ずいしんいん|真言宗善通寺派|牛皮山
隨心院(随心院)京都府 小野駅
午前9時〜午後4時半
本堂には、本尊如意輪観音坐像、定朝様式の阿弥陀如来像(重文)、快慶作金剛薩た像(同)を安置。ここは小野小町邸跡といわれ、小町作と伝える文張地蔵や化粧井戸、文塚などがある。唐棣(はねず)の梅があり、3月最終日曜に‘はねず踊り’と観梅の催し。梅の名所。
真言宗善通寺派の大本山の寺院。山号は牛皮山。本尊は如意輪観世音菩薩。開山は小野流の開祖として知られる仁海僧正。寺紋は九条藤。当寺の位置する小野地区は小野氏の根拠地とされ、随心院は小野小町ゆかりの寺。
特別拝観ということもありら狩野派の絵師によって描かれた襖絵も間近で拝見することができまし。木の幹の描きかたとかも二条城の狩野派の襖絵が男性的だとすると随心院は女性的で小野小町にあった優しいタッチのように感じました。
御本尊も間近で拝見でき、如意輪観世音菩薩様が生きているようでとても神々しかったです!
表書院「能の間」に飾られている襖絵「極彩色梅匂小町絵図」です。2009年に納められた、こちらの作品は、「生誕の図」「饗宴の図」「伝承の図」「夢幻の図」の4つから構成されており、小町の生涯を描いたものとされているそうです。
京都市山科区にあるお寺です。
山号は牛皮山
宗旨宗派は真言宗善通寺派
寺格は大本山
ご本尊は如意輪観音
です。
小野小町ゆかりの寺として有名です。
小野小町には、深草少将の淡い恋物語が伝わります。(私は知らなかったのですが)
その際、榧の実に糸を通して深草少将の百夜通いを数えていたと伝わります。
その榧の実が残されていました。
また、文張地蔵の中には恋文がびっしりつまっているそうです。
小野小町に届けられた、実らなかった恋文を供養するためだそうです。
さすがに絶世の美女だけのことはある。
境内にある小町堂へは入ることができませんでした。
襖絵が美しすぎて見入ってしまいました。
御朱印帳も小町デザインのもので、女性には大人気間違いなしと思いました。
当山は、真言宗善通寺派の大本山であり、弘法大師より8代目の弟子にあたる仁海僧正の開基にして、一条天皇の正暦二年(西暦991年)奏請して、この地を賜り一寺を建立されました。古くは牛皮山曼荼羅寺と称されました。仁海僧正一夜の夢に、亡き母が牛に生まれ変わっていることを見て、その牛を鳥羽のあたりに尋ね求めて、飼養しましたが、日なくして死に、悲しんでその牛の皮に両界曼荼羅の尊像を画き本尊にしたことに因んでいます。牛尾山は仁海僧正が牛の尾を山上に埋めて、菩堤を弔ったと伝えられています。
又、仁海僧正は深く宮中の御帰依を受け、勅命により、神泉苑(京都御池大宮西)に請雨の法を九回もおこない、その度に霊験にあって雨が降ったので、雨僧正とも称されました。
その後、第五世、増俊阿闍梨の時に、曼荼羅寺の子房として、隨心院を建立し、ついで第七世、親厳大僧正が、寛喜元年(西暦1229年)後堀河天皇より、門跡の宣旨を賜り、以来隨心院門跡と称されています。堂舎も次第に整備され、七堂伽藍は壮美を誇っていましたが、承久應仁の兵乱にあってことごとく灰となってしまいました。
その後、慶長四年(西暦1599年)に本堂が再建され、以後九条二条両摂家より門跡が入山し、両摂家の由緒をもって寄進再建されました。
名称 | 隨心院(随心院) |
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読み方 | ずいしんいん |
参拝時間 | 午前9時〜午後4時半 |
参拝料 | 500円 |
御朱印 | あり |
限定御朱印 | あり |
御朱印帳 | あり |
電話番号 | 075-571-0025 お問い合わせの際は「ホトカミを見た」とお伝えいただければ幸いです。 |
ホームページ | http://www.zuishinin.or.jp/ |
絵馬 | あり |
SNS |
真言宗十八本山 第11番 | 御本尊:如意輪観音 |
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京都十三仏霊場 |
ご本尊 | 如意輪観音、阿閦如来 |
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山号 | 牛皮山 |
