がんごうじ|真言律宗
元興寺のお参りの記録一覧(3ページ目)
奈良でかかせない場所元興寺。行きたいと思いながら中々いけませんでしたかようやく参拝しました。
本堂です。
瓦の色が違います。古いものは昔のままです
カエル石です。
立派な不動明王にほれぼれです
元興寺本尊の御朱印頂きました
元興寺と言えばこれ、瑠璃光の御朱印頂きました
元興寺(飛鳥寺)が平城京遷都に伴って蘇我氏から宮大寺に性格を変え
新築移転されたお寺。
飛鳥寺~法興寺~飛鳥大寺~元興寺と名称を変えて南都七大寺に数えられる。
平安時代半ばには、当時の信仰勢力である真言宗・天台宗の隆盛で次第にその
勢力も衰えてしまい、塔堂は朽ち倒壊してしました。
今日「奈良町」と通称される地区の大部分は元興寺の境内であり、寺㔟の衰えと
ともに浸潤され町場化していきました。
町場化とともに3寺院が分立、
旧称元興寺極楽坊で真言律宗西大寺末寺としての元興寺。
旧東塔跡で塔跡と呼ばれる東大寺末寺で、華厳宗元興寺。
そして、真言律宗の小塔院、
南都七大寺と呼ばれた寺院で、その寺様が想像し難いのが元興寺と大安寺で
元興寺周辺で観光客で賑わう奈良町を歩きますと、これも時の流れかと思いますね。
正門(東門)
応永年間(1394~1428)に東大寺西南院から移築した四脚門。
東門の設置により極楽坊本堂を中心とする一画が、元興寺旧伽藍から独立した
中世寺院として再生したことを示しているものと想われます。
国宝の本堂
僧坊だった建物を鎌倉時代に大きく直し、東大寺と同じ「大仏様」の建築様式を取り入れています
本堂正面
柱間が六間のため中央に柱がある珍しい造りになっています。
お賽銭箱が柱の後ろ側、お賽銭を遠慮して隠しているわけではないですよね。
元興寺と言えば行基葺き
本堂の西側、禅室の南側の東寄りの部分は行基葺きとなっており、他の部分は
丸瓦と平瓦を交互に葺く本瓦葺きとなっています。
最も古い飛鳥時代の瓦も現役で使用されています。
落雷・火災・地震などの天災、戦禍や一揆、色々な危機を乗り越えて
まったく問題なく屋根の上で働いています。
講堂跡礎石
境内西側の中新屋町で平成十年に発掘されたもので、
本来の位置ではないが出土場所や礎石の規模ながら講堂に使用されていた
ものと考えられます。
佛足石
二千年程前のスリランカで創られた図を基に復元した今の生身佛として、
日本・スリランカ友好親善記念の2012年10月8日に造立された。
浮図田(ふとでん)
浮図が仏陀で、それに田が加わり仏陀を表す。
仏像・仏塔が稲田のように並ぶ場所という意味。
元興寺は興福寺大乗院の菩提場所だったこともあり、僧侶の名前が刻まれた
ものも多く含まれる。
2500余基の石塔・石仏類は寺内及び周辺地域から集まったもので、
新たに田圃の稲の如く整備された。
中世紀に当寺や興福寺大乗院関係の人々、近在の人達が浄土往生を願って
極楽坊周辺に減罪積徳作善のため造立した供養仏塔です。
極泉坊保育園発祥
昭和24年、児童福祉法に基づく保育所として元興寺境内に
極泉院保育所として開設。
奈良で最も古い保育園のひとつ。社寺と保育園、続いているのですね。
境内の役行者像
極楽坊禅室(国宝)
この堂は元興寺東室南階大坊の四坊分が残った僧房で、
禅室と呼ばれ念仏道場として著名であった。
鎌倉時代に改築された大仏様の手法を軒周りによく残している。
主要な構造部材及び礎石は奈良時代創建当初の物が残り
現在も使われている。
蛙石
伝えによるとこの蛙石は河内在所の川縁にあったものを、
秀吉が気に入り大阪城内に移した。
大阪城落城のおりには、この石の下に淀君の亡骸を埋葬したとの伝説。
落城後、いつの頃からかお堀端乾櫓から掘りをはさんだ対岸に移された。
その頃、この蛙石には奇怪な力があって、蛙石から堀に入水する人々が続いたり
堀に身投げして行方知れぬ人も必ずこの蛙石の基に浮かんでくるとか、
不思議な事が起こったと。
第二次大戦後、行方不明になっていたが、昭和33年に安置され以前にかかわった
