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はにつじんじゃ

土津神社|こどもと出世の神さまの御由緒・歴史
公式福島県 猪苗代駅

歴史詳細情報

ご祭神:保科正之(1611〜1672年)

 江戸幕府初代将軍徳川家康公の孫、徳川二代将軍秀忠公の四男、三代将軍徳川家光公の異母弟。幼名「幸松」。母は秀忠公の乳母の侍女・お静。

 秀忠公の正室・お江の方は、非常に嫉妬深く、秀忠公に側室を持つことを認めなかったため、お静の方は密かに男子を産み、武田信玄公の娘の信松院や見性院に匿われて育ちました。

 7歳で信州高遠城主保科正光の養子になり、21歳で高遠3万石、26歳で山形最上20万石、33歳のときに会津23万石の城主になりました。それから会津藩は三代藩主正容から松平姓となり幕末まで続きました。

「武断政治」から「文治政治」への転換

 敬(つつしみ)の精神で心をまっすぐに整え、義を守り自分の行いを正しくする。正之公は、この「敬内義外(けいないぎがい)」の精神を心の中心に据え、会津藩政、そして幕政に臨み、力によって押さえつける「武断政治」から信頼関係の構築に基づく「文治政治」へと移行して265年に渡る徳川幕府の基礎を築きました。

會津藩政

 會津藩主のときには、正確な石高の算出による「年貢の適正化」や米を備蓄し飢饉時に貸付する「社倉制度」、世界初の年金制度とも言える「養老扶持」を設けるなど民政に力を注ぎました。

 経済においては、漆や蝋などの藩外持ち出しの制限や漆木の伐採を制限するなど産業の育成と振興に努めました。

 教育においては、朱子学を藩学として奨励、また、後の日新館(会津藩士子弟の教育機関)となる日本初の民間学問所「稽古堂」の税金を免除するなど奨励し、藩士の子弟教育に尽力、好学尚武の藩風を作り上げました。

 また、正之公が暦学者・渋川春海に暦作り(貞享暦)を命じたことから、會津では天文学が盛んで、日新館でも天文学を取り入れた授業を行っていました。天文台は、弘前藩(青森県)、水戸藩(茨城県)、薩摩藩(鹿児島県)などの藩校でも建てられましたが、暦作りが終わると壊されたため、日新館天文台跡が現存する唯一の天文台跡で日本最古のものになります。平成31年3月13日には、日本天文遺産の認定第1号に選ばれています。

 さらに、会津藩の精神的支柱であり行動の規範となった「會津家訓十五箇条」を制定し、幕末まで続く文武両道の會津藩の基礎を築きました。

①正確な石高の算出による「年貢の適正化」

②旅人が医療を受けられる仕組み「救急医療制度」

③産子を殺す悪習「間引きの禁止」

④飢饉時に貧農・窮民を救済した「社倉制度」(明暦元年/1655年)

⑤90歳以上の高齢者に1日玄米5合を支給する「養老扶持」(寛文3年/1663年)

⑥日本初の民間学問所「稽古堂」の奨励(寛文4年/1664年)

⑦會津藩の憲法である「會津家訓十五箇条」(寛文8年/1668年)

江戸幕政

 慶安4年(1651年)徳川三代将軍家光公は、臨終に際し、正之公を枕頭に呼び寄せ「肥後(=正之公)よ宗家(=徳川家/家綱公)を頼みおく」と遺言しました。

 家光の死後、正之公は遺命により甥の四代将軍家綱公の輔佐役(大政参与)として幕閣の重きをなし、「玉川上水の開削」や将軍家綱の三大美事と高く評価された「末期養子の禁の緩和」「殉死の禁止」「大名証人制度の廃止」などを実施し、文治政治を推し進めました。

 明暦3年(1657年)、江戸の2/3を焼失させた明暦の大火後の復興政策では、火除け地としての上野広小路の設置、両国橋の新設、芝と浅草の新堀開削、神田川の拡張などに取り組み江戸の防災性を向上させました。

 焼け落ちた江戸城天守の再建に際しては、「実用的な意味があまりなく単に遠くを見るだけのものであり、城の守りには必要ない」「無駄な出費は避け、都市整備に充てるべき」と意見し、江戸城天守は再建されませんでした。

