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こうとくいん|浄土宗大異山 (大異山高徳院清浄泉寺)

高徳院のお参りの記録一覧
神奈川県 長谷駅

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かおり
かおり
2023年08月22日(火)1801投稿

浄土宗の高徳院と人に言っても「それどこ?」と聞かれるが、「鎌倉の長谷大仏」と言うと、殆どの日本人はわかると思う。
なんといっても、こちらの見所は鎌倉時代から在る大仏だからだ。
あまりの人の多さ、しかもインスタ映え、自撮り大好きな外国人観光客の多さに門の写真を何枚も写すも削除した。涙・・・
当日は、猛暑の為、胎内には入れないとなっていた。
だが、個人的な感想だが、思っていた以上に広くない。多分、外国人観光客に呑まれてしまい、ゆっくりと観る事が出来ない事もあるのかもしれないが。
近辺のあまり観光客が来ないお寺や神社の方が落ち着くかな。
ごめんなさい!!個人の感想です。

ということで、ここから五木寛之先生の著書の紹介をいたします。

鎌倉と言う街は、正面に海があり、三方を山に囲まれて、外敵が侵入しにくい軍事都市だった。新しい都を形成した武士にとって、街そのものが要塞の役目を果たしていたと言えるだろう。
しかし、設備には役に立つものの、政治の中心として人とモノの行き来が頻繁になると、恵まれた地形が逆に、交通の妨げともなってしまう。そこで幕府は、山を削って人が通れるだけの切り込みを入れ、道を造った。これで、外部との陸路での行き来と、敵の侵入を食い止める形態が両立出来た。
この道を「切通し」と呼ぶ。おもなものが鎌倉全体に七ヶ所あるのだと聞いた。鎌倉の西南にある極楽寺の切通しから時計回りに、大仏坂、化粧坂、亀ヶ谷坂、巨福呂坂(こぶくろざか)、朝比奈、名越。巨福呂坂は建長寺のそばを通る切通しだ。
幕府は切通しを厳重に注意して土塁を築き、防御に手を抜かなかったと言われる。「切通し」という言葉の響きから、切り立った崖の間を整備された道が通じている様子を思い描いていたのだが、まったく違った。道は険しく、どこへ迷い込んでいくのかと不安になるほど、カーブしたり、急勾配だったりした。
途中、急峻な斜面に大きな岩が露出したところがあった。よく見ると、横っ腹がえぐられたようにくぼみが出来ている。足を滑らせながら。近くまで上がって見た。くぼみはきちんと長方形の石室に掘られている。これが話に聞いていた「やぐら」だ。
やぐらというのは、鎌倉地方に独特の、岩山に穴を掘って造る墓のことだ。鎌倉中期から室町時代にかけて造られたという。
こうした横穴式の墓と言うのは、土地の少ない鎌倉に墓を造る知恵だったらしい。このあたりには、このような形式の墓が非常に多く、その数は三千とも五千とも言われる。
うっそうと茂る木々に阻まれて、日差しもまばらな切通しを歩いていると、まるで中世にさかのぼっていくような錯覚に陥る。
中世まで思いを馳せたところで、切通しを引き返し、高徳院の正面まで移動した。高徳院は鎌倉大仏を有する寺だ。やはり「鎌倉の大仏」と言えば、観光の名所なのだろう。平日とはいえ、団体客やグループでの観光客が目立つ。しかし、門の外からは全く大仏の姿を拝むことは出来ない。
「大異山」と山号が書かれた仁王門をくぐる。巨大な仏像が屋外に祀られているのだから、すぐに目に飛び込んでくるかと思っていた。ところが、門を入ってすぐのところは中庭になっており、塀に遮られてか、まだ見えてこない。
さらにもう一つの門をくぐっても、目の前には「洗水舎」という水屋があり、その背後には松の木立が密集していて肝心の大仏はまだ、見えない。
はやる気を抑えて、松木立の壁をやりすごして左に曲がった。すると、低い山並みと青空を背景にして、大仏が静かに坐しておられたのである。
なるほど、心憎いばかりの演出だ。表の県道からは一切見えないようになっているし、境内に入っても、こうして正面まで来なければ拝する事が出来ない。
そして、ようやく青銅色の大仏と対面すると、そのすがすがしい姿に心がすっと落ち着いていくのを感じた。

俗に「鎌倉大仏」の呼び名で親しまれているこの大仏は、阿弥陀如来である。あの与謝野晶子が感銘を受けただけのことはある。ただ巨大というだけでなく、その凛々しい顔立ちがとても特徴的なのだ。ちょっとうつむきがちに目を前傾させ、目を半眼にして坐しておられる。
インドによく見られる仏像のような、生命力にあふれる感じではない。目元から口元あたりにかけて、なんとなく少年を思わせる繊細な感じもあって、ある種の憂いを含んでいるような、近代的ないい表情である。
対面すると、まるで懐に抱かれるような温かさを感じる。

作家の永井路子さんは「鎌倉の寺」という本で、この大仏の作られた理由を次のように書いた。
「これは私の考えに過ぎないのだが、この大仏の作られた建長年間の直前、北条氏はライバル三浦氏を滅ぼしている。この時の合戦は、三浦一族数百人がことごとく討死するという凄惨苛烈なものだった。とすれば、その直後再建された大仏には、血塗られた手をもつ北条氏、すなわち幕府側の、ひそかな鎮魂の思いが込められていたのではなかったか。しかもこの地が、北条氏の外戚でもあり、三浦打倒に最も活躍した足立氏の館に近いことも、何かを暗示してしるように思われてならないのだが」
本当に不思議な大仏だ。すべてが推論であり、謎はまた謎を呼ぶ。

日本では、平安時代の中頃から浄土信仰が盛んになり、鎌倉時代になるとますます隆盛した。末法思想が広がり、極楽浄土へ行く事が人々の切なる願いであったのだ。
鎌倉時代の念仏僧たちは。殺生を生業とする武士や、死後、地獄に落ちるかもしれないと脅える多くの人びとに対して、念仏の功徳を説き、ただ一心に「南無阿弥陀仏」と唱えるように勧めた。
鎌倉武士と言えば、すぐに禅宗に結びつく。しかし、高徳院を訪ねて、私はそれだけではないのではないかと思うようになった。
常に死と隣り合わせにある武士にとって、自分を律することで心の平安を得る禅宗は支えになった。それゆえ大きな流行となったのであろう。
しかし、一方では、死と隣り合わせにあるがゆえに、極楽浄土を願う浄土信仰も必要だったのではないかと思うのだ。
力や意志の強さを自覚する武士たちは、自分の力で真理に向かって進もうとして、禅宗に惹かれる。しかし、殺生を生業とし、いつ死ぬかもしれぬ身であることを考えれば、たとえ殺生という大罪を犯した直後であっても救われていたい。その希望に応えたのが浄土宗であると考えられる。
こうして、鎌倉の地で武士たちは禅と浄土信仰という両方の考えを支えにして、死と隣りあった時代を生き抜いたのに違いない。大きな阿弥陀如来は、そうした時代の象徴のような存在だったとは言えないか。

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なべぺい
なべぺい
2024年05月23日(木)236投稿

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