いいがおかはちまんぐう
飯香岡八幡宮
千葉県 八幡宿駅
社務所/8:30~16:30
飯香岡八幡宮を参拝しました。
Googleマップに神社の駐車場を目的地に設定して向かったところ、出入口が閉鎖されていました。神社裏側からは入れないようです。白金通りから神社正面を通り過ぎ公民館の手前の道を入ると駐車場に入れます。
この神社には有名な銀杏の木があります。
1本目は「逆さ銀杏」源頼朝が銀杏の木を逆さに植え、「この木もし活着せば大願成就せん」と源氏再興を祈願したと伝えられているそうです。
もう1本は夫婦銀杏。幹が2本に分かれているところからそう呼ばれるようになったそう。
木に気を取られて社殿の撮影を忘れました😭
御朱印のはさみ紙といただいたしおりに書かれている言葉。「生日足日」は「吉日」、「報本反始」は「祖先の恩に報いること」
お書き入れで拝受しました。
逆さ銀杏
逆さ銀杏を反対側から
「逆さ銀杏」説明の看板
夫婦銀杏
「夫婦銀杏」説明の看板
御神水はお休みでした。
はさみ紙としおり。
飯香岡八幡宮(いいがおか~)は、千葉県市原市にある神社。上総国総社で、旧社格は県社。祭神は、誉田別尊(ほむたわけ:応神天皇)、息長帯姫尊(おきながたらしひめ:神功皇后:応神天皇の母)ほか7柱。
社伝によると、当社は古来六所御影神社といわれ、日本武尊が東征の際、当社で休息し、食事の飯の香りを称賛した故事により、御影山を「飯香岡(いいがおか)」と呼ぶようになったとのこと。飛鳥時代の675年には勅使・桜町季満と奉幣使・菅原時春が下向し、神殿を飯香岡に創建して誉田別尊ほか3神を奉斎した。奈良時代の759年に勅使により一国一社の八幡宮となり、国府総社とされた。以後、石清水八幡宮別宮の市原八幡宮とされ、平安時代末期の1180年、1189年には源頼朝が太刀や甲冑を寄進している。室町時代の1383年には足利義満が社殿改造、神輿4社を奉納、戦国時代の1591年に徳川家康が神領150石を寄進し、江戸時代には10万石の格式を与えられた。明治時代の近代社格制度では県社に列した。
当社は、JR内房線・八幡宿駅の北西200mの平地にある。海の潮の香りはしないが、地図上は東京湾にほど近い。境内はかなり広く、いろんな場所にいくつもの境内社があって、神社のデパート状態。さすが上総国総社であると感じさせてくれる。前年に房総を襲った台風でいくつかの境内社が壊れたようで、修復中になっていた。
今回は、上総国の総社、千葉県の県社であることから参拝することに。参拝時は週末の昼ごろで、自分以外にも参拝者を数人見掛けた。
境内の北西側にある境内入口。社殿も北西を向いている。
境内入口の<鳥居>と<社号標>。
横を見ると、池の上に真っ赤な<神橋>が架かっているのが見える。
木製の<六脚鳥居>。海に近いので水害対策のためか?屋根付き、登り龍の彫刻付きの立派な扁額には<八幡宮>の文字。
参道左側にある<手水舎>。
手水舎から<拝殿>を望む。シンプルな境内。
参道の左方向、少し離れたところにある<神楽殿>。
<拝殿>全景。朱色が映える。
<拝殿>正面。朱色に、黒い柱、白い彫刻、エメラルドブルーの彫刻と、こまめに刺し色が入っている。
扁額には<國府総社>と書いてあるのかな?三文字目が読めない...(^_^;)
拝殿の左手に進んで、真横から<社殿>全景。拝殿と同じぐらい大きい<本殿>。
拝殿の左奥にある<社務所>。御朱印はこちら。
社務所の前に立っている、源頼朝ゆかりの<さかさ銀杏>。平安時代末期の1180年、源頼朝は石橋山の戦いに敗れ、房総半島に逃げて来ていたが、当社が源氏と縁が深い石清水八幡宮の別宮であったため、頼朝が源氏再興を祈願し、その際銀杏を逆さに植えたと伝わる。結果、銀杏は根付き、源氏も無事再興されたとのこと。
拝殿の裏手にある、黄色の鳥居が目立つ<六所御影神社>。実は飯香岡八幡宮が鎮座する以前から当地に存在していて、この<六所御影神社>の存在が飯香岡八幡宮が<上総国総社>の根拠となっている。
社殿の裏手にある<忠霊碑>。この後ろに境内社がいくつか並んでいる。
一番左の境内社。<○辺神社>と書いてある。達筆過ぎて読めない...
左から二番目の境内社。扁額には<宮○八幡宮>の文字。やはり読めない字が...
左から三番目の境内社は<天神宮>。字体が違ったので読めた。この右側は、台風で被害を受けたのか、修復中の<金刀比羅宮>。
一番右の境内社。
こちらでは鳥居があって、後ろには社殿がないが、、、
3つの石碑が立っていて、中央の石碑には<羽黒神社、出羽神社、湯殿山神社>、両側の石碑には<月山、羽黒山、湯殿山>と書いてある。出羽三山信仰の場ということらしい。
こちらの鳥居には、<浅間神社>の扁額。
小山には、浅間大神の石碑など、多くの石碑が立っている。
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