むりょうじ|高野山真言宗|南龍山
無量寺
神奈川県 蒔田駅
御朱印受付時間:9時~17時
杉山神社の帰りに立ち寄りました。
御朱印をいただくたびに日付と共に「お天気マーク」の印を押してくれます。
元旦ということもあり、お参りだけ済ませました。
境外にある地蔵菩薩です。
本堂です。
失礼ながら、横浜市南区蒔田と言えば、今や、「大山ねずの命」という、おかしな新興宗教がかなりの土地を買い占め、幅を利かせている。それは、まるで、奈良県天理市における天理教のようだ。
私は、こういった熱狂的な宗教が怖い。
そんな中にあって、鎌倉時代に創建された、こんな落ち着いた自然豊かな寺院があったことに感激を覚えたのだった。
対応してくださった女性が、色々と親切に歴史を教えてくださった。
源範頼の側室の子が創建したこと。高野山で修行したから、高野山真言宗の寺院であること。
「鉄縛り」と書いて、「かなしばり」と読むのだが、それは寝ている時の金縛りではなく、泥棒が入った時に、その泥棒が動けなくなった、という事からの金縛りなのだそうだ。
良いお寺に出逢えて感謝であった。
承元3年、貞暁上人の創建によるもので霊像不動明王が祀られている。貞暁は源範頼の子として鎌倉にうまれたが、故あって幼少より仏門に入り、紀伊の国高野山で修行に専念した。
頼朝の死後、幕府は政権の安定を欠いたが、幕府創業の功臣執権北条時政は貞暁を将軍職として鎌倉に招聘した。貞暁は途上、蒔田の宿場に着いたが、その夜、持仏である不動明王が夢枕に立ち、「汝鎌倉に入るとも、世は既に北条の天下である。旬日のうちに運命の厄に遭わん。宜しくこの難を避け、菩提の道を得られよ」とのお告げを受けた。貞暁は深く時局を洞察して、入府を断念し、時政に告げた。時政は上人の清い信心を讃え、鎌倉法印の称号と禄を以て遇した。この奇縁によって、蒔田の山麓に御堂を建て不動明王を本尊として安置し、南龍山不動院無量寺と号し、貞暁は当山の開祖となった。以来、鎌倉鎮護寺として発展したが、寛永11年の火災で什宝を焼失し、近くは大正12年の関東大震災で堂宇を烏有に帰するなど興廃変遷した。昭和8年十法壇縁の協力を得て、桃山式堂宇の造営を見るに至った。前大戦中の昭和20年5月の横浜大空襲で炎滅するところ、近隣者の救援によって消失を免れた。本尊不動明王は平安末期の代表的な仏像で「鉄縛り不動」(かなしばりふどう)として親しまれている。
菅義偉先生の事務所の近くにあります
密室殺人ではこの人!という、ジョン・ディクスン・カーの足跡が付いていないトリックを想い出し、足跡が付かないように歩く。
21.10.30。先の自性院さんより「上永谷駅」に戻り、地下鉄で「蒔田駅」下車、徒歩2分。横浜市南区蒔田町にある高野山真言宗寺院。
正式名:南龍山 不動院 無量寺。
創 建:承元3年(1209年)。
開 基:貞暁上人。
開 山:貞暁上人。
本 尊:不動明王。
《武相二十ハヶ所不動霊場第16番札所》
《新四国 東国八十ハヶ所霊場第55番札所》
貞暁は源頼朝の子として鎌倉に生まれたが、故あって幼少より仏門に入り、高野山で修行に専念した。
頼朝の死後、幕府は政権の安定を欠いたが、幕府創業の功臣執権北条時政は貞暁を将軍職として鎌倉に招聘した。貞暁は途上蒔田の宿場に着いたが、その夜持仏である不動明王が夢枕に立ち、『汝鎌倉に入るとも世はすでに北条の天下である。旬日のうちに運命の厄に遭わん、宜しくこの難を避け菩提の道を得られよ』とのお告げを受けた。
貞暁は深く自局を洞察して入府を断念し時政に告げた。時政は上人の信心を讃え鎌倉法印の称号と禄を持って遇した。この奇縁によって、蒔田に御堂を建て不動明王を本尊として安置し、南龍山不動院無量寺と号し、貞暁は当山の開山となった。(後略)
〜当山HPより〜
「ホトカミ横浜御朱印めぐリ」⑥ 横浜の幹線道路から少し入り、市営地下鉄蒔田駅の直ぐそばで、付近は各種店舗や住宅もある結構賑やかな場所です。神社仏閣の特有さで一歩境内に入ると静けさがあり、落ち着いて参拝出来ました。
ご本尊。
門前(入り口)。
→左側建物は幼稚園です!
寺号標。
地蔵堂。
門柱。
左に寺号!
右に宗派名!
参道の石橋。
橋の袂の蛙さん!
参道。
本堂。
本堂右サイドより!
寺務所・庫裡方向。
→こちらで直書きの御朱印を拝受しました。
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