 また、暦法について、貞観4年(862年)から宣明暦をもとに暦を作成していましたが、800年以上に渡って使用していたため暦と日蝕や月蝕などの天の動きが合わないことが問題となっていました。そこで、正之公は天文暦学者・神道家の渋川春海を寵遇し、改暦を命じました。渋川が作成した「貞享暦(じょうきょうれき)」は後の太陰暦の基となり、渋川は江戸幕府の初代天文方を務めています。

①各藩のお家断絶を減らした「末期養子の禁の緩和」(慶安4年/1651年)

②優秀な人材の喪失を防いだ「殉死の禁止」(慶安4年/1651年)

③江戸市民の飲用水の安定供給に貢献した「玉川上水の開削」の建議(承応2年/1653年)

④明暦の大火からの「江戸復興・防災都市整備」(明暦3年/1657年)

⑤大名及びその重臣から人質を取っていた「大名証人制度の廃止」(寛文5年/1665年)

⑥渋川春海への日本初の和歴「貞享の改暦」の命(貞享2年/1685年)

土津神社の建立

 「土津」の霊号を奉られた際、「余の没後は神道の礼をもって磐椅神社の神地に葬ってもらいたい」という遺書を老臣たちに与えて、御子・正経公に伝えさせました。

 正之公は、寛文12年(1672年)8月21日に自ら猪苗代に参られ見禰山に登って墓地を定め、「我が身はここに納めてくれ」と家臣に命じられ、「万代と 祝ひに来にけり 会津山 高天の原に すみかもとめて」と詠まれました。吉川惟足は傍らにあって、御歌に応えて「君ここに 千歳の後の すみところ 二葉の松は 雲をしのがん」と詠じ、正之公はことのほか感じ入られて帰城されました。

 同年12月16日、江戸に戻られた正之公は容態すぐれず、老臣・友松勘十郎氏興を病床にお呼びになり葬事奉行を命じられ、戸板真五郎を副役として後のことを託されました。同月18日ご逝去。そこで、友松勘十郎氏興は正之公の遺命の通り神道の礼を尽くして見禰山に葬り、吉川惟足を招いて葬事を行わせました。

 遺言により二代藩主正経が家老の友松勘十郎氏興に土津神社の建立を命じ、延宝元年(1673年)神祇官領長・吉田兼連がご神体を奉じて仮殿に安置。このときより、壮大にも壮麗な神殿の営築を開始し、延宝3年(1675年)8月19日落成。同月23日正遷宮の式を行い、御神体を正殿に安鎮し、磐椅神社の末社とされました。

 正之公は、この地が若松城(鶴ヶ城)の丑寅の方角(鬼門)にあたることからこの地に眠ることで會津藩を守ろうと考えたようです。

 重厚な感時門や廻廊、透塀などを持つ荘厳華麗な神殿造りの社殿は「東北の日光」と言われましたが、戊辰戦争で消失し、明治13年(1880年)に拝殿などの主な部分が再建されて現在に至っています。

「土津」の由来

 「土津」は、「万物の理(神道の奥義)を究められた会津藩主」という意味です。

 正之公は、晩年に至るまで神道を尊信し、吉川惟足を師としてもっぱら吉田神道(卜部神道)の伝を学び、道の奥義を極められ、寛文11年(1671年)に吉川惟足から霊号を「土津」と奉られました。

 五行思想では「木・火・土・金・水」から万物がなると考えます。その中でも「土(つち、はに)」は、​​宇宙構成要素の根本であって、土から生まれ土に還ると言うように万物の始めと終わりを象徴するもので、その理を体得したことから、會津の「津(つ)=會津藩主」と合わせて「土津」と名付けられました。

東北の日光

 創建当時のお宮は、重厚な感時門や廻廊、透塀などを持つ荘厳華麗な神殿造りの社殿で、徳川家康公を祀った日光東照宮になぞらえて「東北の日光」や「奥日光」、「裏日光廟」と称され、東北の諸大名は参勤交代の折りに日光東照宮とともに必ず立ち寄っていたそうです。

