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曹洞宗 龍祥山

勝國寺
神奈川県 蒔田駅

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かおり
かおり
2023年01月02日(月)
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ここの寺に行ったのは本当に偶然であった。蒔田にある無量寺から西森稲荷に行こうと自転車を走らせており、遠回りをしてしまったのだった。

伺った日、広い境内では沢山の檀家さんが庭の手入れをされていた。
桜の樹、藤棚、その他。
冬に訪れたのは実に勿体ないと思うほどの植木達であった。
しかも丁寧に手入れされていた。
檀家さんらの菩提寺を想う心が垣間見えるようであった。

さて、このお寺。以前あった蒔田城の下にある。今は蒔田城は青山学院付属小学校の土地にあるのだが。
蒔田城は世田谷城主・吉良成高の子で、北条氏綱の娘婿である吉良頼康の居城です。一般に頼康の築城とされていますが確証はない。頼康は「蒔田殿」と呼ばれ、北条氏が吉良氏を重要視していたことが窺える。1590年(天正18年)に北条氏が滅亡すると吉良氏も所領を失い、廃城となった。当主・吉良氏朝は旧領である世田谷の実相院に篭居しますが、氏朝の子の頼久は徳川家康に仕え、姓を蒔田に改めた。

この城跡の東南麓にある龍祥山勝國寺は吉良氏の菩提寺とされ、4基の五輪塔が「吉良家の供養塔」として横浜市地域史跡に登録されている。

ということで、かなりの歴史ある趣のある寺なのだ。

桜の季節が素晴らしいので、その時にきてください、と多くの檀家さんに言われた。本当に親切な方々だった。

寺で飼われている山羊のまいちゃん。
御朱印には、まいちゃんのハンコも押されている。
可愛い。

勝國寺の御朱印
勝國寺(神奈川県)
勝國寺(神奈川県)
勝國寺の山門
勝國寺(神奈川県)
勝國寺(神奈川県)
勝國寺(神奈川県)
勝國寺(神奈川県)

境内には豊川稲荷も祀られている。
蒔田地域は、お稲荷様を大切にするのだろうか。すぐ近くの西森稲荷神社もそうであるし、五穀豊穣を願う精神がある。
そして、神仏習合として面白いのだが、豊川稲荷の前で般若心経を唱えるのだ。

勝國寺(神奈川県)
勝國寺(神奈川県)
勝國寺(神奈川県)
勝國寺の動物
勝國寺(神奈川県)
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歴史

勝國寺は、龍祥山と號し、中區蒔田町字會下九百三十二番地にある。
境内は千八百九十六坪。官有地。東京府南多摩郡恩方村下恩方心源院の末寺で、二等法地三十級である。

沿革
文明十一年、吉良左京大夫政忠が先考賴高追福の爲めに開基した所と云ふ。
政忠は文龜二年六月十七日卒して、當寺に葬り、法名を勝國寺殿照岳道旭大居士と諡つた。
父の追福の爲め建てた寺であれば、父の法名を取つて名づくべきに、政忠自身の法名を取ることは理由無いと思ふ。
然るに世田ヶ谷私記に「蒔田村勝國寺住持の曰、開基の節は靈應寺と云ふ。
中興開基は吉良左京大夫政忠朝臣にして、勝國寺と改給ふと云。」とあるを見れば、政忠が父の追福の爲めに建てたと云ふことは疑はしくなつてくる。
思ふに此寺、關東公方から蒔田を吉良氏に與へた後の中興で、卽ち成高が父政忠の爲めに創立したと解するが妥當であると思ふ。
吉良氏の事、詳に政治編第一に述べてある。政忠の墳墓は當寺の後丘にあつて、五輪塔である。
永祿三年十二月二十六日、政忠の孫、左兵衛佐賴康が其養子氏朝と連署を以て、當寺外六寺に宛てゝ安堵状を出した。
此文書は今尙荏原郡碑衾村大字衾の東岡寺に傳はつてゐる。
賴康は永祿四年十二月五日卒去し、當寺先塋に葬つた。
法名を勝光院脫山淨森居士と云つた。
元祿四年、梵鐘を鑄造し、其後廔〻無住となり、且つ三囘の囘祿の厄を重ねたので、寺運大に衰へたが、開港後、檀徒の增加を得たので、明治十六年、桁行六間半、梁間六間半の本堂の再建を遂げた。
大正十二年九月一日の大震災に、本堂・總門、竝に境内祠堂 天滿宮・白山權現合祀。等破壊顚倒の慘害を被つたが、直後、庫裡を假造して、假本堂に充て、以て今日に及んで居る。