有縁無縁一切の霊を供養して極楽蛙として成就、南無~~。
奈良町物語館
かって金堂が建っていた場所、建物内に礎石があります。
不審ヶ辻子町
猿沢池から元興寺へ向かう東側の路地。
その昔、夜になると元興寺の鐘楼にガゴゼという鬼が現れ、人々に危害を加えるので道場というお坊さんが、これを退治しようと争い、逃げる鬼を追ったが
この辺りで見失ってしまったところから不審ヶ辻子と呼ぶようになった。
塔跡
奈良時代(八世紀)の元興寺の東塔跡です。
高さ推定約五十メートルの五重塔だったが、1859年(安政六)二月二八日の夜の火災で観音堂と共に焼失。
隣接する下駄屋の焚火の不始末と言われています。上層から燃え出したため
手の下しようがなくロウソクが燃えるがごとくであったと。
こののち明治維新による興福寺五重塔の金物を取るために燃やす話しが出た時、
元興寺の塔火災の記憶が付近住民にあったために反対運動がおき、結果的に興福寺五重塔が残存できたのかも。
礎石の規模から興福寺の五重塔よりも高い塔であったとも言われています。
塔跡・啼燈籠
延享年間(1744~1747)今の大丸呉服店その頃、京の伏見に下村家あり。
代わりの燈籠を奉納して古燈籠を申し請いて自宅に運ぶ。
それ以来、夜毎家鳴り震動して家人怖れを為して、その音を聞くに燈籠より
発したれば元の如く此所に安置したりと伝ふ。
円柱にて正嘉元年(1257)の刻銘あり。市内では年号が刻まれたものとして
二番目に古い。
明治になり現奈良国立博物館の庭に展示されたが、昭和五年元興寺本堂再建時に
境内に戻されたが、焼けてもろくなっていたため昭和十九年の大地震で倒れ
細かく割れ境内に片付けられた。
平成二十二年、六十六年ぶりに元の姿に修復。
小塔院
称徳天皇が藤原仲麻呂の乱による戦没者の冥福を祈るために造り
南都十大寺に置いた百万塔の小塔を安置するために造営された院とされる。
真言律宗 本尊は虚空蔵菩薩 元興寺小塔院の系譜を引くとあります。
コロナの影響か史跡内は雑木林状態で、元興寺の面影は想像できませんでした。
元興寺へ初参拝。日本最古とありました。おおーと思いながら静かな境内をめぐりました。
御朱印いただきました。
ピンクの絨毯状態。
極楽堂。国宝だそうです。
禅室と奥が極楽堂ですが、まだらに見える瓦部分は飛鳥時代のものだそうです。良く残ってますね。
元興寺 参拝日 令和2年11月8日
西国四十九薬師霊場第五番の御朱印を頂きました
本堂
西国四十九薬師霊場宝印帳のページ
西国四十九薬師霊場第五番の御朱印
日本最古の瓦がお屋根に残されていることで有名ですが、季節の花でいっぱいのこのお寺さんは私の大のお気に入り。
今年は萩の花がすごいでぇ〜!!と御朱印を書きながら寺務所の方が何度もおっしゃいました。
東門
ならまちの中心。
正面が極楽堂。御本堂です。
見事な曼荼羅がありました。
極楽堂の屋根。
色の違うものが飛鳥時代の瓦。
青空に映える萩と極楽堂
禅室と白萩。
仏足石がありました。
古い石塔がいっぱい。
極楽堂から禅室。
横には無数の石塔が続きます。
弁天様
咲きはじめの彼岸花
赤萩
白萩。満開でした。
蹲に花。
絵になりますね。
白の彼岸花
夏の名残の芙蓉
竜胆かな?
イワギキョウ?
百日紅。こちらも、もうそろそろおわり。
シュウメイギク。
なんて涼やかなんでしょう。
桔梗
紫式部
曼荼羅の御朱印。
自分への誕生日プレゼント。
奈良市の元興寺にて。
西国四十九薬師霊場。
街なかの細い道路沿いにあります。
駐車場もあります。
御本尊の御朱印。
お地蔵さんの御朱印。
西国四十九薬師霊場の太字。
西国四十九薬師霊場の御詠歌。
西国薬師観音霊場5番札所。蘇我馬子の建てた法興寺(飛鳥寺)が遷都のときに移築されたもの。
最初こっちに行きました。塔の跡があるとこ。
雨風がひどくて写真撮れませんでしたが、大きい石がありました。興福寺五重塔より大きかったとか。
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