 現在のお宮は、明治13年(1880年)に再建されたものです。

 平成28年に大須賀清光作の『土津神社図屏風』が発見されました。戊辰戦争で焼失する以前の土津神社の姿を描いたものです。これまでも当時の姿を描いた絵図はありましたが、奥津城と一緒に、かなり引いた視点で平面的に描かれたもので、下記画像のようにお宮に焦点を当て、立体的に描かれたものは貴重です。的場や宝殿、神馬舎などの姿も見て取れます。

相殿神:會津松平家3〜9代藩主

 仏式で葬られた2代藩主正経を除く會津歴代藩主が相殿神として祀られています。

 正之公は幕府より松平姓を名乗ることを勧められていましたが、養育してくれた保科家への恩義を忘れず、生涯保科姓を通しました。3代正容公になって松平姓と葵の紋を使用し、親藩に列しました。

相殿神

  • 松平正容:會津松平家3代藩主
  • 松平容貞:會津松平家4代藩主
  • 松平容頌:會津松平家5代藩主
  • 松平容住:會津松平家6代藩主
  • 松平容衆:會津松平家7代藩主
  • 松平容敬:會津松平家8代藩主
  • 松平容保:會津松平家9代藩主

相殿客神:武内宿禰

 武内宿禰(たけしうちのすくね)は、第12代〜第16代の各天皇に仕えたという伝説上の忠臣です。紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏など中央有力豪族の祖ともされ、記紀神話においては、歴代の大王に仕えた忠臣像、長寿の人物像、神託も行う人物像等が特徴として描かれています。

 応神天皇のとき、武内宿禰が磐椅山の山頂に祭神を祀ったことから磐椅神社が創建されたとされており、土津神社が磐椅神社の末社であることと、徳川宗家への忠義の心が篤かった正之公を始め、その家臣たちも忠臣であったことから祀られたものと考えられます。

會津五社寺

 嘉永5年(1852年)に會津の総合番付「若松緑高名五幅対」が発行されました。先に紹介した大須賀清光が制作者とされており、會津五桜(高名桜)も記載されています。

 この「若松緑高名五幅対」に會津五社寺(御家元)として「見禰山御神社(=土津神社)」が記載されています。

御家元

  • 見禰山御神社(土津神社)
  • 蠶養國神社
  • 伊佐須美神社
  • 柳津虚空蔵
  • 日新館聖堂

大義の道-レイライン-

 徳川家康公にまつわるレイラインに、不死の道・太陽の道・北極星の道があります。

 不死の道は、日光東照宮−世良田東照宮−富士山−久能山東照宮を結んだものですが、日光東照宮と土津神社を結ぶと続いてきれいなラインが引けます。

 徳川家への忠義の表れとして鎮座地として会津・猪苗代の地を選んだのかもしれません。当社では【大義の道】と呼んでいます。

 また、鎮座地が鶴ヶ城の北東にも当たることから、鶴ヶ城の鬼門鎮守・會津守護神としての役割を持っています。

田中三郎兵衛正玄(1613〜1672年)

 15歳で高遠時代の正之公に仕え、城主不在の藩政を正しく執政して正之公の絶大な信頼を得ました。

 幕府の大老・土井利勝をして「天下に名家老が三人いる。中でも会津の田中正玄は特に優れている。」と言わしめた名家老です。

 正之公は自らの墓地を見禰山に定め、帰途正玄の墓に立ち寄って「正玄ここにあるか、我も近く参るぞ」と言い、供の者は皆、涙を流し仰ぎ見ることができなかったと言われています。

 正玄は、土津神社にほど近い土田堰沿いの林の中に静かに眠っています。

山崎闇斎(1618〜1682年)

 儒学者・神道家。儒書の講義、書物の編纂など藩の思想上に及ぼした影響は大きく、會津家訓十五箇条の制定などに関わり文武両道である会津藩の基礎確立の原動力となりました。

服部安休(1619〜1681年)

 織田信長とともに本能寺の変で亡くなった森蘭丸の孫にあたり、土津神社の初代神官を務めました。

 林羅山に学んで儒学を修め、学問をもって正之公に仕えました。後に正之公の神道研究の糸口を開き、自らも吉川惟足の門に入って奥義を極めました。

 藩内を巡って「会津神社志」と、その改訂版の「会津神社総録の編纂」に貢献し、会津領神社管領となって寺社の取り締まりにあたりました。

友松勘十郎氏興(1622〜1687年)