宗旨・宗派 | 真言宗善通寺派 |
創建時代 | 991年(正暦2年) |
開山・開基 | 仁海僧正 |
文化財 | 木造阿弥陀如来坐像、木造金剛薩埵坐像、絹本着色愛染曼荼羅図、随心院文書、紙本金地着色蘭亭曲水図八曲屏風2双(重要文化財) |
ご由緒 | 当山は、真言宗善通寺派の大本山であり、弘法大師より8代目の弟子にあたる仁海僧正の開基にして、一条天皇の正暦二年(西暦991年)奏請して、この地を賜り一寺を建立されました。古くは牛皮山曼荼羅寺と称されました。仁海僧正一夜の夢に、亡き母が牛に生まれ変わっていることを見て、その牛を鳥羽のあたりに尋ね求めて、飼養しましたが、日なくして死に、悲しんでその牛の皮に両界曼荼羅の尊像を画き本尊にしたことに因んでいます。牛尾山は仁海僧正が牛の尾を山上に埋めて、菩堤を弔ったと伝えられています。 又、仁海僧正は深く宮中の御帰依を受け、勅命により、神泉苑(京都御池大宮西)に請雨の法を九回もおこない、その度に霊験にあって雨が降ったので、雨僧正とも称されました。 その後、第五世、増俊阿闍梨の時に、曼荼羅寺の子房として、隨心院を建立し、ついで第七世、親厳大僧正が、寛喜元年(西暦1229年)後堀河天皇より、門跡の宣旨を賜り、以来隨心院門跡と称されています。堂舎も次第に整備され、七堂伽藍は壮美を誇っていましたが、承久應仁の兵乱にあってことごとく灰となってしまいました。 その後、慶長四年(西暦1599年)に本堂が再建され、以後九条二条両摂家より門跡が入山し、両摂家の由緒をもって寄進再建されました。 |
体験 | 仏像御朱印重要文化財花の名所有名人のお墓札所・七福神巡り |
概要 | 随心院(ずいしんいん、隨心院)は、京都市山科区小野御霊町にある真言宗善通寺派の大本山の寺院。山号は牛皮山。本尊は如意輪観世音菩薩。開山は小野流の開祖として知られる仁海(にんがい)僧正。寺紋は九条藤。当寺の位置する小野地区は小野氏の根拠地とされ、随心院は小野小町ゆかりの寺としても知られる。小野小町と深草少将の淡い恋物語を綴った。 |
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歴史 | 歴史[編集] 随心院は、そもそもは仁海(954年 - 1046年)が創建した牛皮山曼荼羅寺(ごひざんまんだらじ)の塔頭であった。 仁海は真言宗小野流の祖である。神泉苑にて雨乞の祈祷を9回行い、そのたびに雨を降らせたとされ、「雨僧正」の通称があった。曼荼羅寺は仁海が一条天皇から小野氏邸宅の隣を寺地として下賜され、正暦2年(991年)に建立した寺である。伝承によれば、仁海は夢で亡き母親が牛に生まれ変わっていることを知りその牛を飼育したが程なく死んだ。それを悲しみその牛の皮に両界曼荼羅を描き本尊としたことに因んで、「牛皮山曼荼羅寺」と名付けたという。なお、これと似た説話は『古事談』にもあるが、...Wikipediaで続きを読む |
アクセス | 交通アクセス[編集] 地下鉄東西線の小野駅から東へ徒歩5分程度 京阪バス 隨心院下車 ヤサカバス(醍醐コミュニティバス) 隨心院前下車 |
行事 | 年中行事[編集] 年間行事および境内の花の季節[注 1] 1月:修正会 2月:常楽会 3月:観梅会 3月最終日曜日:はねず踊り 4月:桜、シャクナゲ、霧島つつじ 5月16日:開山忌 5月:平戸つつじ、さつき 6月:杉苔、のうぜんかずら 8月:お盆 施餓鬼会法会 9月:放生会:敬老の日 10月:小品盆栽展、土砂加持法会 11月:小町祭(ミス小町決定)、紅葉ライトアップ、小町忌 毎月行事[1] 毎月1日・5日:清瀧権現社月並法会 毎月1日・16日:歓喜天浴油供(お聖天さん) 毎月17日:写経・写仏奉納法会 随時行事[1] 写仏 ・ 写経 は随時受付 引用エラー: 「注」という名前のグルー...Wikipediaで続きを読む |
引用元情報 | 「随心院」『ウィキペディア日本語版』。 この版のURL:https://ja.wikipedia.org/w/index.php?%E9%9A%8F%E5%BF%83%E9%99%A2&oldid=102579979 |
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