そうのみあがたにいますじんじゃ
添御縣坐神社奈良県 富雄駅
社務所:9:00〜16:00
奈良市三碓(みつからうす)に鎮座されています。
「延喜式神名帳」にも記載されている歴史ある神社で、本殿は重要文化財に指定されているようです。
添御縣坐神社一ノ鳥居
添御縣坐神社の社号標に隣接するように根聖院の社号標が有りましたが、今回は時間に限りがあるのでまた機会があればお参りしたいと思います
拝殿です
拝殿内を撮影させて頂きました
手水舎
本殿 南北朝時代末期の永徳三(1383)年造営。
山を背に西を向いて建っており、様式は五間社流造(ごけんしゃながれづくり)で、正面三箇所に千鳥破風付。
屋根は桧皮葺で、覆い屋によって保護されているため、630年以上経っているとは思えないほど、良好な状態です。
昭和二十五年 国の重要文化財に指定(この写真では構造が分かりにくいのでホームページから引用させて頂きました)
恵美須神社 本殿の南西にあり、商売繁盛や招福で多大の信仰を集める当地随一の恵美須様
龍王神社 本殿背後の森の南東にあり、古来、雨乞いにご利益のある龍神が祭神です
英霊殿 郷土から出征して太平洋戦争等で戦没された145柱の方々が祀られています
御朱印をいただきました
御由緒 当神社の名称は、「大和の国の添郡に設置された御県に鎮坐する神社」を意味する。
創建の年代は不詳ながら、古墳時代の遡ると考えられる。古老の口伝によると、三柱の祭神の内、武乳速之命は実は大和の先住民の首長・長髄彦で、神武天皇による大和平定の際に、捲土重来を期して蜂起を図る先住民を説き伏せた上自害し、これを惜しんだ遺民が当地にその霊を祀ったのが鎮座の起源という。しかし明治時代以降、神武天皇敬仰の風潮の中で本名を表出することを憚り、改称したという。
現本殿は南北朝時代末期の永徳3年(1383)の建立で国指定重要文化財。例大祭は10月第3日曜日、市内随一の児童数最多地域として多くの子供で賑わう。
名称 | 添御縣坐神社 |
---|---|
読み方 | そうのみあがたにいますじんじゃ |
通称 | 三碓神社 |
参拝時間 | 社務所:9:00〜16:00 |
参拝にかかる時間 | 15分 |
参拝料 | なし |
トイレ | あり |
御朱印 | あり |
限定御朱印 | なし |
御朱印帳 | なし |
電話番号 | 0742-43-1428 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
ご祭神 | 建速須佐之男命 武乳速之命 櫛稲田姫之命 |
---|---|
本殿 | 五間社流造 |
ご由緒 |
御由緒 当神社の名称は、「大和の国の添郡に設置された御県に鎮坐する神社」を意味する。
|
体験 | 祈祷おみくじお祓いお宮参り七五三傾聴御朱印お守り重要文化財祭り札所・七福神巡り伝説 |
Youtube | |
概要 | 添御県坐神社(そうのみあがたにいますじんじゃ)は、奈良県奈良市三碓(みつがらす)三丁目にある神社である。式内大社論社。大和国に6つある御縣神社の1つである。 |
---|---|
歴史 | 歴史[編集] 概史[編集] 創始年代は明らかではないが、恐らく添御縣の国魂神を添縣主(姓氏録・旧事本紀に津速魂命男武乳遺命の裔)が祀っていたものであるとされる。また、当社鎮座地付近は古代豪族である小野氏が治める村里であったとされ、小野氏の氏神として祭祀されたものともされる。史料での初見は、天平2年(730年)の『大和国正税帳』で「添御県 神戸 稲152束8把、租20束、合172束8把」と記載されている。『延喜式神名帳』では大社に列しており、月次・新嘗の奉幣に預ると記されている。江戸期は牛頭天王社と称されていた。 古老の口伝には、武乳速之命は大和の先住民の首長・長髄彦で、神武東征による大和...Wikipediaで続きを読む |
引用元情報 | 「添御県坐神社 (奈良市三碓町)」『ウィキペディア日本語版』。 この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E6%B7%BB%E5%BE%A1%E7%9C%8C%E5%9D%90%E7%A5%9E%E7%A4%BE%20%28%E5%A5%88%E8%89%AF%E5%B8%82%E4%B8%89%E7%A2%93%E7%94%BA%29&oldid=102967769 |
ホトカミには、日本最大となる全国15万8千件の神社お寺の情報や、2万件以上の御朱印のオリジナルデータがあります。
ご利用になりたい法人様やメディア関係の方々は、こちらよりお気軽にご相談ください。
利用開始をもって利用規約・プライバシーポリシーに
同意したものとみなします。
ホトカミで困ったこと、不具合のご報告はこちらから
お問い合わせ
11
1