かとうじんじゃ
御朱印・神社お寺の検索サイト
楽しみ方加藤神社のお参りの記録一覧
絞り込み


【加藤神社】
御祭神
主祭神 加藤清正公
陪神 大木兼能公
韓人金官公
加藤清正公【永禄五年(1562)~慶長十六年(1611)】 は、 戦国時代の智仁勇兼備の模範的武将として、また、熊本に於ては、日本三名城・日本三堅城の一つである熊本城の築城と、それにははじまるところの富国安民の国づくり政策を推し進められた方。
清正公の五十年の人生は、実に至誠にして高潔なる人格者であり、いつの時代に於ても尊崇敬慕されるにふさわしい理想的日本人であられるとともに、熊本県民にとっては、熊本発展の礎となる有形無形の役割を果された大恩人で、清正公をお祀り申し上げる加藤神社は、肥後総鎮護と言うべき神社です。
もっと読む
賀正 本年もよろしくお願いします。
加藤神社 名城熊本城
主祭神 加藤清正公
社格等 旧県社
創建 明治4年(1871年)
本殿様式 流造
別名 錦山神社
例祭 7月第4日曜日(清正公(せいしょこさん)祭り)
元は慶長16年(1611年)の清正公の歿後に清正公を祀った浄池廟でした。慶長19年(1614年)、火災で焼失した本妙寺が浄地廟に移されました。 神仏分離により明治元年(1868年)、浄地廟の儀式を神式で行うこととなり、同4年(1872年)、浄池廟・本妙寺より神社を分け、熊本城内に社殿を造営して錦山神社とされました。場所は大天守、小天守、宇土櫓に囲まれた平左衛門丸で、また同年大木兼能と金官を合祀されました。同7年(1875年)、熊本城内に熊本鎮台が置かれるのに伴い、城外の新堀町(現在の京町一丁目)に遷座し、翌8年県社列格、同10年(1878年)2月、西南戦争により社殿を焼失し(神体は健軍神社に避難していました)、明治17年に再建されました。
明治42年(1909年)に、錦山神社から加藤神社に改称。乃木希典大将も加藤清正公を信仰されていたこともあり、各地に分霊を祀る加藤神社ができたそうです。
加藤清正公を祭る神社は一時90社を数えましたが、一部例外(鹿児島県など)を除き全国的に分布しますが、その約半分は熊本県内にあります。
(八代市 貝洲加藤神社等)
昭和27年(1952年)、宗教法人加藤神社となり、同37年、道路改修のため、熊本城内の現在地に遷座されました。
~・~・~・~
~日本三大名城『熊本城』~
2016年(平成28年)の熊本地震により大きな被害を受けましたが、2021年6月からは、天守閣内部の観覧が再開されました。
世界遺産「姫路城」は別格として、
「江戸城」「名古屋城」「大坂城」「熊本城」
の4城のひとつになります。
別名
千葉城(出田氏)、六実城、隈本城(鹿子木氏、菊池氏、城氏、佐々氏、加藤氏半国期)、銀杏城
城郭構造 梯郭式平山城
天守構造 連結式望楼型3重6階地下1階(非現存・1600年築)
外観復元(RC造 1960年再) 築城主 出田秀信(千葉城)、鹿子木親員(隈本城)
築城年 1469年~1487年頃
主改修者 加藤清正公
主城主 加藤氏、細川氏
廃城年 1874年
遺構 櫓・門・塀、石垣、堀 指定文化財 国の重要文化財:櫓11棟、門1棟、塀1棟 国の特別史跡:熊本城跡 再建造物 外観復元:大小天守、平櫓 木造復元:西大手門、数奇屋丸二階広間、南大手門、西出丸戌亥櫓、未申櫓、元太鼓櫓、飯田丸五階櫓、馬具櫓、本丸御殿大広間
🌸肥後六花と再春館
再春館(さいしゅんかん)とは、熊本藩の第6代藩主細川重賢が宝暦6年(1756年)に設立した藩校(医学校)。北里柴三郎らを輩出しました。熊本大学医学部の前身です。多くの寮をもち、また講堂、植物園を備えています。宝暦6年12月21日付細川家文書が残っています。
(御朱印等は後日整理でき次第UPさせて頂きます)
熊本市中央区本丸2―1
もっと読む


熊本県のおすすめ🎌
最新の限定御朱印情報が届く!
御朱印メルマガを受け取ろう
利用開始をもって利用規約・プライバシーポリシーに
同意したものとみなします。

ホトカミで困ったこと、不具合のご報告はこちらから
お問い合わせ

























