 正之公に家訓の制定を建言するなど絶大な信任を得て初代正之、二代正経と43年に渡って藩主に仕えました。

 武芸にも通じ、和歌をもたしなみ、厳格方正で家老となっても少しも私意を挟むことがなかったと言われています。

 正之公の葬儀、土津神社の建立、土田堰の開削などの総指揮を務めました。土田新田開発の恩人として土田集落内に忠彦神社として祀られています。

ご祭神【主祭神】保科正之
【相殿神】松平正容/松平容貞/松平容頌/松平容住/松平容衆/松平容敬/松平容保
【相殿客神】武内宿禰
創建時代延宝3年(1675年)
創始者保科正之
ご由緒

<概要>
會津守護神 土津神社(Hanitsu Jinja)。會津藩祖【保科正之】公を始め、會津歴代藩主お祀りしています。延宝3年(1675年)創建で、福島県猪苗代町・会津磐梯山の麓、磐梯朝日国立公園内に鎮座しています。會津五社寺の筆頭、『こどもと出世の神さま』です。
境内には保科正之公の奥津城(お墓)があり、国の史跡に指定されています。
保科正之公は、江戸幕府二代将軍・徳川秀忠公のご落胤で、初代将軍・家康公の孫、三代将軍・家光公の異母弟にあたります。家光公と四代将軍・家綱公を輔佐し、幕閣に重きをなしました。「敬内義外」の精神を中心に据え、會津藩政、幕政に臨み、武断政治を転換し、信頼関係に基づく「文治政治」を確立しました。

<主祭神:保科正之>
會津藩祖。江戸幕府初代将軍徳川家康公の孫、三代将軍徳川家光公の異母弟。家光公と四代将軍家綱公を輔佐し、幕閣に重きをなした。日本史上屈指の名君との呼び声も高い。

<ご神徳>
敬義の神、努力・哲学の神、率先垂範の神、立志出世の神、政・社会福祉の神、好学尚武の神、土と水の神、産業の神、厄除の神

<ご利益>
○保科正之公
會津守護、大義成就、心願成就、指導成就、立志出世、幸福成就、学業成就、武芸上達、五穀豊穣、産業発展、旅行安全、交通安全
○土津神社鎮座地
厄除け、鬼門封じ、方位除け
○會津葵(二葉葵)
縁結び、夫婦円満、家内安全
○贔屓・高野槇
健全成長、健康長寿、金運招福、商売繁盛
◯鉛套弾
勝利、強運、難局打開

<土津神社道/Way>
■理念
人生に彩りと潤いを。

■私たちが伝えたいこと/Message
暮らしに余白を。

■私たちの使命と未来の姿/Mission & Vision
○使命/Mission
幸福感受性の回復
○Vision
人生を豊かにする精神的な学びを提供すること
「ささやかな幸せを感じることのできる心の拠り所」となること

■行動基準/Value
○敬内義外
敬(つつしみ)とは、つつしみあざむかないこと。敬(つつしみ)の心で精神をまっすぐに整え、義を守り自分の行いを正しくする。義に死すとも不義に生きず。
○浄明正直
浄く明るく正しく素直な誠の心。
○修理固成
・自然の恵みと祖先の恩とを大切に、感謝し、社会を豊かに幸せにすること。
○稽古照今
過去に学び、今の世の指針を見出す。
○大御宝(国民)の育成
・自律性を回復し、感性を豊かに、自立を支援すること。
・明日を生きる活力を引き出すために、五感を刺激する空間を提供すること。
・眠っている本来の力を引き出し、可能性を拡げること。
○中今
現在は、過去と未来を内包する永遠に続く中間点である。この一瞬一瞬をしっかりと捉え、自分に忠実に生きる。
○守破離
型を身に着け、守る。
型を哲学し自分にあった型を創り、破る。
型の哲学を通して自己を深く理解することで、自由自在になり、型から離れる。
○克己
敬内義外、浄明正直、誠実・素直・忍耐・感謝の心で、人間性を高め、自律し、自立する。
自律とは、自分で自分の未来をつくること。
自立とは、主役として自分の人生を生きること。

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