本尊
本尊は華嚴釋迦牟尼如來・脇侍文珠菩薩・普賢菩薩である。武藏風土記稿には、吉良賴康の納めた地藏尊を安置すと載せてあるが、今は失つてない。

堂宇
現今の本堂は、庫裡兼帶で、桁行九間半、梁間六間の草葺である。元の本堂は桁行八間、梁間八間、四注造の草葺であつたが、震災に倒潰した。

境内祠堂
天紳・御嶽相殿の祠堂があつたが、地震に倒潰して、未だ復興を見ない。(「横浜市史稿 佛寺編」より)
https://tesshow.jp/yokohama/minami/temple_maita_shokok.html

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名称勝國寺
御朱印あり

限定御朱印なし
電話番号045-731-2524
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ホームページhttps://tesshow.jp/yokohama/minami/temple_maita_shokok.html

詳細情報

ご本尊ご本尊は華嚴釋迦牟尼如來
脇侍尊 文珠菩薩・普賢菩薩
境内社 豊川荼吉尼真天(お稲荷様)
山号 龍祥山
宗旨・宗派曹洞宗
創建時代文亀2年(西暦1502年)
開山・開基吉良左京大夫政忠
ご由緒

勝國寺は、龍祥山と號し、中區蒔田町字會下九百三十二番地にある。
境内は千八百九十六坪。官有地。東京府南多摩郡恩方村下恩方心源院の末寺で、二等法地三十級である。

沿革
文明十一年、吉良左京大夫政忠が先考賴高追福の爲めに開基した所と云ふ。
政忠は文龜二年六月十七日卒して、當寺に葬り、法名を勝國寺殿照岳道旭大居士と諡つた。
父の追福の爲め建てた寺であれば、父の法名を取つて名づくべきに、政忠自身の法名を取ることは理由無いと思ふ。
然るに世田ヶ谷私記に「蒔田村勝國寺住持の曰、開基の節は靈應寺と云ふ。
中興開基は吉良左京大夫政忠朝臣にして、勝國寺と改給ふと云。」とあるを見れば、政忠が父の追福の爲めに建てたと云ふことは疑はしくなつてくる。
思ふに此寺、關東公方から蒔田を吉良氏に與へた後の中興で、卽ち成高が父政忠の爲めに創立したと解するが妥當であると思ふ。
吉良氏の事、詳に政治編第一に述べてある。政忠の墳墓は當寺の後丘にあつて、五輪塔である。
永祿三年十二月二十六日、政忠の孫、左兵衛佐賴康が其養子氏朝と連署を以て、當寺外六寺に宛てゝ安堵状を出した。
此文書は今尙荏原郡碑衾村大字衾の東岡寺に傳はつてゐる。
賴康は永祿四年十二月五日卒去し、當寺先塋に葬つた。
法名を勝光院脫山淨森居士と云つた。
元祿四年、梵鐘を鑄造し、其後廔〻無住となり、且つ三囘の囘祿の厄を重ねたので、寺運大に衰へたが、開港後、檀徒の增加を得たので、明治十六年、桁行六間半、梁間六間半の本堂の再建を遂げた。
大正十二年九月一日の大震災に、本堂・總門、竝に境内祠堂 天滿宮・白山權現合祀。等破壊顚倒の慘害を被つたが、直後、庫裡を假造して、假本堂に充て、以て今日に及んで居る。

本尊
本尊は華嚴釋迦牟尼如來・脇侍文珠菩薩・普賢菩薩である。武藏風土記稿には、吉良賴康の納めた地藏尊を安置すと載せてあるが、今は失つてない。

堂宇
現今の本堂は、庫裡兼帶で、桁行九間半、梁間六間の草葺である。元の本堂は桁行八間、梁間八間、四注造の草葺であつたが、震災に倒潰した。

境内祠堂
天紳・御嶽相殿の祠堂があつたが、地震に倒潰して、未だ復興を見ない。(「横浜市史稿 佛寺編」より)
https://tesshow.jp/yokohama/minami/temple_maita_shokok.html

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