗旨・宗派浄土真宗本願寺派
開山・開基蘇我稲目
札所など

聖徳太子御遺跡霊場第12番

文化財

門前や境内に多くの礎石がみられ、寺跡であることを裏づけている。昭和32年(1957)、昭和45年(1970)の発掘調査でも塔、金堂、講堂などが検出され、平成5年(1993)には金堂が南北15メートル、東西17メートルの規模であることが判明した。また南方では広場状に10メートル近くの石敷遺構が確認されているが、全容の解明は今後に残されている。

ご由緒

甘樫丘の北西麓の豊浦にあり向原寺とも広厳寺ともいわれ、県の史跡になっている。また、このあたりは推古天皇の豊浦宮や小墾田宮のあった所とも伝えられている。「日本書紀」によると、欽明13年(552)百済の聖明王から金銅の釈迦仏や経典が献上された。礼拝の可否を問うたところ、物部、中臣の諸氏は異議をとなえ、蘇我稲目がひとりこれに賛意をとなえたため、稲目はその仏像をたまわり向原の家をもって寺として安置したとある。しかし、その後悪疫が流行し、物部氏、中臣氏らがこれをもって国神のたたりだと奏したため仏像を難波の堀江に流しすて寺は焼きはらわれたといわれる。後、敏達10年(581)再建され桜井寺となり百済から帰朝した善信尼が住み尼寺となった。その頃は、一名建興寺ともいわれた。豊浦宮で即位した推古天皇は推古11年(603)豊浦宮地と桜井寺地とを交換され、旧宮跡に桜井寺を移し豊浦寺といい、寺地に移った宮を小墾田宮と称したといわれる。豊浦寺は由緒からいえば日本最初の寺であり、舒明朝には塔婆が建立され、持統天皇のときには、飛鳥五大寺の一つに列せられた。平城遷都とともに新都に新寺が営まれたが旧寺もいぜん盛えた。しかし平安時代にはかなり寺運が傾き、頽廃の途をたどったといわれる。現在は、江戸時代に建立された向原寺(真宗本派本願寺派)があり、その後を引き継いでいるといわれる。

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